纏屋書店の裏噺
縁
【雨障ーあまつつみー】 壱 未曾有ーみぞうー
昔から、小さい村や街を襲う未曾有の災害といえば、流行り病や戦と言った
天災鎮め、頼るは
当時の人々は理解が出来ぬ、人知の及ばぬ天災を超えて厄災と揶揄される災害を鎮める為、神に祈り、神に頼った。各地民間伝承や個人宗教が生まれ、広まった原因にして
これは、どこにでもある古びて寂れた寒村で起こった不思議な雨乞いに纏わる物語である。
◯
‐
かつてその呪法を使って雨乞いを行った男がいた。神道を学び扱う家柄の直系でこそ無かったが呪術に呪法、
一人の男を除いて。
とある年の梅雨前。未曾有の大干魃が村を襲うことになった。日を待てど、陽を跨げど振らぬ雨。
梅雨がどれ程の規模になるかわからぬこの村の住民が行う稲作は
成す術も、打つ手も無くなった後、頼る先はこの村に唯一あった神社にて雨乞いをしてくれるよう頼む他無くなった村人たちは真っ先に、男に縋った。
端的に言おう。結論から言おう。
雨乞いはものの見事に成功した。不思議なことに、不可思議な程に。それはもはや不可解と言っても良いがこの時、男を初め村人は眼の前の雨に、奇跡が
仏教に端を発した雨乞い呪術。祈雨法・孔雀経転読‐が齎した雨は、止むことを知らず。
最初こそ、喜び。神からの恩惠を享受していた村人達だったが、止まぬ雨に感心が不審に取って代わり始める。雨乞いの雨から梅雨の雨に切り替わったのではないか?と無理矢理にでも紐づけ納得こそしていたが、梅雨入りを経て梅雨明けの時期を過ぎ。夏本番となっても村の空には雨雲が広がり雨を降らせ続けていた。
不審な心は邪推を生む。
村民は雨乞いを行った男を疑い、策略・謀略だと決めつけ村八分。それだけに留まらず探し出し罵倒、付け回しからの嫌がらせ。遂には農具や棒を手に男を引っ張り出して全身を殴打し撲殺まがいな仕打ちを行った。田畑広がる
気が晴れたのか、村人は男をその場に捨てて去っていく。晴れたのは気持ちだけで天は晴間を見せることは無かった。
人と雨に叩かれた男の体は重い。立ち上がる気力と体力は殆ど無くなっていたが行かねばならない場所があった。行きたい箇所があった。
現宮司を筆頭とし、阿久津家が支え仕える神社である。痛々しい打撲痕が覆う体と、重い心を引きずり一人畦道を進む。雨で視界は悪く、
名にもある、真宵と真黒が広がる山の中に続く獣道、否。除け者道に入って行く男の影は闇に覆われ、完全に無くなっていた。一体どれ程歩いだだろう、こんなにも長い道のりだっただろうかと
「ええ加減にしてくれ…。もう、雨など見とぉないのじゃ…。鬱屈した気持ちしか浮かんでこぬ儂の心ごと、鬱陶しい。まっこと鬱陶しい。儂が何をした…民の願いを叶えたこの身、称えられこそすれ恨まれる道理も、筋合いも無いはずじゃ…。のぉ、水天様よ…。」
鬱憤は溜まっていた。けれど、男は叫ばなかった、叫べなかった。叫ぶ喉はもう殆ど殴られ潰れかかっていたからだ。大声を出せば最後。喉は裂けて口から出るのは言葉ではなく血だ。こんな喉などもういらぬ。捨ててやる、くれてやる。そう思い一息に叫び、絶死してしまいたかったが出来なかった。煮えたぎる怒りは雨水では冷めぬ。たかだか天から降る雨如きで冷めるわけもないが男の怒りが"死をも
どれ程出来た男なのだろう。人が書く物語では、人の読みたい物語ではいの一番に報われるべき人間として、あてられても可笑しくはない男である。
だか、これは怪異伝承であり、妖怪奇談の類である。そう、慈悲など無い。慈愛など無い。救いの手どころか出された手はどれを取っても、どこから見ても悪手そのものだ。救い無しの山道を進み見えてきたのは、見慣れた鳥居。それは男の目指していた場所、水天周神社だった。本来、村からはそう遠くは無いが、殴られまともに歩くことも出来ない手負いの男にとっては無慈悲な程に長く険しい道のりと言っても過言ではなかった。木々が繁茂する山の中、雨に濡れた体で登る
1段登るごとに骨が
残り3段。足が滑り
残り2段。掛ける手の爪が剥がれた。
残り1段。上げた顔に写った境内には数匹の獣が居た。
様な気がした。そう、男は石階段を上りきり鳥居を抜けて境内の真ん中まで来た後やっと、意識を手放したのだ。
どれぐらい気絶していたのだろう。男の意識を戻したのは冷たい雨と全身を未だ尚襲う
「あぁ、そうか。居場所を無くした野犬の群れが境内に入ってきたのか。儂を目当てに…。食われるのだな…この儂は…。」
月は雲と森に隠され、月明かりは一筋すらも入らない雨夜はいつにも増して暗い。闇の中から男を見る野犬の姿は判然としない。ただ数匹、否、数十匹の野犬の牙が光源もない中、不気味に光るのみである。
そして、一匹が飛びつき牙を右腕に突き立てた事をきっかけとして、野犬群れは一斉に男の体を喰らいにかかる。人の世話を受けぬ、人の慈悲を貰えぬ野犬共の飢えは
力なき者は、人であろうと悪魔であろうと、そして神であろうと。この山では等しく命を
境内の中。降る雨音に混ざり、自身の肉が裂かれ食い千切られる音を聞きながら男は何を思うのか。何も思えぬ程に体を、そして心を。書いて字の通り心神喪失と共に
腹部は脂が無くなり、みえた
もう、凡そ顔と認識できない程の有り様になって尚、男は死ぬ事が出来ずにいた。体が痙攣する程の激痛の中、僅かに残っていた憐憫の情すらも消え、村人への怨恨が取って代わり恨み言を無い口で漏らす。
「恨めしい、あぁ、恨めしい。呪うてやる…村が死に、廃れるその日まで呪うてやるぞ…。」
その言葉が、そんな救いの無い、無さ過ぎる無常を纏った恨み言が、水天周神社に生まれた秀才を超えた天才の最後の言葉となる。
後に
雨が、止んだ気がした。
◯
水天周神社の境内の中心に肉の塊とかした、かつて阿久津家の天才と
「君の恨みは
先生ならそういいますね、きっと…。と一人、肉塊に語りかけて和装の
「ー
その言葉が放たれたと同時、地に溶けるように男の死体は徐々に黒く粘度の高い泥に変わり、ゴポリゴポリと気泡を吐く。周囲に潮の臭いが漂い始めた。それは男の肉体を覆い、更に大きい泥の塊に湧き上がり蠢きながら異形となっていく。その異臭を放つ
その化物の両手はいつの間に関節も増え、繋がる骨の一本一本が人間の物でも、もはや動物のものでも無い程伸びているようで、その長さに皮膚は耐えられなかったのだろう。裂けて伸びた肉と筋がミシミシときつい音を立てて小刻みに震えている。悔しさの余り土を握った指は折れ、その間から指が増えて七本になっていた。
潰れた顔を隠すように、異常に伸びた首の先にある顔には小面の面が貼り付いて、目が赤く光り、左右から血が流れている。その怪物はゆっくりと夥しい数の足を動かし神社から出て、村に向かおうと足を進め、鳥居に片手をかけた時。境内の中奥にある本殿の扉が勢いよく開いて、鎖の付いた巨大な
声が聞こえる。声のみが聞こえる。あの青年の声が。
「黒闢は先生固有にして唯一。という訳ですか。他人の術理は学べど、呪法そのものを”取り”扱う事は叶わないようだ。」
纏わりつく湿気とは打って変わってひとりごつ、その爽やかな声の持ち主である、和装の青年の姿はもう其処にはない。
ただ小雨が降り続けているのみだった。
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