転生したらダンジョンのある世界だったので、一旦冒険者になってみます。

夜部ユウ

序章

第1話 英雄の死に様

——雨が降っている。



雨粒が頬を伝い、肌に触れるはずの冷たさすら遠のいていた。



膝を突いた地面はぐしょりと軟らかく、泥と血と焦げた肉片が混じり合い、まるで腐敗の川みたいだ。




肺の奥まで染み込む空気は、黒く濁った煙と魔素の臭気を運び、咳とともに肺を焼くように疼いた。


視界の先端から先端まで、文字通り地平線のように広がる悪魔の死骸。



四肢を引きちぎられたもの、頭蓋が抉られたもの、灰燼と化してぼろ布のように崩れたもの。



ひとまとめの塊の中に数を探り出すことなど不可能に思えたが、戦闘中の俺は何度も数えざるを得なかった。



(最後に殺したのを含めて2万3412体――それだけの地獄を、俺一人で殺しきったのか…。)



黒煙はときおり竜巻のように渦を巻き、雨粒を吸い込みながら不規則に舞い上がる。


その中心で、まだ魔素を残す骸たちが微かに光を放ち、焦がれた硫黄の匂いと混ざり合う。


慣れた匂いのはずなのに、今日はやけに胸がむかつく。胃の奥が波打ち、唾を飲み込むのもつらい。



「……あぁ……やっと……やっと終わった……のか?」


唇がひび割れ、言葉は震えながらも溢れ出す。


俺の声は乾いた空気に掠れ、破片のように周囲に散らばっていった。


問いかける相手は誰でもない。空に問い、雨に問い、死体たちに問いかける。




この街の人たちは――無事に避難所へ辿り着けただろうか?


対魔特軍の連中は――あの混乱の中、誘導の指示を最後まで守れただろうか?


俺がここで命を削った時間が、ほんの少しでも“未来”に繋げれればいいが——。



「リュカ達は……対魔特軍の連中は……みんなを逃がせたかな……」


返ってくるのは、雨が地面を打つ音と、死骸の重みで小石や骨片が転がる微かな音だけ。


世界は静寂に戻りつつある――しかし、ここで息絶えた者の名を知る者は、きっと誰もいないのだろう。



◇◇



ここは避難都市アガートラム



かつて魔族の侵攻を受けた対魔都市から逃れた人々が、壁と門に囲まれた細い路地や石畳を造り上げた。


人口は一万人ほど――だが、外の荒野からは一歩も息を潜めたような、静かな佇まいを見せている。




空は薄曇り。白みがかった灰色の雲がゆっくりと流れ、かすかな風が細かな砂埃を撫でていく。


市場通りには木製の屋台が軒を連ね、新鮮な野菜や香辛料、布製品の鮮やかな手触りが、今日も平穏を示していた。



俺、水野光は対魔特軍の対魔特特攻部隊隊長――隊長とだけ書けば重々しいが、実態はまぁそこらの人より多少力が強い程度だ。


淡い緑色の布でできた兵士のマントを肩に掛け、右手には近所の露天で買った《カプアの実》を一つ。



──まずは皮を軽く剥き、果肉の繊維がほろほろ崩れる感触を楽しんで…。口に含んだ瞬間甘酸っぱい汁がすっと広がって、後追いでほのかな渋みが舌先をくすぐる。まさに市井の幸せだな。


この果物にだけは、いつも救われる気分だった。



だが、その幸福も、背後から響いた鈍い衝撃音で途絶えた。


「うおっ!?」


思わず反射的に身体が跳ね、カプアの実を落としそうになる。振り返ると、目の前に立っていたのは幼馴染のリュカだった。



彼女の金髪は穏やかな波打ちを帯び、一束だけ三つ編みに巻き込んだリボンが風に揺れている。


額にかかる前髪は柔らかなカーブを描き、透き通るような陶器肌を彩る。——身長は160センチ台半ばだろうが、すらりとした肢体から醸し出される存在感は、小柄さを忘れさせるほどだった。


「へへ、びっくりした?」



リュカは両手を腰に当て、軽く肩をすくめる。声は明るく、けれどどこか日常の隙を突いたようないたずら心がにじんでいた。



「あぁ、心臓が二秒止まったぞ……。カプアの実も、今にも逃げ出すとこだった」


「それは大変! でも光の心臓より、カプアの実の方が大事そうだね」

「否定はしない」



そんな軽口を叩きつつ、二人で市場を抜け、石畳の広場へ向かう。


通りの向こうでは、八百屋の店主が元気にセリフを叫び、行商人が木箱を積み上げている。


青果の香りと木香が入り混じり、空気は穏やかそのものだ。


「そろそろお昼の時間かな?」

「だろうな。市場はこの時間が一番賑わうし……ほんと、今日も平和だ」


その言葉を口にし終えた刹那、街全体を貫く鋭い警報音が鳴り渡った。



――《緊急避難アラート発令、直ちに市民の皆様は避難を》


戦塵を知らぬ市民たちの表情が、一瞬にして蒼白に変わる。


屋台の上の帆布がパタパタ揺れ、叫び声と足音が一斉に噴き出した。


荷物を抱えて走り出す者、立ち尽くして硬直する者。市場の喧騒は、恐怖に塗り替えられていた。



「リュカ! 避難誘導頼む! 俺は守護の門の様子を見に行ってくる!」


胸の奥で何かが弾け、俺は咄嗟に叫び声をあげた。リュカは一瞬耳を澄ませたあと、真剣な面持ちで頷る。


「わかった! でも、無理は禁物だよ!! 絶対だよ!!!」

「……あぁ、わかってる」



「皆さん落ち着いて!!対魔特軍のリュカです!!必需品のみ持参し、隣接している避難所に向かってください!」


軽口を再び返したものの、自分の声音はいつになく硬かった。

背中越しに広がる市場の混乱を振り切り、俺は踵を返して走り出す。



——俺は市場の混乱を背に、細い裏道を駆け抜けた。


石畳の隙間に水たまりができ、長靴を濡らしながらも、心臓が激しく跳ねるのを抑えきれない。


目指すは守護の門。門を閉じれば住人の退路は確保できるが、その場に立つ限り、俺は“特攻隊長”として働き続けなければならない。



門にたどり着いた瞬間、俺の全身の血が凍った。


外側の門前には数人の兵士の亡骸が転がり、その奥の開閉装置――大きなハンドル式レバーは、大岩をぶつけられ潰れ、歯車も鎖も粉々になっていた。


「嘘だろ……壊されてる──」


肩越し、視線の先に――黒い影の塊が、地響きを伴ってゆっくり近づいてくる。


遠方に見える点が、やがて数万と数えたくなる黒い悪魔の大群へと変貌しながら。


目の前で手を尽くしていた数人の兵士たちはただ、レバーに張りついたまま身体を揺らし、震え声で「動かない…」「どうすれば…」と呟いている。



「てめぇら、いつまでその場にへばりついてるんだ!」


怒鳴る俺の声は、澱んだ空気を切り裂いた。

兵士たちはハッと我に返り、肩をビクビクさせる。



「今すぐ防衛櫓に戻れ! そこで観測による避難経路の確保だ。お前らの仕事は“俺が門を閉じた後市民を守る”こと以外にない!」


一瞬の沈黙の後、兵士たちが慌ただしく動き出す。狼狽していた足取りが、命令を受けてまっすぐに櫓へと向かう。


振り返ったリーダー格の兵士が敬礼にも似た姿勢で、「了解しました!」と叫び、残りの仲間を叱咤しながら拳を握る。



──ここからは俺の仕事だ。


俺はぐっと息を吸い込み、歯車の残骸に手をかけた。全身の筋肉を意識の限りで駆動させ、レバーの根本に力を込める。

「──今だ!」


響く金属の断末魔。砕け散る鎖。

ズシンと身体を押し戻されながらも、俺は腕の力が尽きるまで引き切った。



門が軋み、重厚な扉がこの瞬間を待っていたかのようにゆっくりと閉じ始める。


背後の大群は黒い影を揺らし、咆哮を上げながらも――門の向こう、街の安全な空間と俺を引き離していく。


「閉まった……」


肩越しに、潰れゆく門と向こう側の混乱を確かめてから、俺は深く息を吐いた。


重厚な門が完全に閉じると、鎖は勢い余って切断音とともに飛び散った。


レバーは粉々に砕け、歯車は砕け散り、二度と開くことはない。住人たちの退路は確保された。


だが同時に、俺の居場所も封じられた。門のこちら側に残されたのは、俺ひとり。


振り向いた瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げた。門越しに見える空には、濁った雲の裂け目から薄紅の夕陽が漏れている。


まるで神が「さあ、やれ」と命じるように光を差し込んでいた。



「……リュカごめん。約束守れそうにねぇわ」


俺は軽く唇を噛み、手袋の指先を確かめた。


刃先が黒色のナイフと赤色の石がはめ込まれた長尺のハンマーを携え、戦闘体制を取る。



「…今度こそ死ぬかなぁ」

ぽつりと言葉が漏れる——がその答えはわからない。


黒色のナイフを左手に、長尺のハンマー――赤く輝く魔石がはめ込まれたそれを右手に構え、俺はゆっくりと前進を始めた。



眼前には波のように押し寄せる黒い異形の軍勢。数百、いや数千の悪魔共が門の向こうで震える唸りを上げ、濁った空気を揺らしている。



「オオオオオオオオオオ!!!」

思わず喉から引き絞った雄叫びを上げ、俺は一気に駆け込んだ。


──最初の一撃。

ハンマーを振りかぶり、巨大な角を持つ悪魔の頭蓋を叩き潰す。


鈍い音とともに頭蓋が砕け、血が泥と混ざって地を這い、相手の身体はバウンドしながら後方へ崩れ落ちた。


──すぐに二撃目。

続けざまに飛び込んできた悪魔は、尖った牙を剥き出しに俺の腕を襲う。


本能で左手を下ろし、ナイフの刃先をその顎に突き立てる。

刃が骨に当たる“カキン”という硬い手応えを感じた瞬間、手首をひねり──頭ごと引きちぎった。

血管が弾ける音が耳朶を打つ。



──三撃目、四撃目、五撃目。

ハンマーを振るうたびに、地面にひびが走る。


ナイフを振るうたびに、空気が刃音を伴って裂ける。



だが、後ろを振り返れば、そこにはまた新たな黒い影。


一匹倒すごとに一歩前進し、数を減らすはずの軍勢はまるで乾いた砂が風で舞い戻るように、絶え間なく押し寄せてくる。



全身の筋肉は悲鳴をあげ、呼吸は千切れそうだ。

ハンマーの柄は汗で滑り、ナイフの刃は血で曇って視界を遮る。



それでも――それでも、俺は立ち止まれない。


「やめられるかァァァッ!」

渾身の拳を、最後の一体の頭に叩き込む。


砕けた頭蓋が泥に埋まり、泥の中から泡立つ血が光を散らす。



しかし、その先に見えたのは、なお続く無数の黒いシルエット。

終わりの見えない死闘は、まだ幕を下ろしてくれない。


俺の背後では門の影が揺れ、街の安全だけがかろうじて守られている。



──ここで倒れれば、誰も生き延びられない。

絶望の渦を胸に、俺は再びナイフとハンマーを構えた。


「行くぞクソ共……!」



◇◇



「けひっ……。やれば出来るもんだな」


俺は泥と血と悪魔の残骸が混ざり合った地面にへたり込み、肺の奥から息を吐いた。



空はまだ雨を降らせている。冷たいはずの雨粒が、今は妙に心地よく感じる。


地面に背を預けると、全身の痛みが一斉に主張を始めた。筋肉は裂け、骨は軋み、皮膚は焼けるように熱い。



皆の元へ帰ろうと立ち上がろうとする。だが力が入らない。


指先が鉛のように重く、膝は震え、視界は波打つように歪んでいく。


胸元から流れ出る血が、じわりと地面に染みていく。


その温かさが、まるで布団のように俺を包み込む。

眠気が、静かに、しかし確実に意識を飲み込もうとしていた。



──そのときだった。



視界の端に、異様な影が揺らめいた。


ぼんやりとした輪郭の向こうに、四体の異形が立っていた。



いずれも三メートルを優に超える巨躯。

漆黒の鱗に覆われた筋肉質の身体、鋭利な爪が光を吸い込み、角と翼の先端が雨粒を切り裂いている。


その姿は、今まで見てきた悪魔とは明らかに違っていた。


「お前、よくこの数の悪魔共を一人で捌いたな」


一体が口を開いた。

その声は地を揺るがすような低音で、鼓膜をえぐるような共鳴を伴っていた。


「まさかこれ程の人間が居るとは、ここを攻めて正解だったな」

乾いた笑いを含んだ声が続く。

俺は、驚愕した。


──今まで、言葉を交わす悪魔など見たことがなかった。


その異質さに、思考が一瞬で覚醒する。

記憶の片隅で、リュカの笑顔がフラッシュバックする。


(コイツらは今ここで殺さなければ……街が……リュカが死ぬ……!)


震える手を伸ばし、泥と血にまみれたナイフとハンマーを拾い上げる。


朦朧とした意識の中、俺は最後の力を振り絞り、一番近い上位悪魔の頭蓋をかち割ろうと跳びかかった。



──だが。


「ふむ、やはりまだ動くか」

その声と同時に、悪魔の腕が振り下ろされる。

雷鳴のような衝撃が俺の右腕を襲い、骨が砕ける鈍い音が響いた。


腕は鉄のように硬い何かに噛み砕かれ、そのままぐにゃりと裂け血糊とともに垂れ下がる。



(その程度で、俺が止まると思うか……ッ!!)


怒りと使命感だけを糧に、俺は引きちぎられた腕を無視して立ち上がろうとする。


だが、上位悪魔たちはどこからともなく、禍々しい槍を取り出した。



槍先は黒く、脈動する魔素が絡みついている。

その刹那、四方向から一斉に槍が突き立てられた。



胸を貫かれ、肋骨が砕け、内臓が引き裂かれる。

俺の身体は空へと弾き飛ばされ、血潮が弾ける。



肉が裂ける音、骨が砕ける音、皮膚が剥がれる音が、雨音と混ざり合って響く。


──俺の身体は、まるで玩具のように引き裂かれていく。



(……あぁ、ごめん、リュカ)

喉から漏れた言葉は、血に濡れて掠れていた。



「あいして──」

その言葉が終わる前に、悪魔たちは俺の身体に群がった。

爪で裂き、牙で噛み、骨を砕き、肉を引きちぎる。


ブチブチと、内臓が引き抜かれる音。

ズルズルと、筋肉が剥がされる音。

ゴリゴリと、骨が噛み砕かれる音。


俺の身体は、四体の悪魔によって、残酷に、無慈悲に、捕食されていった。



──そこで、俺の意識は途絶えた。

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