空虚な充実

奈良まさや

第1話

第一章 満たされない日常

群馬県伊勢崎市役所の三階、市民課。窓口に座る田原光一の眼差しは、今日も凪いだ水面のように穏やかだった。三十二歳、中肉中背。特徴のない容貌は、社会という大きな組織の中で波風立てずに生きる彼の人生を象徴しているかのようだった。丁寧な仕事ぶりは周囲から「真面目」と評され、その言葉を聞くたびに、光一の心には乾いた風が吹き抜ける。それは、彼自身が求める「自分」とはかけ離れた、表面的な評価に過ぎなかったからだ。

定時に上がる光一を見送る同僚たちの視線には、明らかな羨望が宿っていた。しかし、彼らが羨む「充実した生活」は、光一にとってはただの記号の羅列でしかなかった。スキューバダイビング、スノーボード、カメラ。SNSで「いいね」を集める華やかな日々。それらは確かに彼を満たしていたが、それはまるで、空腹を満たすために栄養剤を点滴しているような、味気のない行為だった。

アパートに帰り着き、冷蔵庫から取り出したビールの冷たさが手のひらに染み渡る。テレビのお笑い番組から響く笑い声は、光一の心に届くことなく、ただ空虚に部屋を満たしていた。チャンネルを変える指先は、まるで自分の人生を弄んでいるかのようだった。どの番組を見ても、そこに映る人々の感情や人生は、遠い異国の物語のように感じられる。光一は自分の人生を、まるで他人事のように冷めた目で眺めることが増えていた。「このまま六十歳まで……」。鏡に映る自分は、ただ呼吸をしているだけのマネキンのように見えた。その瞳の奥には、確固たる人生の目的も、燃え盛る情熱も、何も映っていなかった。


第二章 刺激への渇望

同期の結婚式は、光一の心に深く刺さる棘となった。新郎に肩を叩かれながら言われた**「早く良い人見つけなよ」という言葉は、祝福の言葉ではなく、彼の欠落を指摘する鋭い刃のように感じられた。何人かの女性と付き合った経験はあった。だが、どんなに魅力的な女性といても、心の奥底で感じる「何か」が満たされることはなかった。それは、彼自身がまだ見ぬ自分自身を求めているような、得体の知れない渇望だった。

仕事での感謝の言葉も、光一の心に響くことはなかった。社会貢献という言葉の響きは、彼の心に届くことなく、ただ虚空に消えていく。「俺は生きているのか、それとも生かされているだけなのか」。この問いは、次第に彼の心を蝕んでいった。

その空虚感を埋めるために、光一はより強い刺激を求めるようになった。スキューバダイビングでは、より深い海に、スノーボードではより危険なコースに。しかし、それらの行為がもたらすのは、一過性の興奮と、その後に訪れるより深い虚無感だけだった。それはまるで、渇いた喉を海水で潤そうとするかのような、絶望的な行為だった。


第三章 運命の漫画喫茶

残業で疲労困憊の光一は、ふと立ち寄った漫画喫茶で運命の出会いを果たす。壁一面に並ぶ漫画の背表紙の中から、血のように赤い文字で書かれた『DEATH GAME』のタイトルが、彼の視線を鷲掴みにした。その漫画の世界には、彼が日常で感じることのない、濃密な「生」が満ち溢れていた。命を賭けた極限状況の中で、登場人物たちが晒す絶望、希望、裏切り、信頼。それらは、光一の内に眠っていた何かに火をつけた。心臓が激しく鼓動し、今まで感じたことのない興奮が全身を駆け巡る。「これだ」。この言葉は、彼の魂が待ち望んでいた救いの言葉だった。漫画の結末で明かされない主催者の正体に、光一は確信めいた思いを抱く。「俺が主催者になれば良いんだ」。その言葉は、彼の内に秘められた狂気の扉を開ける鍵となった。


第四章 狂気の萌芽

『DEATH GAME』を読んだ夜、光一は一睡もできなかった。頭の中では、漫画のシーンが繰り返し再生され、彼の心を支配していく。翌朝、市役所の日常は、彼にとって異質なものとなっていた。同僚たちの会話は、遠い幻聴のように聞こえる。彼の意識はすでに、デスゲームという新たな「現実」の構築へと向かっていた。

昼休み、光一はデスゲームの企画を練り始める。参加者の選定、ルールの設定、会場の設営。漫画の世界が、具体的な計画として頭の中で組み立てられていく。「でも、捕まったら死刑だな」。その言葉を発した時、彼自身が驚くほど冷静な自分がいた。恐怖よりも、未知なる世界への興奮が勝っていた。「だったら参加者にもなれば良い」。この考えに至った瞬間、光一の中で何かが決定的に変わった。死の危険がある。それがどうした。今の死んだような日々を送り続けることの方が、よほど恐ろしかった。

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