第22話 一人でいるほうが

「さあ、今日の文化祭、めいっぱい楽しみましょうっ!」

 

 おー! と明るい大きな声に、高く掲げられる一人一人のこぶし。

 今日は待ちに待った文化祭だ。

 

 校門に立っている虹色のアーチをくぐって、たくさんのお客さんたちが校外からやってくる。

 普段の殺風景な廊下や教室からは考えられないくらい、校内のあらゆる場所が色とりどりに飾られて、自然と気分が高揚していく。

 あちこちから聞こえる笑い声や歓声に口もとがほころびる。

 飲食系の模擬店を開く教室からただよってくるこうばしい香りや甘いにおいが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

 

 巡回も兼ねて校内をひととおり見て回ってから、再び自分の受け持つクラスへと顔を出す。

 教室の外まで行列ができるほど、多くの人がクレープを買いに足を運んでくれていた。

 嬉しいことに大盛況だ。

 

 クレープを焼いている女子生徒に声をかける。


「お疲れさま。忙しそうだね」

「あっ、晴花ちゃん! もうずっと動きっぱなし! めっちゃ暑いよー」

「売り上げが好調だったら、あとでクラス全員にアイスをおごってくれるって勝馬先生が言ってたよ」

「えっ、ホント!? がんばるー!」

 

 俄然やる気を出す女子生徒。

 腕まくりをしてクレープを売る作業に戻っていく。

 ふいに別の女子生徒と目が合った。

 彼女は、こっちこっち、と手招きする。

 どうしたのだろうと首をかしげて裏方のほうへとまわると、彼女はクレープをひとつ差し出してきた。

 

「はいっ、チョコバナナクレープだよ! 晴花ちゃん、好きって言ってたでしょ?」

「わあ、くれるの? すごくおいしそうだね、ありがとう!」

 

 お礼を言って受け取り、すぐにぱくりとほおばる。

 チョコレートのまったりした甘さとバナナのさっぱりした甘さが口いっぱいに広がり、歩き回って疲れた体にじんわりと染み渡る。

 雨月になんと言われようと、やっぱり甘いものはおいしい。

 ああ、幸せ。

 

 少し生徒たちの様子を見ていたけれど、なにも心配はいらないようだった。

 調理も手際よく、接客も完璧で、回転率もよさそうだ。

 

 安心したわたしは、食べかけのクレープを片手に教室を出る。

 巡回係を他の先生と交代し、少し休憩をとることにした。

 いつもとは違う雰囲気の学校も楽しいけれど、慣れない環境にいるとやっぱり疲れてしまう。

 にぎやかな場所から離れて静かなところを探すため、特別棟の閑寂な階に行ってみようと思い立った。

 

 休憩場所を探して薄暗い廊下をさまよっていると、遠くのほうに一人の女子生徒の姿が見えた。

 

 特別棟は今日、展示場や模擬店には一切使われていない。

 お手洗いや休憩のために開放してあるため、一応出入りはできるのだけど、ほとんどの人が新しい棟にある綺麗なほうを使うから、わざわざ訪れる生徒はいないと思っていた。

 

 どうしたのだろうと様子をうかがっていると、

 

「……あれ?」

 

 ぽつりとつぶやき、目をこらす。

 よく見てみると、その生徒には見覚えがあった。

 

 ……似鳥さんだ。

 

 彼女だと気づいたその瞬間、反射的に廊下の曲がり角に身を隠す。

 べつに隠れる必要なんてないのだけど、勝手に体がそうしてしまったのだ。

 

 ふう、と息を吐き出す。

 それから、そっと廊下の陰から顔を出し、彼女の様子をうかがう。

 似鳥さんは、どうやら奥の教室から出てきたところらしかった。

 それから長いスカートをひるがえすと、結局彼女はそのまま廊下の奥にある階段から降りていってしまった。

 

 ほっとして胸を撫で下ろす。

 こんなところで対峙することになったら、またああだこうだと毒づかれてしまう。

 気にしないようにしようと思ってはいても、あんなに堂々とそしられれば気分が落ち込むのも当然だ。

 彼女から紡ぎだされる言葉はすべて敵意むき出しの憎まれ口だから、聞かなくてもいいものなら聞きたくなかった。


 ……とはいえ、彼女もこんなところでなにをしていたのだろう。

 似鳥さんもわたしと同じで、こっちの静かな特別棟で休んでいたのだろうか。

 

 不思議に思い、今、似鳥さんが出てきたばかりの教室の前まで足を運ぶ。

 なんてことはない、ただの空き教室だ。

 電気もついていなく、中には誰もいないみたいだった。

 

 たしかにここなら来訪者もそうそういないだろう。

 扉を横に引くと、からからと乾いた音がしてゆっくりと開く。

 そのときだった。

 

「……あ、」

 

 くちびるの端から声が漏れる。

 

 電気のついていない空き教室。

 ずらりと規則正しく並ぶ窓のそばに、もたれかかるようにして休んでいる一人の男子生徒を見つけた。

 ……雨月だった。

 

 雨月は窓の外からこちらへと、ゆっくり流れるような所作で視線を移す。

 わたしが来たことに驚いている様子はちっともなかった。

 わたしのほうがよっぽど驚いたと思う。

 心臓が急くように早鐘を打つ。

 

「……どうしたんですか。『水嶋先生』」

 

 わざとらしくわたしをそう呼ぶ雨月。

 自分がその呼び名を指定したくせに、胸の奥にちくりと棘が刺さったみたいに痛む。

 

「あ、ええと……ちょっと、休憩に」

 

 えへへとごまかすように笑うと、雨月は目を細めて「ふうん」と小さくつぶやいた。

 

 雨月の冷ややかな態度にますます気まずさを感じる。

 鼻を鳴らしたきり、それ以上はなにも言ってこない彼に、わたしは思わずきびすを返した。

 

「あ、わ、わたし、違う教室に……」

「いいよ」

 

 逃げようとした足がぴたりと止まる。

 肩越しにゆっくりと雨月を振り返る。

 

「……え?」

「いいよ、べつに。……ここにいて、いい」

 

 小さな声に、こくりと息を飲む。

 

 本当に、いていいのだろうか。

 雨月は、わたしがいて嫌じゃないんだろうか。

 そんなことを考えて黙っていると、雨月はこっちをちらと見て、


「そっちが嫌なら、おれが出ていくけど」


 と不機嫌そうに言った。

 

 わたしは雨月に向き直り、慌てて首を横に振る。

 嫌じゃない。

 嫌なわけない。

 

 少しためらったけれど、わたしはぽつりと「……ありがとう」とつぶやいて教室に入った。

 

 おそるおそる窓に寄りかかる雨月の近くへ行き、隣に並んでそっと外を眺める。

 この場所から見えるのは、あのにぎやかな校庭とは正反対の、誰もいない裏庭の寂しい景色だけだ。

 開いた窓からは、明るいBGMや楽しそうな声が遠く霞んで聞こえる。

 

 時計の秒針が一周するくらいの沈黙のあと。

 こっそりと雨月の顔色をうかがいつつ、聞く。

 

「うづ……夏野くんは、どうしてここに……?」

「疲れた。……知ってるだろ。おれが、ああいう雰囲気が嫌いなこと」

 

 こちらを見向きもせずに雨月は即答する。

 そうだね、と小声で返事をした。


「でも、準備はがんばってくれてたね。雨月が色塗りした看板、上手だった。目立ってたよ」

「やらなかったら、またあいつらに文句を言われそうだから、やっただけ」

「……うん。でも、みんな助かったと思う。雨月、創作向いてるよ。むかしから手先が器用だもんね」

「べつに、どうだっていい」


 またそっけない返事だ。

 これ以上の会話することを拒んでいるみたいに感じる。

 わたしは眉を落として、小さくうなずいた。

 

 窓の外に視線を移し、遠くを見つめる雨月。

 それから、息苦しさを堪えるように静かなため息を吐き出した。


「祭りは嫌いだ。おれは一人でいたいのに、楽しそうな声を聞いてると、一人でいることをおかしいって言われてるみたいに感じる。……一人って、そんなに変なのかな」


 たぶん、それは、独白だった。

 わたしに向けて言った言葉じゃない。

 幼いころから、殻に閉じこもりながら、ずっとそうやって思ってきたのだろう。


 雨月の心の中の声を聞き、くちびるをそっと噛む。

 それから、わたしはふにゃりと笑みを浮かべた。

 

「でも、今日はずっと一人だったわけじゃないんでしょう?」

 

 その問いに、雨月は視線をわたしに移す。

 眉間に何本ものしわを寄せ、ひどく機嫌の悪そうな表情を作った。

 

「……どうして」

「さっき、似鳥さんがいたよ。ここから出てくるところ、見ちゃったんだ」

「…………」

「だから、きっと、二人で一緒にいたんだと、思って……」

 

 暗い雰囲気にならないようにわざと明るい声で話していたのに、最後のひとことだけは声が震えてしまった。

 もしかしたら笑顔もなくしてしまっていたかもしれない。

 

 雨月はむっと顔をしかめると、ふいとそっぽ向いた。

 

「水嶋先生には関係ない。どうだっていいだろ」

 

 返ってきた答えが痛いくらいに冷たくて、胸がずきりと痛む。

 

 なにを話していたんだろう。

 なんで一緒にいたんだろう。

 そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回っているのに、なにも聞けない。

 わたしにはそれを聞く権利はない。

 ……雨月が言うように、わたしには関係のないことだから。

 

「……そ、か」

 

 うつむいて、あごを引くように小さくうなずいた。

 もう、雨月からの返事はない。

 

 しんと静まり返る教室の中、そっと雨月の横顔を盗み見た。

 人ひとり見あたらない裏庭の空を、じっと見つめるふたつの瞳。

 前髪で隠された双眸は、どこか寂しさを隠しているようにも見えた。

 空はこんなに青く澄みきっているのに、雨月の心にはまるで冷たい雨が降り続いているようで。

 ……わたしが、そうさせたのかな。

 

「……少しだけでも、出し物を見てきたら? せっかくの……高校最後の、文化祭だよ」

 

 そっと問うと、雨月はゆるゆるとかぶりを振る。

 

「ここにいるほうがいい。晴れた空の下に出るのは苦手だ」

「うん……。でも、きっと楽しいよ」

「そうは思えない。一人でいるほうが落ち着く」

 

 淡々とした答えに、わたしはなにも言えなくなった。

 雨月から視線を外し、目を伏せる。

 小さくため息をついたあと、食べかけのクレープを静かに口に運んだ。

 

「……なに食べてるの?」

 

 突然の声に顔を上げると、雨月が呆れたような顔つきでこちらを見ていた。

 慌ててもぐもぐと咀嚼し飲み込む。

 それからクレープをついと差し出した。

 

「あ、ええと、これはチョコバナナクレープ。うちのクラスの模擬店のだよ。さっきクラスの子が作ってくれて」

「……おいしい?」

「え? う、うん、おいしいよ。……食べてみる?」

 

 聞いてくるということは食べたいのかと、上目遣いで問いかける。

 しかし雨月は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それからふいと顔をそらして窓の外に目をやった。

 

「いらない」

 

 つっけんどんな態度で返ってきた、たったひとことだけの返事。

 そのあとすぐに雨月の耳がふわりと赤く染まっているのを見て不思議に思ったわたしは、首をかしげながら、またクレープにぱくりとかじりついた。

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