第10話 赤い瞳の高座な件
紗音が初高座に上がる。初高座は緊張するものだ。師匠が父親であり落語に幼い頃から触れていた私ですら緊張した。
ましてや紗音は元々緊張しいだ。落語にもこの世界に来てから知り、あくまで私との繋がりを求めて始めたもの。努力はしていたけれど最後までセリフを言えれば御の字。一笑いでも来たら上出来だ。どうあれ高座から下りてきたらそれだけで褒めてやろう。
そう思っていた……。
『えー、本日は沢山のご来場ありがとうございます。日暮や夕紗の弟子で紗音と言います。本日は初めての高座という事で拙い点もあるかと思いますが何卒よろしくお願いいたします』
「お、いいじゃん」
正直なところ最初の挨拶でカミカミになってしまう事まで想定していた。それが思ったよりも落ち着いていて客席をちゃんと見回して挨拶をしている。もちろん事前にアドバイスはしていたが最初はそれすらできないものだ。これだけで100点あげてもいい……って甘すぎるかな。
この落語会のお客さんはいつも温かいからニコニコしながら聞いてくれているのもありがたい。
『小児は白き糸の如しなんて事を申しましてお子さんというものは大変可愛らしいものでございます。皆様にもお子さんはいらっしゃいますでしょうか?』
「ん……?」
紗音が教えていない前振りをしている。教えているのは小児は〜可愛らしいものでございます、までだ。そこから糸の色の小噺に入るはずが客席にお子さんがいますかと問いかけている。あまり初高座から教えていない事を言うのはよろしくない。まぁ教えていない事を言ってはいけないと言うことを教えてなかったが。まぁ後で注意をしないと……。
『私ですか? 私はもちろん子供が……いるわけないでしょうこの歳で。私がまだまだ子供です』
自分に子供がいるか問われての返し方。これは聞き覚えがある。左ん太師匠が子供が出てくる落語の前にふる『私に子供ですか……おりません。私が子供です。五つですから』というボケのやり方だ。五十歳の師匠が五歳の子供だというボケ。紗音は十二歳相当だから本当に子供でまた別の意味にもなるがあの前振りをアレンジしたのか……?
しかし先ほどから紗音の前振りの完成度が高すぎる気がする。努力していたとはいえこれは……。ただでさえノリのいいお客さんは大いに笑っていた。
『どうも隠居さんこんちはー』
『おお、誰かと思ったら八っつぁんかい。今日はどうしたい?』
『いえね、あっしん所にガキが産まれましてね……』
紗音はまくらでいい雰囲気を作ってから落語に入った。『寿限無』の導入は大変に落ち着いていてとても初高座には思えない。何より気になったのは流れるような上下の切り方だ。
落語で人物分けをする時に右を向いて、左を向いてとする事を上下を切ると言う。慣れていないうちはこの上下がぎこちなくなりがちだが今の紗音の切り返し方はあまりに自然。流れるように首が振られ人物が切り替わっていく。かの名人である右平次師匠を思い起こさせる。もちろん完全再現できているわけじゃない。まだ荒さも見えるが……。
『寿限無 寿限無 五劫のすり切れ 海砂利水魚の 水行末、雲来末、風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助がトラちゃんの頭を殴ってコブを拵えったてのかい。ちょいっと待ってな。おい、婆さん。うちの寿限無 寿限無 五劫のすり切れ 海砂利水魚の 水行末、雲来末、風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助ちゃーん、学校行こう』
『あらよっちゃんごめんなさいねぇ。まだうちの……』
寿限無の友達が朝迎えにきて長い名前を呼ぶ場面。出迎えた母親が友達にまた寿限無の名前を言い返すのだが、余裕がないとすぐに名前を連呼してしまう。ここで紗音はほんの少しの間を取った。客席も名前がくるのはわかっているがこの間で笑いが起きる。
『寿限無寿限無……』
笑いが起きてからまた寿限無の長い名前を言い立てる。間を取る事によって噺のおかしさは倍増する。笑い待ちの間。ただこれは高等テクニックだ。
「初高座の前座のレベルじゃないな……」
私は思わず呟いていた。確かに夜通し過去の映像を研究するなど努力しているのは知っていた。だけど一朝一夕の努力でここまでできるもんじゃない。見た物を全て引き出して再現しているようだ。
それからも紗音は熟練の名人のような、時には勢いのある若手真打のような、落語の中で様々なテクニックを見せつけ客席を完全に支配していた。紗音がいつにない顔を見せる度にその瞳が赤く輝いていた。あれはまるで……。
『あんまり名前が長いからコブが引っ込んじゃった』
紗音が『寿限無』のサゲを言ってお辞儀をする。割れんばかりの拍手。初高座のお祝いだけじゃない。その高座があまりにも見事だったから自然と大きな拍手になったのだ。私の初高座ではあんな事はできなかった。いや、私だけじゃない。殆どの人にはできない。それを私の異世界でのカノジョで今は弟子の紗音が……いや、あれは……。
「師匠、勉強させていただきました」
高座から降りてきた紗音はそう言うとペコリと頭を下げた。次の出番の私は高座へ向かおうと紗音とすれ違い、やはり振り返り紗音に尋ねた。
「あんた……紗音じゃない……。あんたは……魔王……?」
紗音は一瞬目を瞑ってからすぐ目を開く。
「お久しぶりね」
紗音、いや、目の前のソイツの瞳は赤く輝き、金色の髪はいつの間にか黒く染まっていた。
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