FILE.02:パニックの町

<午後12時42分 M町商店街>

 怪物と化した男性は、私たちを見つけると、四つん這いになって近づいてきた。人間とは思えない動きだ。


「車に乗ってください!」


 私は女性の手を引き、自分の車へと走った。男性――いや、もはや怪物と呼ぶべきか――は想像以上に素早く、私たちの後を追ってくる。


 車のドアを開け、女性を助手席に押し込み、自分も運転席に飛び込んだ。次の瞬間――


 ドンっ!


 怪物が車のボンネットに飛び乗った。フロントガラス越しに見える顔は、もはや人間のものではない。


 エンジンをかけ、急発進する。怪物は車から振り落とされ、アスファルトに転がった。バックミラーで確認すると、それでも立ち上がり、車を追いかけようとしている。


「大丈夫ですか?」


 助手席の女性――後で聞くと佐藤美智子さとう みちこさん(58歳)という名前だった――は震え声で答えた。


「ありがとうございます。でも、主人は、主人はもうダメなんでしょうか…?」

「それは……」


 私には答えられなかった。代わりに、スマートフォンの録画機能を確認し、佐藤さんに詳しく話を聞いた。


「ご主人の様子がおかしくなったのは、いつ頃からですか?」

「今朝の六時頃です。起きてから、なんだかボーッとしてて。朝食も食べないで、ずっとうめいてました。それで、お昼前に突然――」


 佐藤さんの証言によると、夫の虎太郎こたろうさん(62歳)は三日前から軽い発熱があったという。しかし、夏風邪だと思い、特に病院には行かなかったそうだ。


「虎太郎さんが最近、変わったことをしたとか、どこか出かけたということはありませんでしたか?」

「そういえば、一週間前に友人とキャンプに行きました。奥秩父の方だったと思います」


 ――キャンプ

 ――山間部


 何かの手がかりになるかもしれない。私は頭の片隅に記憶した。



<午後1時15分 M町役場前>

 佐藤さんを親戚の家に送り届けた後、私は町役場へ向かった。しかし、そこで目にしたのは想像を絶する光景だった。

 役場の駐車場に、十数台の救急車とパトカーが停まっている。職員らしき人々が慌ただしく動き回り、担架で運ばれていく人の姿が見えた。


「すみません、記者なんですが、現在の状況を――」


 声をかけた職員は振り返ると、疲労困憊といった表情だった。


「記者さん? こんな時に――。町長は対策本部にかかりっきりで、今は誰も取材に応じられません」

「現在、何名ぐらいの方が、その、症状を――」

「正確な数は分かりませんが、少なくとも二十名以上です。しかも増え続けています」


 職員の話では、朝から異常行動を示す住民が次々と報告されているという。共通するのは、最初に発熱と頭痛、その後意識混濁を経て、最終的に理性を完全に失うということだった。


「最初の患者さんはどなたでしたか?」

山田健作やまだ けんさくさんです。四日前に症状が現れて、町立病院に運ばれました。でも――」


 職員の表情が暗くなった。


「山田さんはもう、手の施しようがない状態です。完全に人格が変わってしまって……」



<午後1時35分 町立病院へ向かう途中>

 病院へ向かう道すがら、私は町の異様な状況をより詳しく観察した。

 メインストリートの半分以上の店がシャッターを閉めている。開いている店も、店主らしき人物が入り口付近で不安そうに外を見張っていた。

 住宅地では、いくつかの家から叫び声や物を投げつける音が聞こえてきた。中には、庭で家族と思われる人々が、家の中にいる誰かに向かって必死に何かを叫んでいる光景もあった。


「お父さん、分かって! 私だよ、真奈美まなみだよ!」


 若い女性の泣き声が風に乗って聞こえてくる。しかし、家の中からは、獣のような唸り声が返ってくるのみだった。

 私はその場面をスマートフォンで録画した。これらの映像は、後の検証で重要な資料になるだろう。


 道中、私は首筋の蚊に刺された部分を無意識に掻いていた。少しかゆみが増してきたような気がしたが、夏の虫刺されとしては当然のことだと思っていたのだが……



<午後2時00分 M町立病院>

 病院に到着すると、そこは戦場のような状況だった。


 救急車が次々と到着し、担架で運ばれる患者たち。その多くが拘束具で縛られ、異常な叫び声を上げている。付き添いの家族は皆、絶望的な表情を浮かべていた。


「すみません、報道関係者なんですが?」


 受付で声をかけると、看護師は困惑した表情を見せる。


「今はとても取材を受けられる状況では……」


 その時、病院の奥から激しい物音が聞こえてきた。何かが壁に叩きつけられるような音、そして人間とは思えない咆哮。


「あの、最初の患者さん、山田健作さんについて教えていただけませんか? この病気の原因を突き止めることが、治療法の発見につながるかもしれません」


 私の真剣な表情に、受付の看護師は少し考えた後、奥に声をかけた。


「野々村さん、ちょっと」


 現れたのは、二十五歳ぐらいの女性看護師だった。疲労の色は濃いが、しっかりとした意志を感じさせる瞳をしている。


野々村梨恵ののむら りえと申します。山田さんを最初に診察した者です」


 彼女こそが、この謎の病気の真相に最も近い人物かもしれない。


「詳しい話を聞かせていただけませんか? これは単なる取材ではありません。この病気の拡散を防ぐために、情報が必要なんです」


 野々村看護師は少し躊躇した後、小声で答えた。


「分かりました。でも、ここでは話せません。休憩室でお話しします」


 病院の廊下を歩きながら、私は自分の体調に微妙な変化を感じ始めていた。軽い頭痛と、何となくだるさが襲ってきたのだ。


 しかし、それが夏の疲れなのか、それとも――そんなことを考える余裕は、その時の私にはなかった……


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