第三十二話

 北の森にも、ようやく春の息吹が本格的に訪れていた。

 季節はすでに半ばを過ぎ、長く閉ざされていた雪の帳が静かに幕を引くように、森全体に柔らかな光が差し込んでいた。

 木々の隙間から漏れる日差しは、まるで冬の眠りから目覚めを促すように暖かく、地面に積もった雪を静かに溶かしていく。

 深い木陰にはまだ白い雪が名残惜しげに残っていたが、陽光の届く斜面では、土がその黒褐色の顔を覗かせ、そこから小さな芽吹きが頭をもたげていた。

 凍てついた空気は緩み、代わりに湿った土と若葉の香りが鼻先をくすぐる。

 鳥たちのさえずりも次第に賑やかさを増し、生き物たちが再び世界を彩り始めていた。

 それは、厳しい冬を乗り越えてなお脈打つ生命の証であり、力強く新たな季節を告げる、確かな“再生”の気配だった。

 けれど、俺の左耳にはまだ冬の爪痕のような痛みが残っていた。

 あの時の戦い――ホーンラビットの突進をかろうじて避けたが、受けた傷は浅くはなかった。

 鋭く切り裂かれた左耳の感触は、今でも鮮明に記憶に刻み込まれている。

 そんな俺の傷に、ユユがそっと手を添えてくれていた。

 慣れていないながらも、真剣な眼差しで薬草を塗りこむ彼女の様子は、まるで儀式のように神聖に思える。

 薬草の香りが鼻先をくすぐり、冷たさがじんわりと傷に沁み渡る。

 痛みは、少しずつ、でも確かに引いていた。

 そして俺の中に、もう同じ傷を負わないための決意も、静かに芽生え始めていた。

 「ワンワン(ドリュアは色々な魔法が使えるけれど、流石に治療魔法は覚えていないんだな)」

 そう口にすると、ドリュアは静かに頷いた。

 彼の強力な魔法をもってすれば、俺の傷など瞬く間に治りそうなものだが、どうやら彼も万能ではないらしい。

 しかし、治療魔法がなくとも、彼は俺を救ってくれた。

 その事実が、何よりも心強かった。

 仲間が隣にいてくれる。

 その温かい支えが、俺の心と体をゆっくりと癒やしていく。

 左耳の治療が終わり、ユユがそっと手を引いたとき、俺はほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 あの戦いの傷が、今こうして癒えていくのは、仲間たちのおかげだ。

 その瞬間、空からひらりと黒い影が舞い降りた。

 林の梢のあたりから、まるで風のように舞ってきたのは、スツコ。

 彼女は迷いのない軌道でユユの腕へ着地し、かつてのように羽ばたきで体勢を崩すこともない。

 小さな翼は、もう立派な“翼”として彼女の体を支え、空を駆ける力を持っている。

 スツコはもう雛鳥ではない。

 今や立派に空を飛び、遠くを見て、必要とあらば森の向こうまで自力で行けるようになった。

 その様子を、ユユは誇らしげに、でも優しく微笑みながら見つめていた。

 まるで、遠くへ羽ばたく子を見守る母のように。

 「カァカァ!」

 スツコの喜びの鳴き声に、ユユも満面の笑みで応える。

 最近のユユの一番の楽しみは、スツコが空を飛び回り、その視覚情報をユユが共有することだった。

 スツコの眼差しを通して、ユユは森の木々が連なる壮大なパノラマや、遠くまで見渡せる景色を心ゆくまで味わっているのだ。

 地上では得られない、鳥の視点からの景色に、ユユはいつも夢中になっていた。

 二人の間に育まれた深い絆が、世界を広げている光景だった。

 傷の回復を待つ間、俺は来るべき次の戦いに思いを馳せていた。

 あのホーンラビットの突進をギリギリでかわした経験、そして自分の血が目に入り、片目が見えなくなったあの瞬間。

 あの出来事は、俺の戦い方に対する認識を大きく変えた。

 そして最近俺が考えていることは、回避だけでなく、正面から受ける防御も強くなりたいということだ。

 当然、最善の策は敵の攻撃を一切受けないこと、基本は回避だ。

 かの有名な“当たらなければどうという事はない”という精神は、どんな状況でも大事だと今も信じている。

 しかし、この身を以て、いくら最善を尽くしても、完全には避けきれない状況があることを知った。

 もしそんな時、身を守る術がなければ、命はない。

 全くの無防備なのも事故のもとである。

 生きてユユとドリュアの元へ帰るためにも、俺は受けるという選択肢もまた、強力な武器として手に入れるべきだと考えていた。

 ドリュアが何やら熱心に作業をしている傍らで、俺は少し様子を伺ってから声をかけた。

 「ワンワン(ドリュア、ちょっと相談があるんだが、今暇してる?」

 彼は手を止めず、淡々とした口調で返事をよこす。

 『暇ではありませんが、話を聞きましょう』

 「ワン(悪いな、作業中、んで、相談なんだけど、俺専用の防具を作りたいんだよ)」

 俺の言葉に、ドリュアの手がピタリと止まる。

 そしてゆっくりとこちらを向き、訝しげな視線を向けた。

 『防具ですか?ヘルメットやアーマーのようなものの事ですか?』

 その時、会話に割って入るように、ユユが瞳を輝かせて駆け寄ってきた。

 『ユユもかっこいいヨロイほしい!』

 ユユの腕に舞い降りていたスツコも、「カーカー」と、ユユに同意するように鳴く。

 「ワァウワウワン(いや、ユユはまだ早いし、スツコはヨロイ着たら飛べなくなるよ)」

 『ですが、犬が防具を着るなど見た事も聞いたこともありませんよ』

 「ガウガウ(俺は狼だ!だけど俺の記憶の中の知識には動物に服を着せる人間がいたんだよ、それに、今回俺が考えているのはキチンとしたアーマーとか皮のヨロイじゃなくて、左の肩だけでも隠せるマントのような、ショルダーアーマーのようなものでいいんだよ。)」

 俺は力強く主張し、具体的なイメージを説明した。あの時の左耳の傷を二度と負わないために。

 『うむ、動物の防御服ですか、面白いですね、少し興味がわきました。

物づくりを面白がっている精霊に頼んでみましょう』

 ドリュアの瞳に、知的好奇心の光が宿ったのを見て、俺は小さく息を吐いた。

 「アウガウワオン(すまないドリュアよろしく頼む!)」

 これは、俺の戦い方に新たな選択肢を与えるはずだ。

 俺は、頭の中で温めていた理想の防具像を、興奮気味にドリュアに伝えた。

「ガウガウワンワン(マントの様に纏う形になると思うけど、ホントは左肩にスパイク付きのショルダーアーマー付けれたらかっこいいけどなー)」

 俺の提案に、ドリュアは表情を変えることなく、淡々と否定した。

『そんな攻撃的な防具などありません』

 冷たい現実を突きつけられても、俺の情熱は消えない。

「ワォン(いや、無いからこそ新しく挑戦してもいいと思わない?)」

 誰もが不可能だと考えるからこそ、実現した時の価値は大きい。

 俺はそう訴えかけるが、ドリュアは冷静な視線で俺を見つめる。

『そもそもその仔犬の体にどうやってつけるのですか?』

「ガウワオン(狼だし、大きくなったら付けれるはずだし)」

 俺は、将来の自分に期待を込めて答える。

 今はまだ幼いが、いずれは森を支配する堂々たる狼になるのだ。

『今はマントで十分です』

 ドリュアの揺るぎない言葉に、俺は反論の余地を見つけられなかった。

 それでも、俺の心の中には、未来への確かな期待が残っていた。

 そんな事を話しながら俺はワクワクし、装備が出来上がるのを待つのだった。





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