第二十八話
昨夜は珍しく雨が降っていたが、朝には雨は止んだ。
しかし、厚い雲が低く垂れ込め、日差しは遮られ、森の中は薄暗いままだった。
暖かな日もあれば雨も降る、そんな冬と春の狭間の季節感が、どこか重い雰囲気をさらに深くしていた。
スノーフォレストスパイダーとの死闘から帰還した後、親カラスの躯を運び、大樹の木の近くにある、日当たりの良い丘の上に埋葬した。
この世界における死者の弔い方や宗教観については、俺はまだ何も知らない。
だから、万が一のことがあってはと、ドリュアにここに埋めて問題ないかと確認を取った上で、土葬を選んだ。
白く広がる雪の合間に、新たに盛られた土の塊が、親カラスの最期の場所として、はっきりと刻まれた。
親を亡くした雛カラスの深い絶望は、ユユの感覚共有能力によって、ダイレクトに幼いユユの心へ流れ込んでいた。
その影響は大きく、しばらくの間、ユユは明らかに元気をなくし、その小さな体は、まるで悲しみに打ちひしがれているかのように見えた。
だが、ユユの心には、それを乗り越えるだけの純粋な優しさと、秘めたる強さがあった。
ある朝、彼女はまっすぐ前を見据え、小さな声で、しかし確固たる決意を表明したのだ。
「ユユがおかあさんになる!」
その日から、ユユの態度は一変した。
雛カラスの傍を離れることなく、時には慰めるように羽を撫で、時には未来への希望を語りかけるように励まし、そして時には、自立を促すように厳しく叱ることもあった。
言葉を超えたユユの感情共有能力は、雛カラスの心に深く届き、二人のコミュニケーションを円滑にした。
そうして、時が経つにつれ、血縁関係などまるで関係ないかのように、本物の親子の絆が、二人の間に確固たるものとして築かれていった。
俺は、雛カラスを新しい家族として、心から大切に思っていた。
ユユと雛カラスが寄り添い、確かな絆を育んでいる様子を見るたび、俺の胸にも温かい感情が広がる。
この小さな命が、悲しみを乗り越え、健やかに育っていくのを助けたい。
そう強く願っている。
しかし、その温かい気持ちのすぐ隣には、常に冷たい後悔の念が張り付いていた。
あの瞬間、親カラスが俺の目の前で牙を受け止めたあの光景が、何度となく脳裏に蘇る。
俺の咄嗟の判断ミスが、あのカラスの命を奪ったのだ。
その拭い去れない自責の念が、俺の心を縛り、雛カラスに歩み寄ろうとするたび、その足を止めてしまう。
俺は、この子の親を死に追いやった張本人だ。
そんな俺が、この子にどう接すればいい?
可愛がる資格など、あるのだろうか?
自らに課したその重い問いが、俺を自縄自縛にし、雛カラスとの距離を測りかねたまま、苦悩の日々を過ごさせていた。
そんな自問自答を繰り返す、出口の見えない日々。
俺は、このまま懊悩し続けても何も変わらないと、心の奥底で確信した。
いや、そもそも、変われないのは、俺の力が、あまりにも足りないからだ。
守りたいものを守れず、大切な命を失わせた不甲斐なさ。
俺自身がもっと強くなければ、同じ過ちを繰り返すだけだ。
そう痛感した俺は、迷いを振り払い、ドリュアの許可を取り付けて、森へと狩りに出かけることを決めた。
これまでの戦闘経験から、俺は骨身に沁みて理解していた。
ただ単に爪を研ぎ、牙を剥き、攻撃や回避の技を洗練させるだけでは、この異世界で生き抜くには不十分だ。
真に重要なのは、どんな予期せぬ困難な状況に陥っても、
瞬時に最適な判断を下し、最も効果的な手段を選択できる頭の回転の速さ。
危機的状況において、この思考の速度こそが、生と死を分ける肝となるのだ。
あのスノーフォレストスパイダーとの戦いで、その痛烈な事実を身をもって味わったからこそ、俺は今日から、日々の修行を通して、この戦闘時の判断力を徹底的に鍛え上げていくことにした。
その瞳には、かつての迷いとは異なる、新たな決意の炎が宿っていた。
冷たい森の空気を肺いっぱいに吸い込む。
俺は、その場で静かに集中した。
「……スゥゥ……クンクン……」
嗅覚無双。
その能力を起動させると、普段の何倍もの情報が、微細な匂いの粒子となって俺の鼻腔をくすぐる。
周囲の環境が、まるで高精細な地図のように、脳裏に寸分違わず描き出される。
木々の種類、土の湿り具合、遠くを流れる小川さえも、嗅覚情報と結びついて理解できた。
その情報の中で、特定の刺激臭が俺の注意を引いた。
紛れもない魔獣の気配だ。
俺は、足音を立てぬよう、雪を踏みしめながら、ゆっくりとその匂いの下へ近づいていく。
やがて、開けた場所に現れたのは、一頭のホーンラビット。
警戒心は高いが、動きは比較的単調だ。
俺は静かに、しかしその内側には激しい決意を秘め、そのホーンラビットを今日の修行相手に選んだ。
以前、初めてその姿を見た時には、威圧感のある体躯に圧倒されたものだが、今では俺と奴の体格に、それほどの差は感じられなくなっていた。
俺自身が、確実に成長を遂げている証拠だろう。
しかし、奴の頭部から突き出た鋭利な角は、相変わらず見る者に底知れぬ恐怖を感じさせる。
その切っ先が、常に俺の命を狙っているかのように思えた。
それでも、俺は退かない。
今回は、親カラスの件で痛感した己の未熟さを克服するための修行だ。
だからこそ、俺は奴の正面に立ち、あえてその攻撃を迎え撃つ覚悟を決めた。
ホーンラビットは、俺を視界に捉えるやいなや、即座に臨戦態勢を取った。
その逞しい後ろ脚に、見る見るうちに力が込められていく。
地面を蹴る寸前の、あの独特な予備動作。
まさに、全身をバネのようにして突進してくる直前の状態だ。
俺もまた、その一挙手一投足を逃すまいと、神経を極限まで研ぎ澄ませた。
全身の毛が逆立ち、研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚が、森のあらゆる情報を拾い上げる。
次に起こるであろうわずかな変化も逃すまいと、俺は息をひそめ、その時を待った。
――きた!
ホーンラビットは、その巨体を低く構え、狙い済ましたかのように一直線に突進してきた。
その頭部の角は、まるで槍のように俺の心臓を狙っている。
だが、その動きは俺の読み通りだった。
俺は、冷静に最小限の動きで、危なげなく右方向へ回避する。
身体強化された肉体が、俺の意志に寸分たがわず反応した。
回避と同時に、俺の右前足が鞭のようにしなり、奴の突進の勢いを殺すように、
その角の側面へと叩きつけられた。
バシン!という衝撃音と共に、ホーンラビットはバランスを崩し、
その顎を雪に深くめり込ませながら、その場で勢いを失った。
この隙に、と俺は素早く奴の背後に回り込み、
剥き出しになった後ろ足目掛けて爪を振り下ろす。
しかし、魔獣も伊達ではない。
俺の爪が届く寸前、奴は咄嗟に前へと大きく跳躍し、俺の攻撃範囲から脱したのだ。
俺の爪は虚しく雪煙を上げ、雪面を深く抉った。
反撃の機会は、一瞬の間に訪れる。
今度は、俺の番だ。
ホーンラビットが、体勢を立て直そうと振り向きざまに重心を移した、
その隙を狙って、俺は勢いよく突っ込んでいく。
奴も再び俺に向かって突進してきたが、先ほどのような勢いはなく、首を横に振って角でのなぎ払いを繰り出してきた。
読み通りだ。
この角の横なぎ攻撃は、首を振ることで行われるため、
その角の先端が持つ攻撃力の範囲内ではなく、
その内側へと深く潜り込めば、危険は大幅に減少する。
そうだ、恐怖を捨て、覚悟と度胸一発で、その危険な間合いに飛び込むことができれば、こちらの有利な状況を作り出せるのだ。
俺は、一瞬の躊躇もなく、さらに加速して奴の首元へと潜り込み、両手の肉球でその顔面を力強く押さえつけ、首の振りを完全に止める。
そのまま、渾身の力を込めた両手の爪で、奴の顔面を切り裂いた!
ザクッ!
確実に肉を裂く手応えが、掌に伝わる。
「――よし!奴の左目を切り裂いた!」
鮮血が飛び散り、ホーンラビットは怯んだように呻き声を上げた。
視界を奪った今、この戦いの主導権は完全に俺にある。
後は、奴の左目の死角を徹底的に突き、息の根を止めるだけだ。
ホーンラビットは、視界の半分を失ったことで、完全に冷静さを欠いていた。
それでも俺は油断せず、一瞬の隙も与えない。
慎重に、しかし確実に、奴の息の根を止めるための攻撃を畳み掛ける。
最後の止めは、俺にとって最大の課題である噛みつきだ。
親カラスの犠牲を無駄にしないためにも、克服すべき壁だった。
ホーンラビットの首筋に牙を突き立て、顎の力を込める。
温かい血潮が、ドッと口の中に流れ込み、その独特の味が舌に広がる。
――ウゲェ……ヤッパリ、慣れねえ……
生々しい鉄の味と、内臓の匂いが混じり合い、本能が拒否反応を起こす。
それでも、俺は食いしばった。
これを乗り越えなければ、真の強さは手に入らない。
いつでも、どんな獲物にも躊躇なく噛みつけるようになるまで修行を続ける。
その先に、噛みつきそのものが能力となる未来を見据えて。
ホーンラビットが完全に絶命したことを確認した後、俺はすぐに嗅覚を使い、周囲の安全を確認する。
血の匂いは、危険な引き金になりかねない。
幸い、今のところ、他の魔獣の気配は感じられない。
この場所から早く立ち去り、仕留めた獲物を持ち帰らなければ。
このホーンラビットは、ユユと、そして新たに家族となった雛カラスへのお土産だ。
彼らが待つ、大樹の寝床へ。
家族のために狩り、家族のために持ち帰る。
そのシンプルな使命感が、俺の心を温かく満たしていた。
それは、もう二度と後悔しないための、小さな一歩だった。
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