第十四話

 サラスが嵐のように去ったあの日から、洞の入り口から見える景色は、一層白く、そして厳しく変化していった。

 元々雪に覆われた森だが、今は降る雪の量が増え、踏みしめる足音が雪に吸い込まれるほどに深く積もっている。

 朝目覚めて外に出ると、空気は肌を刺すように冷たく、鼻の奥がツンとするほどだ。

 この寒さは、じわじわと体力を奪っていくような、質の変化を感じさせる。

 荒れ狂うような吹雪に見舞われる日はまだ少ないものの、空はどんよりと重く、いつ雪が降り出してもおかしくない気配が常に漂っている。

 木々は雪をたっぷりと抱え込み、その姿は水墨画のように静かで美しい。

 厳しい季節へと移行しつつある、静かな冬の序章が、そこにはあった。


 洞の中は、以前のような静けさを取り戻し、俺たちの生活は滞りなく続いていく。


 俺は相変わらず、ユユと共にドリュア先生から異界語を学ぶ毎日だ。

 俺の狼としての本能的には少し退屈だったが、知識を吸収していく感覚は、人間だった頃の俺を思い出させ、どこか懐かしさを覚えた。


 勉強の合間には、ユユと共に野山を駆け巡った。


 ダイエットもかねて、俺たちはまるで運動会でも始まったかのように、雪の中を駆け回った。

 転げ、滑り、跳ね回り、粉雪を舞い上げながら無邪気に遊ぶ。

 時にはユユと追いかけっこをして、細い足で必死に逃げる彼女を、俺が鼻先すれすれで追いかける。

 捕まえたときのドヤ顔を見せれば、すぐさま反撃のユユパンチが飛んでくる。


 時には、森の木々の間にちらりと姿を見せるリスやキツネを見つけては、どちらが先に追いつくかと競争するように全速力で駆け抜けた。

 ただ、本能と遊び心のままに体が勝手に動くのだ。

 そんな時、ユユは小さな手を振り上げて「まて、まってー!」と叫びながら、俺のあとを笑顔で追いかけてくる。


 雪の上では、俺の肉球パンチとユユのちっちゃな拳がぶつかり合う。

 もちろん手加減は忘れない。

 お互いの腕や足を軽く甘噛みしあって、取っ組み合うようにじゃれ合う。

 気づけばどちらかが雪に埋もれ、もう一方が得意げに胸を張る。

 子狼の兄妹が喧嘩ごっこをしているような、そんな時間が日常になっていた。

 その様子を、ドリュアはいつも少し離れたところから静かに眺めている。

 ふわりと浮かんで自慢の口髭をいじりながら、雪の上に足をつけずに漂い何も言わずに見守っていた。口数は少ないが、彼の視線はどこか優しく、少しだけ呆れたようでもあった。


 そして、俺は嗅覚を磨くための修行も続けた。

 サラスも驚いた「嗅覚無双」という能力。

 まだその全容は掴めていないが、これが俺の唯一無二の武器になることは間違いない。

 洞の外に出ては、雪の上に残された足跡をたどったり、風に乗って流れてくる微かな匂いを識別しようと試みたりした。

 最初はただの遊びの延長だったが、日を追うごとに俺の嗅覚は研ぎ澄まされていく。


 修行の結果、俺の嗅覚は驚くべき進化を遂げた。

 風に乗って漂ってくる匂いの情報から、それが魔獣の群れなのか、それとも一匹で行動している魔獣なのかを判別できるようになったのだ。


 これは、この世界を生き抜く上で、とてつもない強みになるだろう。

 俺は、自身の成長を実感し、密かに胸を張った。



 嗅覚の修行は、俺に確かな自信を与えてくれた。


 次なる目標は、後天的能力、特に戦闘技術の習得だ。

 中でも、森で最も頻繁に見かける魔獣、ベビーホーンラビット、略してベビラビを安全に狩れるようになることが、当面の課題だった。


 ベビラビは小さな体躯に似合わず、そのまだコブのような角による突進は侮れない。

 俺は、突進してくるベビラビを寸前で回避する練習を繰り返した。

 風を読み、匂いを嗅ぎ分け、奴らの動きを予測する。


 最初は何度もかすり傷を負ったが、訓練を重ねるごとに、その回避精度は格段に上がっていった。


 同時に、回避しながら爪を使った切り裂き攻撃の練習も行った。

 狙うはベビラビの脇腹や脚。

 素早く間合いを詰め、肉球に隠された鋭い爪で一閃する。

 

本当は、噛みつき攻撃のほうがもっと攻撃力がある――そんな予感もあるが、どうにもうまくいかない。


 食事として獲物を噛むことはできるのに、戦闘中となると、一瞬躊躇してしまうのだ。

 心理的な違和感がつきまとってしまうというか、どうしてもスムーズに攻撃へ繋げられないのが悩みの種だった。

 そんな俺の狩りの間も、ユユはいつも元気に応援してくれた。


「モコオつよい!さすがもこもこ!」


 意味はよく分からないが、八重歯を見せた満面の笑みのユユのその応援が、俺のモチベーションを上げ動きにもう一段ギアがかかる気さえする。

 頼れる兄貴分として、もっと強く、もっとたくましくならなければと、雪に足跡を刻み続けた。


 修行で倒したベビラビは、基本的に俺の食事となる。

 

 だが、一度の食事で食べきれない分や、修行中に仕留めた獲物の全てを消費できるわけではない。

 そこで、ドリュアがどこからか調達してきた小ぶりなナイフを使って、俺も手伝いながらユユと一緒にベビラビの解体作業を行うのだ。

 

 初めは血生臭さに戸惑ったが、生きるためには必要なことだと割り切った。


 解体された毛皮は丁寧に伸ばして干し、俺たちの寝床に敷き詰められた。

 ふわふわと暖かく、寒い夜でも快適に眠れるのだから、努力の結果はなかなかのものだ。

 

 肉はドリュアが魔法で急速冷凍し、かまくらのような天然の冷凍倉庫に備蓄していく。ひんやりとしたその空間は、獲物を新鮮なまま保存するのに最適だった。

 解体作業は、ユユも真剣な表情で手伝ってくれる。

 小さな手でナイフを使い、怪我をしないように慎重に肉を削ぎ、内臓を避けたり、毛皮を広げたりする姿は、まるで小さな職人のようだ。

 二人で協力し、獲物を無駄なく利用する。

 それは、この厳しい雪の森で生きていくための、大切な知恵であり、日課となっていた。


 最近では、ドリュアが魔法で火を起こし、肉を焼いてくれるようになった。

 じゅうじゅうと脂が弾ける音と、こんがりと焦げた肉の匂いが洞の中に広がり、ユユは目を輝かせながら肉にかぶりつく。

 どうやら彼女もすっかりその味の虜になってしまったらしい。


『おにくうまい!うさぎのおにくつよい!!』


 ユユが満面の笑みでそう叫ぶのを聞きながら、俺は焼かれた肉を口にする。

 ただ――できることなら、そろそろ塩や胡椒といった調味料のひとつでも欲しい。

 焼いただけの肉でも旨いには違いないが、現代人の舌を持つ俺としては、どうしても物足りなさを覚えてしまう。


 「ワンワンワオン……(狼の健康を害するおそれ? いえいえ、私、人間ですから大丈夫。)」


 そうドリュアに訴えるとドリュアは口髭をいじりながら。


『ワンコには贅沢ですが、ユユのために探すことを検討してみましょう。』


 そういって焼けた肉をユユの皿へと取り分けていた。


 そんな俺が時折生肉を食べる姿を見せると、ユユが涎を垂らして俺をロックオンしているのがわかる。


 しかし、生肉は危ないので、絶対に食べさせない。


もしかしたら食事中の俺の本能に任せて血肉を滴らせ貪る姿も、あまり教育上宜しくないのかもしれない。

 せめて、俺の背中を見て育ってくれるなら、もう少しこう、スマートで理知的な狼でありたい……


 ――まさか、血抜きしてない肉にハーフ蝙蝠人の種族特性とかが反応してるとか?

 いや、それでも生肉は食べさせちゃいけない。


 そんな、他愛のない日常が繰り返されていたある日のことだ。


 変わらずベビラビを相手に回避と攻撃の練習を繰り返していたのだが、いつもと何かが違った。


 敵の突進に反応して飛び退いた瞬間、自分でも驚くほどスムーズな動作が出たのだ。


 体が、頭の指示よりも早く動いた……というより、判断も含めてすべての動作が、あらかじめ計算されていたかのように最適だった。

 いつものように身をひねった瞬間、世界が一段階スローになったように感じた。


 いや、実際にはそうじゃない。

 俺の動きが、意識よりも一瞬先に完成されていたのだ。

 思考と行動が完全に一致する、あの奇跡的なゾーン状態。

 回避から反転、爪による一閃までの流れが、まるでひとつの連続技のように、滑らかに繋がった――そんな感覚。


 これは、もしや、念願の後天的な能力の兆しか?


 そう思った瞬間、胸の奥に小さな熱が灯った。

 ただの自己満足や偶然では済ませたくない。

 これが本物であると証明できるよう、俺はさらに集中を高めてベビラビと向き合った。


 寒空の下、めずらしく雲間から光が差し込み、真っ白な雪をやわらかく照らしていた。

 それは、まるで新しい可能性の芽吹きを祝うような、優しい冬の一日だった。

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