第6話 『逃げ』の小五郎。人生の岐路。盟友の叱咤、妻の愛
木戸は、ポツリと呟いた。
「 政治家を…辞めたい 」
だが、木戸自身が、思わず口から出た言葉に、ハッとした。
あまりに重く、あまりに無責任な言葉だと、頭を振る。
しかし、その言葉は、彼自身が意識から遠ざけていた、本心からの叫びであると同時に、間違いなく、
『逃げ』の小五郎なんぞ、幕末に自分から封じたと思いこんでいたのに。
そして、木戸の言葉を聞いた梅太郎と谷は、驚きもしなければ、咎めもしない。
谷に至っては、怒るどころか、静かに頷いた。
「木戸さん…ええんじゃ。別に、あなただけが国を背負う必要はないじゃろう」
梅太郎も、その言葉を継いだ。
「そうぜよ。国を変えるには、さまざまな道がある。政治家だけが、その道じゃあないぜ」
木戸は、信じられないといった表情で、二人を見つめた。
自ら辞職など、新政府の重鎮としては、あってはならぬ
この二人ならば、冗談でも「何を馬鹿なことを」と笑い飛ばすか、あるいは真剣に「国のためだ」と諭されるだろうと、そう思っていた。
「お前たちは…それで、ええのか?」
木戸の問いに、谷は真面目な顔で答えた。
「ええも何も、木戸さん。あなたには、あなたの人生があるじゃろう。わしは、あなたには、もっと幸せになってほしいんじゃ」
「そうぜよ。政務に追われるばかりじゃ、人生はつまらんぜ?」
和一と梅太郎は、そう言って、にこやかに木戸の顔を覗き込んだ。
「木戸さんは、松子さんと二人で、静かに暮らすのもええんじゃなかろうか。趣味の剣道に、打ち込むのもええぜよ」
「そうじゃ! あなたには、まだ生きる道が山ほど残っとる! 何も、政治家の道だけが正解じゃあない!」
二人は、木戸孝允という政治家ではなく、一人の人間、桂小五郎として、木戸の幸せを願っていた。
その言葉には、かつて命を懸けて共に戦った、盟友への深い想いがこもっている。
木戸は、二人の言葉を聞いて、胸が熱くなった。
「しかし、それでは…」
「何を言っとるんじゃ、木戸さん」
谷は、木戸の言葉を遮った。
「あんたがいなくなっても、この国は、そう簡単に潰れたりはせん。あんたには、あなたにしかできんことが、あるじゃろう」
「そうじゃ。それは、『政治』ではないかもしれんぜよ」
梅太郎は、そう言って、酒を一口飲んだ。
「おまんが、本当に『やりたいこと』を見つけるんじゃ。それこそが、新しい時代を生きる、我々元武士の『新しい生き方』じゃ」
二人の真剣な眼差しに、木戸は何も言えなかった。
彼らが、木戸孝允という一人の人間の人生を、心から案じているからこそ、出たこうした言葉の数々は、「『政治家でいようとしたはずの木戸孝允』」の心を激しく揺さぶり、新しい希望の光を灯したのは、間違いではないだろう。
やがて、木戸は、二人の言葉に胸を熱くしながらも、深く考え込んでいた。
「やりたいこと…か…」
今、木戸の政治活動の一つに海外視察活動がある。『岩倉使節団』。
木戸も、その一団員なのは有名な話である。
イギリス等の先進国『西欧諸国』に重点を置いているが、『一度だけ岩倉節団が渡米』した折に、ワシントンにて出会った先生がいたな、と木戸が、懐古していた。
その瞬間、部屋の外から優しい声が聞こえてきた。
「旦那様、夕食はどうされますか?」
妻、松子の声だった。
木戸は、我に返ると、疲れたように答えた。
何を考えているのだ。
あの方みたくなろうなど、無理がある。
自嘲するしか今は、無い。
自分は、結局、やりたいことが見つかっていないのだから。梅太郎や、谷のように。
「…すまぬが松子っ!今日は、客人がおる。わしは、今晩も軽く済ます」
その言葉を聞いた瞬間、谷と梅太郎の表情が、一気に険しくなった。
「ちょっと待たんさい、木戸さん!」
谷が、間髪入れずに木戸を本気で説教し始めた。
「何を『軽く』じゃ! 貴様は一体、何を今まで食って、生きてきたんじゃ! 新政府の重鎮が、客人を前にして『軽く済ます』とは、どういうことじゃ!」
谷の激しい口調に、木戸はたじろいだ。
「いや、しかし…」
「『しかし』じゃねえ! 木戸さんよぉ、あなたは、松子さんの愛情が、分からんのか!」
今度は梅太郎が、容赦なく木戸に詰め寄った。
「おんしゃあの『軽く』という一言が、どれだけ松子さんを悲しませちゅうか、考えちゅうがかや!?毎日毎日、おまんのために、心を込めて『飯』を作ってくれる、その気持ち!!
二人の勢いに、木戸は何も言えなかった。
彼らは、木戸の食生活はもちろん、妻に対する態度まで、本気で心配しているようだった。
さてこの才谷梅太郎は勿論、妻はもちろん、幕末の動乱の頃は、伊藤博文も霞む程に女好きで有名だったが、維新以降は、とんと、人が変わった様に「『おりょう、おりょう』」と尻に敷かれ、愛妻への愛が『人一倍喧しい男』だと長崎と、彼の地元が、総評している。
そして、谷和一。
あの奇兵隊を率いた男、『高杉晋作』に正妻がいた事はあまり知れていない。
彼なりの優しさか、あるいは、幕末という時代がそうさせたのか。彼の正妻は高杉雅子、高杉との間にできた『息子』を連れ、
谷自身はというと、愛妾『おうの』との関係が、正妻にバレないように、行ったり来たりの生活を、ヒヤヒヤしながら暮らしているというではないか。
谷も谷で、基本的な考え方が相変わらずであった。
「ひょっとして…」
梅太郎が、おそるおそる木戸に尋ねた。
「おまん、ここ最近、ろくに米すら食ってないんじゃないがやろうか?」
その言葉に、木戸は、小さく頷くことしかできなかった。
梅太郎は、深いため息をつくと、呆れたように頭を抱えた。
「おんしは、
二人の激しい叱咤の説教に、木戸はただただ、顔をうつむかせるしかなかった。
しかし、その叱責の言葉の裏には、木戸を心から案ずる、深い愛情が感じられているようだ。
その時、松子が、盆に酒の肴を乗せて部屋に入ってきた。
「皆様、よろしければ、どうぞ」
木戸は、松子の顔をまともに見ることができない。
だが、梅太郎は松子に、にこやかに声をかけた。
「松子さん、すまんのう。
谷もまた、冗談めかして言った。
「全くじゃ。この男、近いうちに、きっと腹を満たすことの重要性を理解するじゃろうから、堪忍してやってくれ」
松子は、二人の言葉に、優しく微笑むだけだった。
その夜、三人は、松子の手料理を囲んで、酒を酌み交わした。
それは、ただの食事ではなかった。盟友の愛、妻の愛、そして、木戸の心に灯った、新しい希望の光を分かち合う時間だった。
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