第2話 迷いと再会

 木戸は、書斎で一人、薄暗い灯りの下で書類を広げていた。

 しかし、そこに書かれた文字は、まるで頭に入ってこない。


「…松子の言うとおりだ。わしは、疲れておる」

 己にそう言い聞かせたところで、心のざわつきは収まらない。


 新政府の方針は、一歩も二歩も先を行く。廃藩置県、地租改正、徴兵令…。

 新しい国を作るためには、避けて通れない道だと、頭ではわかっている。

 だが、その度に、ついていけない元武士たちが、時代に取り残されていくのを目の当たりにする。

 かつて、共に血を流した同志は、もはやいない。


 征韓論で下野した西郷たちも同じ事である。


 そして、この国を変えようと、自分以上に熱い想いを抱いていたはずの、あの二人も。


『晋作、龍馬…。お前たちがあの場におったら、どうだっただろうか』


 維新を成し遂げた今、彼らの熱気と無鉄砲さが、この新しい世にどう響いたのだろうか。


 木戸は、筆を手に取ると、すらすらと、とある人物への手紙を書き始めた。


「…やはり、一度、会って話をするべきだ」


 文面には、迷いを断ち切ろうとする決意が滲んでいた。

 長崎の三菱商会、才谷梅太郎のオフィスには、一通の電報が届いていた。


 差出人は、木戸孝允。


 電報には、たった一言だけ、こう記されていた。


「会いたし」


 梅太郎は、その短い文面を見て、静かに微笑み、そして、すぐさま、ある人物に手紙を送った。


 宛名は「谷和一」。


 一方、東京の谷和一は、今日も今日とて、グラバー邸で発音の特訓を受けていた。

「いいですか?Mr.。もう一度言ってみんさい。『Lead the Line』ですぞ?」


 グラバーは、流暢な日本語で、そう言って谷を促す。

 その発音は、実に明瞭だ。


「りーず、ざ、らいん!どうじゃ、グラバー!ワシもなかなかじゃろ!」


 谷は、得意げに胸を張る。

 しかし、グラバーは苦笑いしながら、首を横に振った。


「お前さんの『L』は、まるで『Right now』の『R』だ。舌を歯茎の裏につけていない。もっと、舌先を意識せんといかん」


「なんじゃと!うるせえ!発音なんか、伝えたいことが伝わればそれでええんじゃ!」


 谷は、拗ねたように唇を尖らせる。


「では、聞くが、お前さんは『グラス(glass)』が飲みたいのか、それとも『草(grass)』が飲みたいのか?」


 グラバーの痛烈な一言に、谷は言葉に詰まった。


「…ぐ、グラスじゃ!グラスの水を飲みたいんじゃ!」

「だが、お前さんの発音だと、では『草を飲みたがっている変な日本人』と思われるのがオチだろうな。ハッハッハ!」


 グラバーは、心底楽しそうに笑う。

 その時、谷の懐から、一通の手紙が落ちた。それを拾い上げたグラバーが、差出人を見て、目を見開く。


「これは…才谷梅太郎、いや、坂本龍馬じゃな。どうかな、谷。長崎へ行くのかい?」

 グラバーの言葉に、谷の表情が、一変した。

「…ワシの、グラバー英語発音特訓は、これにておしまいじゃ!さらばじゃ!」


 谷は、そう言い残すと、グラバー邸を飛び出していった。

 グラバーは、そんな谷の後ろ姿を見送って、静かに呟いた。


「…ようやく、、重い腰を上げましたか」

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