もしも、明治維新後に、『龍馬』と『高杉』が生きていたら、木戸孝允さんが『政治家を辞職しそう』。そんな、もしものお話。
こだいじん
第1話 新しき世の足音
明治7年、長崎。
雨が降ったり止んだりする、不安定な天気だった。
海風に乗って潮の香りが漂ってくるこの港町は、鎖国が解けてからというもの、異国情緒を色濃くまとっていた。
レンガ造りの洋館が立ち並び、石畳の道を行き交うのは、ちょん髷を結った者もいれば、真新しい断髪の者もいる。
新しい時代を告げる文明開化の波が、長崎の地には、いの一番に押し寄せてきていた。
その波に乗るようにして、三菱商会長崎支社のオフィスは、活気に満ちていた。
帳簿を繰る者、荷揚げの指示を出す者、その誰もが、新しき世の商いというものに心を燃やしている。
その喧騒の中心にいたのが、才谷梅太郎その人だった。
「 才谷さん、先日の上海便の件でご相談が…。 」
部下の声に、梅太郎はにこやかに応じる。
その顔は、坂本龍馬とて知る者はいまい。
あの無骨な土佐弁は影をひそめ、今では滑らかな標準語と、時に英語を交えながら、商談をまとめていく。
トーマス・グラバーから叩き込まれたイギリス英語は、彼の強力な武器となっていた。
「 ああ、そりゃあ問題なかろう。先方の担当者には、私が直接連絡しておくき。君は、次の横浜便の準備を頼むぜよ 」
穏やかにそう告げると、部下は頭を下げて持ち場に戻っていった。
才谷梅太郎がこの長崎に根を下ろして、もう数年が経つ。
亀岡社中を畳み、岩崎弥太郎の誘いに乗って三菱に入ったのは、時代の流れを肌で感じていたからだ。
剣を捨て、命を懸ける代わりに、商いという新たな戦場で、世を動かすという道を選んだ。
窓の外に目をやると、汽船の煙突から白い煙がもくもくと立ち昇っている。
その光景を眺めながら、梅太郎は懐かしさに浸っていた。
この新しい世に馴染んでいる者もいれば、そうでない者もいる。
そして、馴染もうとしながらも、なかなかうまくいっていない者も…。
梅太郎は、ふと、ある男の顔を思い浮かべた。
「まったく、あの男は、今頃何をしとるかのう…」
彼の口元から、思わず、懐かしい土佐弁がこぼれ落ちていた。
時を同じくして、東京。
廃刀令が布告されてから、町から刀を差した武士の姿はめっきり減った。
しかし、ある者は、腰の刀を懐かしむように、帯刀できなくなった腰回りを、何度も撫でるクセが抜けきらない。
九段坂の麓に、木戸孝允の屋敷があった。
政治の中枢に身を置きながらも、日々の激務に追われる木戸にとって、この屋敷だけが、唯一、心を休める場所だった。
「 旦那様、お食事にございます 」
妻・松子の優しい声に呼ばれ、木戸は書斎から出ていく。
卓の上には、松子の手作りの料理が並んでいた。
だし巻き卵に、煮物。
質素だが、どれも心尽くしのものばかりだ。
木戸は静かに箸を取り、一口、また一口と味わった。
松子は、そんな夫の姿を、心配そうに眺めていた。
「 最近は、お疲れのご様子。お酒も、あまり進まないようですが… 」
松子の言葉に、木戸ははっと我に返った。
「いや、なんでもない。ただ…」
木戸は言葉を濁らせ、松子もそれ以上は聞かなかった。
木戸の頭の中には、いつも、あの男の言葉が響いていた。
『木戸さん、あなたは、どうしてそんなに新しい世を急ぐんですか?』
それは、かつての同志、松原一誠が、辞任を申し出た時に言われた言葉だった。
明治四年の萩の乱。
松原は「武士としての誇りを捨てられない」と、新しい時代に反発し、反乱を起こしてしまったのだ。
維新の大業を成し遂げ、新しい国を作ろうと、これまでがむしゃらに駆け抜けてきた。しかし、その過程で、多くの同志が道半ばで倒れ、また、新しい時代についていけない者も少なくない。
かつて、江戸から引き抜いた大村益次郎も、その一人だった。
明治二年に、新しい生き方を模索する道を政府が提示したところ、武士たちの反感を買い、暗殺されてしまったのだ。
それでも木戸は、彼ら元武士たちに、新しい生きる道を示さねばならないという強い使命感を持っていた。
だが、その使命感と現実の間に、少しずつ溝ができていくのを感じていた。
「 わしは、間違っておるのじゃろうか… 」
心の迷いを、誰にも言えないまま、木戸は箸を置いた。
この頃、東京の町では、ちょっとした噂が立っていた。
「谷という変わり者の詩人がおるらしい。洋装に身を包んで、やたらと英語を喋りたがるが、その発音たるや…」
「ああ、知っとる知っとる。なんでも、ロンドンに行って、本場で英語を学んでくると意気込んでおるらしいが、いつになるやら…」
その噂の男、谷和一は、まさに、木戸孝允の屋敷のすぐ近くにいた。
「ちくしょうが、このワシの発音が、滑舌が最高に悪いじゃと? グラバーの奴、ぶっ飛ばしてやらんといけんのう!」
そう言って、一人、道端でブツブツと英語の発音練習に励んでいる。
その姿は、高杉晋作そのものだった。
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