第30話 いざ旅行に
「はぁ……ふぅ……」
アパートの玄関先で、私は何度も深呼吸を繰り返した。鏡に映る自分の顔は、心なしかいつもより青白い。時刻は朝の七時半。真夏の太陽がすでに勢いを増し始め、アパートの玄関先に強い日差しが差し込んでいる。
少し大きめのボストンバッグを背負い、私は深々と息を吐き出す。今から向かうのは、詩織さんとの箱根一泊旅行。しかし、この非日常への一歩を踏み出すことが、あまりにも重い。夏の熱気すら、私の緊張を煽っているように感じられた。
(本当に、私で良かったんだろうか……)
頭の中を、昨日から何度も同じ不安が渦巻いている。自分がこんなにも臆病な人間だとは知らなかった。確認のため、私は胸ポケットのスマートフォンを取り出した。LINEの画面には、午前六時半に送ったメッセージへの返信が届いている。
『詩織さん、おはようございます。七時半頃、お部屋までお迎えにあがりますね』
そのメッセージに対する詩織さんの返信は、わずか三分後のものだった。
『莉子ちゃん、おはよう!オッケー!支度バッチリだよ、楽しみだね〜』
普段の詩織さんを知っている私は、その返信の早さに、わずかながら驚きと安堵を覚えていた。朝が特に苦手な詩織さんだ。遅刻を心配していたが、どうやら旅行の楽しみが、そのだらしなさを吹き飛ばしてくれたようだ。
(やっぱり、詩織さんもこの旅行を本当に楽しみにしてくれているんだ。だから、珍しく時間に正確なんだよね……)
その事実に、私の胸の中に渦巻いていた「大人の大切な時間を拘束している」という罪悪感が、詩織さんの「楽しみ」に上書きされていくのを感じた。
私は鍵を閉め、自分の部屋を出て、詩織さんの部屋のドアへと向かった。アパートの廊下に響く自分の足音が、やけに大きく、心臓の鼓動のように聞こえる。廊下の窓から差し込む夏の光が、埃の粒子をキラキラと照らしている。
「あの……詩織さん、莉子です」
深呼吸をし、ドアの前で小声で呼びかける。
「はーい!今開けるね!」
中から聞こえてきた詩織さんの声は、いつもより少しトーンが高く、弾んでいるように聞こえた。
ガチャリ、とドアが開いた瞬間、私の呼吸は完全に止まった。
そこに立っていた詩織さんは、まるでこの夏の旅行のために用意されたかのような、大人っぽい装いだった。
肩のラインが綺麗に出た、薄手のベージュのリネンシャツ。袖は肘のあたりまで軽やかに捲られ、首元は鎖骨が覗く程度に開いている。ボトムスは、涼しげなネイビーのアンクル丈のパンツで、足首がすっきりと見える。全体的に肌の露出は多くないのに、素材感とデザインのせいか、普段よりもずっと大人っぽく、どこかリラックスした色気が漂っていた。
そして、私の視線は、詩織さんの首元に釘付けになった。小さなゴールドのネックレス。そして、そのシャツの開き具合から覗く、華奢な鎖骨のライン。夏の装い特有の、解放的な雰囲気が、詩織さんをより一層魅力的に見せていた。
(か、可愛い……いや、綺麗……美人!)
私は、夏の強い日差しに照らされたその姿に、思わず目を奪われる。普段のバイトの制服姿や、シンプルな私服姿しか見ていない私にとって、この「旅行仕様」の詩織さんは、刺激が強すぎた。私の頬が、夏の暑さとは違う熱で、カーッと熱くなる。単なる「バイトの先輩」ではなく、一人の「女性」としての詩織さんに、私はどうしようもなくドキドキしていた。
「ん?莉子ちゃん、どうしたの?固まっちゃって。私の支度、変だった?」
詩織さんは、自分の服装を気にしながら、少し首を傾げた。その仕草すら、今日の詩織さんには、どこか艶っぽく見えてしまう。
「い、いえ!詩織さん、旅行仕様で、いつもより……大人っぽくて……!」
私が必死で絞り出した言葉は、精一杯の褒め言葉だったが、その声は上ずってしまい、うまく伝わったか自信がない。
詩織さんは、一瞬きょとんとした後、嬉しそうに破顔した。
「えへへ、ありがとう!私も、せっかくの高級旅館だし、ちょっとだけ張り切ってみたよ。夏の旅行って感じ、するでしょ?」
そして詩織さんは、私の大きなボストンバッグを見て、いつものように大笑いした。その朗らかな笑い声が、私の胸の動揺を打ち消してくれる。
「それにしても、莉子ちゃんのバッグすごいね!ちょっとした登山家みたい!でも、たくさん計画を立ててくれた証拠だね」
「あ、いえ、そんな……念のために、いろいろと……」
私は、頭がぼんやりとしたまま、自分の大荷物を指差す。荷物の重さも、今の私の心臓の重さも、今日の詩織さんの魅力には敵わない。
「そういうところが、莉子ちゃんらしくて、可愛いよ!」
詩織さんは、そう言って私の背中をポン、と軽く叩いた。その温かい手の感触と、夏の肌からふわりと香る、柑橘系の爽やかな香りに、私の全身は再び熱くなる。
この「可愛い」は、どういう意味なんだろう?
ただの社交辞令?それとも、まるで妹やペットを褒めるような、無意識の優しさ?
しかし、今日の詩織さんの装いと、この高揚した状況で聞かされると、その軽い一言が、私の胸の中で異常なほど重く響いた。
可愛い……いや、お世辞だよねこれ?
深い意味なんてないよ……ね?
私は、その問いを、自分自身の熱い頬と、異常に速い心臓の鼓動で、必死に打ち消そうとした。今、私は詩織さんの部屋のドアの前で、一人の女性に強く惹きつけられている。それは、「憧れ」や「尊敬」といった言葉では片付けられない、もっと……
「さ、行こう!新幹線の時間まで、まだ余裕あるけど、駅まで歩くのも気持ちいいしね!」
詩織さんは、私の大荷物とは対照的な、小ぶりなボストンバッグを軽々と手に取り、軽やかな足取りで階段を降り始めた。その背中を、私は、まだドキドキが収まらない心臓を抱えながら、夢見心地で追いかけた。
(詩織さんと、一泊旅行……!)
道端に咲く花も、すれ違う近所の人も、全てが夏の光を浴びてキラキラと輝いて見える。私の緊張はピークに達していたけど、それ以上に、詩織さんの隣にいるという、この特別な非日常への高揚感が、私の心を強く後押ししていた。
【りこしお】~完璧優等生の私がだらしないお姉さんとオ・ト・ナになる話~ 夕姫 @yu-ki0707
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