忍び寄る魔手
「……ふた月ほど前のこと、
急ぎ文太が呼びに走った矢七のとりなしでどうにか気分を落ち着かせた琴絵が、それでもぼそりぼそりと秘密を打ち明けだした。
「あ、よしてくれ、そんなこと……おれの耳にいれるな」
耳をふさがんばかりに琴絵の口を閉じさせようと真之介は、そのまま視線を縁側へ移した。
「せっかく重要なことをお伝えくださろうとしているのに……」と、矢七が横から割り込むと、
「重要すぎるから困る……!」
と、真之介は繰り返した。
「さっきふた月前とか申したな……それはまさしく、あの育種小屋襲撃と
「……はい、その疑念が、遅まきながら確信に変わりつつあるのです。だからこそ、当事者の一人であるあなた様にもお伝えしておかねばならぬと考えました」
琴絵が答えた。声が震えていたのは、それだけ事態が緊迫しつつあることの裏返しであったろうか。
「……真相は知りたい、ほんとうだ。だが、藪坂藩の秘密まで聴かされるとなると、おれはなにか得体の知れないものに、この先もいいように動かされ、どんどん流されているようで……」
……たまらない。その心持ちを素直に吐露した。矢七や琴絵を前に体裁をつくろっても仕方あるまい。
「……つまりだ、もっと
そこまで言い切った真之介は、ほんの少しばかり憑かれたものが
「それは……」と、琴絵がいった。
「……わたくしも同じなのです。こんなことを申し上げるとさらにお叱りを受けるでしょうけれど、わたくしの祖父が失踪しました。自らの意思なのか、それともさらわれたのか……まだわかりませぬ」
「な、なんと……?」
それから一方的に琴絵は喋り出した。
……木下
「……書状かなにかを奪われたおりに同時にさらわれたのか?」
いつの間にか真之介は身を乗り出して聴いている。さきほどまでの抵抗は失せたのか、収まったのか……それは傍で聴いている矢七にもわからない。
「それはわかりませぬ」と、琴絵がいった。
「書の内容は……?」
「……いまは亡き
大猷院公……とは、三代将軍徳川
現将軍
……ちなみに、この年の翌年、すなわち寛文五年(1665年)は、徳川家康五十回忌にあたる。
四月十七日になる。
盛大な法要のために各藩に幕府が課した莫大な費用拠出のために、藩も例外ではなく苦しい財政のなかから
すなわち、世情不安定。政情不安、とも言い
ともあれ家康五十回忌は翌年のことであり、年が明けるまでまだ十数日ある。
「その書状の内容を知らない譜代重臣がほとんどということだな?」
「さように聴いております」
「……その前将軍の書状と琴絵さんの祖父上の失踪、いや出奔といっていいのか、逃亡なのか定かでないにしても、関わりがあるとみているのだな?」
「いまだ判然とはいたしませぬものの、まったくの無関係ともおもわれませぬ」
ふうむふうむと真之介が唸っていると、茶を入れ替えた矢七が、
「木下翁の行く先……あてはないのですか?」
と口を挟んだ。
話の流れを折らず先へ先へと進めていく矢七の処世術の賜物であろう。真之介もかれから学ぶことは多かった。
「失踪後、配下を
さらに琴絵が続ける。
「わたくしは明日にでも
すると、さらに矢七が、
「ひゃあ、お一人であのいわくありげな舟宿へ赴くのは到底おすすめできません」
と、いきなり声を荒げた。心底琴絵の身を案じているようである。
「おや……
真之介が訊くと、出番が来たとばかり矢七は身を乗り出した。
「……御領内には違いありませんがね、大河をはさんで幕領と向かいあっております。ほら、れいの長谷様が代官をしています。また、ちょうど、三藩が接する
心なしか矢七が声をひそめた。
……舟宿がある一帯は、事実上の治外法権になっていて、さまざまな得体の知れない者どもが
琴絵によれば二年に一度は、木下太左衛門はその舟宿に泊まっているという。わざわざそんな地を選んで、木下太左衛門が通っていたのはなにか別の深い理由があるのではなかったか。
それが真之介が感じた率直な疑念であった。
そのことを手短かに告げると、
「旧友がおられたのやも……」
と、琴絵がいった。
「なるほど、いずれにせよ、その舟宿には、なにかありそうだな。あるいは祖父上は、誰かを追っていったのではなかろうか……もしかすれば書状を盗んだ賊の心当たりを追跡していたのやもしれん……」
「では、ご助力いただけまするのか……?」
「舟宿から大河を渡れば幕領なのだろう? ならば、おれはその足で
すると、矢七が目を輝かせ、
「まず、あっしが先発し、客を装い舟宿の様子を探ってみます。気心の知れたかつての
と、軍師ばりに計画の一端を披露した。
「真さんとそちらさまは……そうですね、乗り込むなら兄妹として、一日遅れで宿に来てください。変装の仕様はご随意に……」
「わかった、はちはちさんや善さんにも頼んでみる」
はちはちさんとは八杉八右衛門、善さんは井上善右衛門のことだ。よしんばかれらが直接には動けずとも、多少の人員は寄越してくれるかもしれない。その支援を期待しつつ、真之介は久しぶりに外で暴れることができそうだとその昂ぶりを心地よく感じていた。
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