ある予兆

 このところ昼間に寝て夕刻から翌朝まで警護に徹するのが真之介の日課になっていた。相変わらず世之介は一言も口をきいてはくれず、は挨拶はしても育種の現場には一切立ち入れさせてはくれないのだ。

 その日。

 矢七やしち佐吉さきちが大量の糧秣りょうまつを荷車に載せてやってきた。佐吉は大工の棟梁で、真之介の定宿となっている大工長屋の管理人である。

「……このところ真さんの顔を見ないんで、さびしいおもいをしておりましたぞ」

 真之介に飛びつかんばかりにはしゃぎ出した。

「棟梁、ほら、真さんが驚いておりんさる。病に倒れたわけじゃあるまいし、てらもんの旦那からの依頼仕事、邪魔したらおえんぞ」

 すぐに矢七がたしなめた。かれは谷崎家の中間ちゅうげんで、

「そっちこそ、おれにかまってばかりでいいのか?」

と、真之介が口を挟む。こういう他愛ないやりとりができるのは、真之介にとっては緩急かんきゅうの切り替えができて胸中ではそっと感謝していた。

「いやなに、棟梁が相談事があるというので、無理やりお連れしましてね」

 矢七がいうと、佐吉は、

「このお仕事が終わってからでいいと何度も申し立てたのに、腕をつかまれて強引に……」

と、おどけ笑いを浮かべた。

「それがね、真さん、聴いてくださいよ。道すがらちょこと棟梁と話をしたんですが、この育種小屋を襲撃せんとする不逞ふていの輩とも関わっているかもしれないので、ぜひ、耳に入れておかねばと、棟梁を説き伏せつつやってきたところなんですよ」

 途中から矢七がいつになく真顔になったのを認めて、ひとまず真之介は割り当てられていた板敷きの部屋にふたりを通した。

 話は……佐吉の一人娘、たまの身の上からはじまった。藪坂に来てもう一年は過ぎようとしているのに、真之介は環とは口を交わしたことはない。挨拶代わりにお辞儀をしたり、目配せをしたりするだけだった。

「……お環には子どもの頃から奇病と申しますか持病と呼べばいいのか、引きこもる癖がありましてな。とりわけ、刃物の類を身に帯びた男をみると、たちまちからだがすくんでしまうのですよ」

「歳の頃は……?」

「もう、二十六、七。世間では中年増なかどしまと囁かれる年齢になりました。しかも、三度、嫁いでいるんです。一人目は若死にし、二人目の男は武家の後家に惚れられ一緒に上方へ逃げました。三人目は、ふた月で離縁されてしまいました。なんでも妾が先に子をはらんだそうで、男運が悪い……といえばそうなんでしょうが……」

 佐吉の瞳に薄っすらと光るものがあった。

 かれは娘の見かけ上のしあわせを追い求め急ぎすぎたのであろうか。そのあたりは真之介にもわからない。けれど、次の佐吉の一言で壮絶な体験に苦しまれてきた父娘おやこの過去の一端が浮かび上がってきて、真之介を驚かせた。

 喋りはじめる前に、何度も、

「……ここだけの話にしてください。あっしはともかく、お環の過去だけは触れないでやってほしいんです。噂になるとあいつのこころがさらに萎んでしまいそうで……」

と、そのことを真之介と矢七に頼んだ。

「……お環は、あっしの実の娘じゃございません。|備前《びぜんのある豪商の一人娘だったのございます」

 ……佐吉は若い時分、山陽道界隈で悪名を馳せた盗賊空狐からぎつねの新参者であった。

 ぬす稼業に足を踏み入れて間もない頃のことで、空狐は非道にも強盗時にその場に居た家人を皆殺しにする一団であった。

 そのときのことである……あまりの惨劇をの当たりにした佐吉は罪業の深さと怖ろしさに足がすくみ、躰が震え、尿を漏らした。愕然と佇む佐吉が視たのは、いままさに四、五歳ほどの少女に刃物を向けた兄貴分の姿であった。突然、震えが、怒りに変わった。その怒りが、とめどない衝動を誘発させ、華奢きゃしゃな佐吉の躰のどこにそれほどの瞬発の力が隠されていたのか、かれは兄貴分にぶつかりざま、短刀でぶすりと突き刺した。その勢いのまま、少女をかいなにいだくと、そのまま後退あとずさって、駆け出した。

 ……その少女こそが、お環である。

 裏街道をひた走り、奥深い人里離れた山中をさまよい続け、禽鹿きんろくみちを巡りめぐって落ち延びた先は松江藩領で、そこで半年を過ごし、紹介された大工の棟梁を頼って藪坂藩領に足を踏み入れた。正規の通行手形はなくても、その頃は御城ごじょうの修繕整備のための職人の流入には格段の便宜べんぎが図られていて、そのまま大工職人長屋に住み込むことになった。

 そして、お環を実の娘として育てた。

 少女もまたいつしか自然と「おう!」と、佐吉を呼ぶようになった。

 ……つまりは、ふたりは尋常じんじょう父娘おやこではなかったのだ。けれども過去の一時の壮絶な体験と、秘密の共有こそが、佐吉とお環に血縁を超えた粘着の歳月というものを過ごさせたのである……。


「……十日前、お環はたそうなんです。あっしが刺した奴を……」

「では死んではいなかったのか……」と、つい真之介が口を挟んだ。どうやらかつての佐吉の兄貴分が、いまの空狐からきつねを率いていると解してもさしつかえあるまい。

「……額と頬の切り傷。しゃくれた顎……あの顔は、あっしもお環も忘れようにも忘れることはない……やつは、平野屋の客人らしい……」

「平野屋……?」

 その商家のことは真之介は知らない。横町に出来たばかりのたなだが、屋号を染めた暖簾のれんはかかっているものの、なにを扱っているのかわからない。

「どうもせない……」

と、真之介はいった。

「……これみよがしに店を開いた……空狐からぎつねの残党がわざわざ町なかに拠点を築くのも不可思議なこと。あるいは……」

 真之介は語尾を濁した。兵法にいう陽動かもしれないと伝えたかったのだが確証はない。

「ひとまず、こちらで見張りを怠らないようにの旦那にもお伝えしておきますぜ」

 矢七がこたえると、佐吉の目がきっと見開いた。この父娘おやこにも、復讐、仇討ちといった悲願があらたに現実のものとして浮かび上がってきたのであったろう。

「悲願か……」

 声にはならない真之介の呟きが、陽が落ちたその薄闇のとばりのなかに吸い込まれるように溶けていった……。

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