ある予兆
このところ昼間に寝て夕刻から翌朝まで警護に徹するのが真之介の日課になっていた。相変わらず世之介は一言も口をきいてはくれず、かよは挨拶はしても育種の現場には一切立ち入れさせてはくれないのだ。
その日。
「……このところ真さんの顔を見ないんで、さびしいおもいをしておりましたぞ」
真之介に飛びつかんばかりに
「棟梁、ほら、真さんが驚いておりんさる。病に倒れたわけじゃあるまいし、てらもんの旦那からの依頼仕事、邪魔したらおえんぞ」
すぐに矢七がたしなめた。かれは谷崎家の
「そっちこそ、おれにかまってばかりでいいのか?」
と、真之介が口を挟む。こういう他愛ないやりとりができるのは、真之介にとっては
「いやなに、棟梁が相談事があるというので、無理やりお連れしましてね」
矢七がいうと、佐吉は、
「このお仕事が終わってからでいいと何度も申し立てたのに、腕をつかまれて強引に……」
と、
「それがね、真さん、聴いてくださいよ。道すがらちょこと棟梁と話をしたんですが、この育種小屋を襲撃せんとする
途中から矢七がいつになく真顔になったのを認めて、ひとまず真之介は割り当てられていた板敷きの部屋にふたりを通した。
話は……佐吉の一人娘、
「……お環には子どもの頃から奇病と申しますか持病と呼べばいいのか、引きこもる癖がありましてな。とりわけ、刃物の類を身に帯びた男をみると、たちまちからだが
「歳の頃は……?」
「もう、二十六、七。世間では
佐吉の瞳に薄っすらと光るものがあった。
かれは娘の見かけ上のしあわせを追い求め急ぎすぎたのであろうか。そのあたりは真之介にもわからない。けれど、次の佐吉の一言で壮絶な体験に苦しまれてきた
喋りはじめる前に、何度も、
「……ここだけの話にしてください。あっしはともかく、お環の過去だけは触れないでやってほしいんです。噂になるとあいつのこころがさらに萎んでしまいそうで……」
と、そのことを真之介と矢七に頼んだ。
「……お環は、あっしの実の娘じゃございません。|備前《びぜんのある豪商の一人娘だったのございます」
……佐吉は若い時分、山陽道界隈で悪名を馳せた盗賊
そのときのことである……あまりの惨劇を
……その少女こそが、お環である。
裏街道をひた走り、奥深い人里離れた山中をさまよい続け、
そして、お環を実の娘として育てた。
少女もまたいつしか自然と「お
……つまりは、ふたりは
「……十日前、お環は
「では死んではいなかったのか……」と、つい真之介が口を挟んだ。どうやらかつての佐吉の兄貴分が、いまの
「……額と頬の切り傷。しゃくれた顎……あの顔は、あっしもお環も忘れようにも忘れることはない……やつは、平野屋の客人らしい……」
「平野屋……?」
その商家のことは真之介は知らない。横町に出来たばかりの
「どうも
と、真之介はいった。
「……これみよがしに店を開いた……
真之介は語尾を濁した。兵法にいう陽動かもしれないと伝えたかったのだが確証はない。
「ひとまず、こちらで見張りを怠らないようにてらもんの旦那にもお伝えしておきますぜ」
矢七がこたえると、佐吉の目がきっと見開いた。この
「悲願か……」
声にはならない真之介の呟きが、陽が落ちたその薄闇の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます