暁の血闘

 目の前に佇む井上善右衛門の体躯からだが何倍にも膨らんだかのように真之介には映っている。風は雨模様の色合いを含みつつ東から南へとそよいでいる。

 四半刻しはんときもしないうちに降ってくるだろう。

 真之介は、

(雨がすべてを流そうとしてくれている……)

 と、そんなことをふとおもった。闘う前から、すでに勝敗はみえていた。

(……おれの腕では、善右衛門にはかなわないだろう) 

 けれど仕合しあうことを求めたのは善右衛門であって、真之介の人となりというものを刃を交えることで確かめたかったのであろう。

(それにしても………)

と、真之介はうならざるを得なかった。萎びた片田舎の藪坂やぶさかの地で、一道いちどうに秀でた剣の猛者もしゃたちがふつうに暮らしていることに驚きを禁じ得ないのだ。

 それぞれにおのが人生というものと向き合いつつ、精一杯に、おのれの、いや、周りの人たちのなかに溶け込み暮らしている事実は、真之介に新鮮な驚きをもたらした。

 いま、対峙たいじしている善右衛門は真之介にとってはすこぶる味のある人物のようにおもえ、浪人の身で善右衛門に出会うことができたのはむしろおのれにとっては吉兆であったかもしれない。そんなふうにおもっているのにもかかわらず、仕合うのは、いまこのとき、対峙していてもなお気がすすまないのだ。

 とはいえ、善右衛門の構えをた真之介は、

(一羽一刀流と聴いていたが……)

と、戸惑いを隠しきれないでいた。

 あえて得意の技ではなく、善右衛門はなにやら井上家伝承の刀法で立ち向かおうとしていたのである。一羽流の長刀ではなく、通常の刀を用いていたのがその証であったろう。

 善右衛門は両足ともつま先立ちになって、双方のかかとは浮かしている……。

 剣を頭上に振りかざすのではなく、おのが体幹の一部であるかのごとく右肩と並行に天をくようにして刃をこちら側に見せている。おそらく、真之介が動けば、迅速に走り込んでくるにちがいなかった。それだけに、真之介も次の動作を予測させない構えをとるしかない。

 真之介は抜刀と同時に、つばに添えるようにして左手を上、右手を下にしてつかを握り変えた。そのまま柄頭を右手のてのひらのなかに包み込むようにして、刀身を下げ、切っ先を地につけた。

 鞍馬古伝秘剣、朧舟おぼろぶね

 舟をまじのごとく、土を掘り返す鉄槌てっついのごとく、はたまた自在に綿布を縫う針のごとく、対手あいてを、海、地面、あるいは布地として認識することで、おのれの殺気をも埋没させてしまうのである。

 ところが。

 ふいに善右衛門は浮かしていたかかとを地につけた。真之介に向かって突進することをあえて避けたのである……。

 雨の小粒が落ちてきた。

「や」

 息を吐きながらつぶやいたのは、真之介のほうであった。すばやく刀をさやに収めた。けれど、左手を鯉口こいぐちに添えたままである。

 それを視て、善右衛門は真之介が居合抜きに転じたと察し、腰をやや低めに落とし、相手の出方を見守る戦法に切り替えたようである。それはそれで、臨機応変の妙というもので、善右衛門が面子めんつや一時の勢いにこだわらず、相手の動きを見極め、体勢を立て直すことをいとわない、したたかさを兼ね備えていることを物語ってもいた。

むべなるかな」

 先につぶやいたのは、善右衛門である。

「どうやら勝敗はつかぬようじゃの。雨もおりてきた。まずは、手打ちといたそう。引き分け、引き分けじゃ」

 一方的にそう宣言した善右衛門は、くるりと背を向けてから、もう一度、

「のちほどそれがしの宅に参れ。約定どおり、すべてを話してやろう」

と、真之介に告げた。


(引き分けどころか、めなければ、おれは斬られていた……)

 鼓動の高鳴りがやまない真之介は、なんとか気を鎮めようとした。見届け人の八杉八右衛門が近寄ってきて、

「譲りの善右衛門が、あえて勝ちを譲った……ふうむ、これは驚いた、驚かされた……なるほど、向後は別の道をくと決めたのかもしれぬの」

と、しずかに囁いた。


 

 雨は小降りですぐにおさまった。真之介と八右衛門は連れ立って善右衛門のいえを訪れた。

 けれど善右衛門は何もいわない。

 真之介もあえて問い詰めようとはせず辛抱強く待った。待つのは、真之介の得意技の一つである。

 やがて善右衛門が口火を切った。

「……最初、人を斬れ、と命じられた。江戸から戻ってくる人物をな」

「谷沢藤兵衛……と申される御方ですね」

 真之介が訊き返した。

「さよう。剣の同門ゆえ、斬ることなどできぬと断った」

「なにゆえ、谷沢さんを斬れと……?」

「詳しくは知らぬ。が、勘定奉行の谷崎刑部さまを刺殺する密命を帯び、谷沢は帰国してきたそうだ」

「どうして谷崎家を狙うのです?」

「そもそも国家老の永沼さまを狙っていたらしいのだが、まずはその組下の谷崎さまを……ということではないのか。それがしが拒絶すると、日をおいて、同じ人物から、今度は、谷崎家の寺田文右衛門と立ち合うべし……とさとされた。あらたにできる道場の師範の座を賭けて、だ。安定した収入はありがたいでな」

 善右衛門の吐露は真実味を帯びている。確証はないにしても谷沢藤兵衛が江戸に居る正室側からの密命を帯びて、数年後の世継ぎ争いを制する一手を投じたのであったろう。よしんばそれが失敗したとしても、政変につながる波紋を呼び起こすことができよう。

 八右衛門はうなづきつつ、

「……なるほど、やはり、背後で巧妙に絵図をいている者がおったようでござるな。……一羽流ご同門、丸目吉之助は一体、どなたの意向を受けて動いているのです……?」

と、疑問を呈した。

「それはわからぬ……ま、そこまでにしておけ。それがしも背景などは知らぬ。推測でものを申すことはできぬ」

 唸りつつ善右衛門は腕組みをしたまま目の前の二人から視線をらした。

「最後にひとつだけ……」

 口をはさんだのは真之介だった。

「あのとき引き分けではなく、おれは負けていた……なにゆえ勝ちを譲ってくださったのか……?」

「いいや、譲ってはおらぬ」

「けれど……」

「そちらに迷いさえなければ、彷彿として浮かんだ小舟のやいばに向かって、それがしは動かざるを得なかったであろう」

「迷い……?」

「みなまで申さずともわかってござろうよ。どうじゃ、せっかくだ、泊まってゆかんか、根菜粥こんさいがゆなど進ぜよう」

 意外な申し出に、真之介は迷うことなく答えた。

「それは……かたじけのうございます……」

 すると、さらに善右衛門がぼそりと言った。

「……それがしも変人じゃが、真之介どの、あんたも相当変わっとるのう」

 それから汚れた歯をみせて善右衛門はさも愉快そうに笑い立てた……。

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