暁の血闘
目の前に佇む井上善右衛門の
真之介は、
(雨がすべてを流そうとしてくれている……)
と、そんなことをふとおもった。闘う前から、すでに勝敗はみえていた。
(……おれの腕では、善右衛門には
けれど
(それにしても………)
と、真之介は
それぞれにおのが人生というものと向き合いつつ、精一杯に、おのれの、いや、周りの人たちのなかに溶け込み暮らしている事実は、真之介に新鮮な驚きをもたらした。
いま、
とはいえ、善右衛門の構えを
(一羽一刀流と聴いていたが……)
と、戸惑いを隠しきれないでいた。
あえて得意の技ではなく、善右衛門はなにやら井上家伝承の刀法で立ち向かおうとしていたのである。一羽流の長刀ではなく、通常の刀を用いていたのがその証であったろう。
善右衛門は両足ともつま先立ちになって、双方の
剣を頭上に振りかざすのではなく、おのが体幹の一部であるかのごとく右肩と並行に天を
真之介は抜刀と同時に、
鞍馬古伝秘剣、
舟を
ところが。
ふいに善右衛門は浮かしていた
雨の小粒が落ちてきた。
「や」
息を吐きながらつぶやいたのは、真之介のほうであった。すばやく刀を
それを視て、善右衛門は真之介が居合抜きに転じたと察し、腰をやや低めに落とし、相手の出方を見守る戦法に切り替えたようである。それはそれで、臨機応変の妙というもので、善右衛門が
「
先につぶやいたのは、善右衛門である。
「どうやら勝敗はつかぬようじゃの。雨もおりてきた。まずは、手打ちといたそう。引き分け、引き分けじゃ」
一方的にそう宣言した善右衛門は、くるりと背を向けてから、もう一度、
「のちほどそれがしの宅に参れ。約定どおり、すべてを話してやろう」
と、真之介に告げた。
(引き分けどころか、
鼓動の高鳴りがやまない真之介は、なんとか気を鎮めようとした。見届け人の八杉八右衛門が近寄ってきて、
「譲りの善右衛門が、あえて勝ちを譲った……ふうむ、これは驚いた、驚かされた……なるほど、向後は別の道を
と、しずかに囁いた。
雨は小降りですぐにおさまった。真之介と八右衛門は連れ立って善右衛門の
けれど善右衛門は何もいわない。
真之介もあえて問い詰めようとはせず辛抱強く待った。待つのは、真之介の得意技の一つである。
やがて善右衛門が口火を切った。
「……最初、人を斬れ、と命じられた。江戸から戻ってくる人物をな」
「谷沢藤兵衛……と申される御方ですね」
真之介が訊き返した。
「さよう。剣の同門ゆえ、斬ることなどできぬと断った」
「なにゆえ、谷沢さんを斬れと……?」
「詳しくは知らぬ。が、勘定奉行の谷崎刑部さまを刺殺する密命を帯び、谷沢は帰国してきたそうだ」
「どうして谷崎家を狙うのです?」
「そもそも国家老の永沼さまを狙っていたらしいのだが、まずはその組下の谷崎さまを……ということではないのか。それがしが拒絶すると、日をおいて、同じ人物から、今度は、谷崎家の寺田文右衛門と立ち合うべし……と
善右衛門の吐露は真実味を帯びている。確証はないにしても谷沢藤兵衛が江戸に居る正室側からの密命を帯びて、数年後の世継ぎ争いを制する一手を投じたのであったろう。よしんばそれが失敗したとしても、政変につながる波紋を呼び起こすことができよう。
八右衛門はうなづきつつ、
「……なるほど、やはり、背後で巧妙に絵図を
と、疑問を呈した。
「それはわからぬ……ま、そこまでにしておけ。それがしも背景などは知らぬ。推測でものを申すことはできぬ」
唸りつつ善右衛門は腕組みをしたまま目の前の二人から視線を
「最後にひとつだけ……」
口をはさんだのは真之介だった。
「あのとき引き分けではなく、おれは負けていた……なにゆえ勝ちを譲ってくださったのか……?」
「いいや、譲ってはおらぬ」
「けれど……」
「そちらに迷いさえなければ、彷彿として浮かんだ小舟の
「迷い……?」
「みなまで申さずともわかってござろうよ。どうじゃ、せっかくだ、泊まってゆかんか、
意外な申し出に、真之介は迷うことなく答えた。
「それは……
すると、さらに善右衛門がぼそりと言った。
「……それがしも変人じゃが、真之介どの、あんたも相当変わっとるのう」
それから汚れた歯をみせて善右衛門はさも愉快そうに笑い立てた……。
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