【青雲の門】 秘剣朧舟が冴える!「成り上がり御落胤就活侍がゆく」
露霞 雹(つゆがすみ❄ひょう)
神様のはかりごと
たおやかで美しい
板塀越しに見た空の色は、稲荷社の
そうなれば、あの憎たらしいおヨネ
「ちょっと、ちえぇ、いつまでもそげんとこに、おっ立ってないで、はよう、はいりんさいよぅ」
戸口からいつもの甲高い声が響いた。
振り返ると、残陽のややきつい光の
初はやや上等の無地の
落陽の光の束が、瑪瑙に
(き、れ、い・・・・かんざし・・・・)
いつもちえはそう思っている。
すると自分も早くあんなかんざしを刺せるおとなになりたいなどと背伸びするのだ。そんな少女の
慌てて八右衛門が後ろに居ないかと、ちえは思わず振り返った。
そして、ああ、お城の御用で今夜は向こうでお泊まりなんだ、と思い出した。
それにしても。
あんな
そもそも縁談が持ち込まれなかったからだ。
追手番は、隠密捕縛の任にあたる。
町奉行ではなく家老直属の組織で、犯科人の追補だけでなく処刑時の検死までを担当する。藩士からだけでなく、とりわけ城下の町人たちから忌み嫌われていた理由もこのあたりにある……。
その八右衛門のもとに、つい二か月前、突然、現れたのが初という女だった。
ちえは、
(新しい母上が来てくれたのだ)
と素直に喜んだ。なんと、美しいのだろうと驚いた。そうして飛び踊るほど喜んだ。
嬉しさのあまり、最初はどこかにやられていた実姉が帰ってきたのだとすら勝手に思い込んだほどである。
けれども親戚でもなんでもなく、三年ほど前に八右衛門が盗賊追補という御用の
借りは返さねばならぬ、と父、八右衛門は、しばらく初が同居することをちえに告げた。
だから決して新しい母ではないし、初の寝所はいまでも八右衛門とは別室である。
それでも。
このまま初に居てもらいたいとちえは願い、
『新しい母上になってくれますように……』
と、何度、稲荷社に拝みにいったことだろう。
ところが。
『かくのごとき願いなど聴き届けぬぞえ』
と、いつもちえに向かって悪態をつくのだった。
……稲荷社には殿舎はない。
もともと
いまも殿舎はなく、元は裏山にあった小さな
かつて、おヨネ婆は、御城下の料亭“
いや、
おヨネ婆の特技は、
綱渡り、ともいう。
鳥居に
そんな曲芸を披露し参拝客から金を貰うのである。そのとき、ついでに人相をみて予言ごとを述べ、それが当たると評判をとっていた。
いってみれば神様の
その日、いつものように稲荷社に向かったちえは、初めてみる二人の侍をみて、
「ひゃあ」
と、叫んだ。
いやそれは叫びというより、驚きに近かった。
(
と、なぜか一瞬そんなことをちえは連想してしまい、石段の端で尻もちをついた。
「おい、大丈夫かぁ?」
妙に間延びした声をあげたのは若いほうの侍で、ちえは
(ご浪人……)
だとさらに驚いた。丁髷ではなく、伸び放題の長い髪を後ろで束ねていた。もう少し
「おい、おい、そうこわがるなよ」
若いほうの浪人がいった。
よく見ると二重瞼で頬から顎にかけて童顔の面影が残っていた。
「
言ったのは年嵩の浪人で、背はそれほど高くはなく、腹のあたりがぽこりと出ている。
(父さまと同じだ……おなかが出ている)
そうおもった瞬間、ちえのなかの恐れが掻き消えた。
真さんと呼ばれた若者が、
「おれは
と、ゆっくり告げてからにこっと笑った。
それでも
「……おれは大工長屋に棲んでいるんだ。ほら、佐吉さんという棟梁がいるだろ? ま、知らないかも知れないが、その棟梁に頼まれて助けにきたんだ……」
どちらかといえば真之介は幼児童女をて手なづけるのは苦手ではない。むしろ妙齢の女人や同年代の女子と接するのは得手ではなかった。かりに肩や腰を撫でられようものなら、すこぶる
ちえのことは棟梁から真之介は聴かされている。まだ九歳あたりであったろう。
「……な、ちえ坊、大工職人のおかみさんが、稲荷社の境内でちえ坊と、ええと、なんといっていたかな……」
「おヨネ婆だろ? 境内に勝手に掘っ立て小屋を建て棲んでやがる……元芸妓かなになで
横から孫兵衛が助け舟を出した。
「あ、それそれ、その婆さんとちえ坊が言い争っているところを見かけたそうだ。他の者も見たことがあるらしく、二度や三度ではないと聴いたぞ」
「……………」
ちえは頷くこともなく否定もしない。ただ空虚を探っているかのような大人びた目で遠くを見ている。
「だ、か、ら、ちえ坊を助けてやってほしい、なにか悩み事があるのなら、聴いてやってほしいと頼まれたんだ」
真之介は何度もおなじことを繰り返す。けれどちえもまた口を開こうとはしなかった。
「どうした? もしかして……家に居着いた美女のことが気になるのか?」
突然、真之介に核心を突かれたもので、思わずちえはこくんと頷いてしまった。誰かに聞いてほしいと思い続けてきたちえにも、
初を見かけたことも口を交わしたこともない真之介だが、大工職人らの噂になっているほどだから、そのことを口に出したにすぎなかった。けれどちえの動揺は、初の存在がなんらかの騒動の起因になっていたかもしれなかった。そう真之介は類推すると、
「な、ちえ坊、明日、同じ時刻にこの場で会いたい。一晩考えて、できれば悩みの
と、念を押した。
「とうさまをご存知なのですか?」
ぼそりとちえが問うてきた。丁寧な口調である。よほど
「いや、お会いしたことは一度もないんだ。ほら、このとおり、おれはしがない浪人だろ? でも、だから、この藩にはしがらみが一切ない。職人や近所のものたちがとてもちえ坊のことを心配している……それを解決するのが、こたびのおれたちの仕事なんだ」
「お仕事……?」
「そうなんだ、大工長屋で居候している身だから、気持ちは職人たちと同じだよ。ちえ坊の父上にもお役目にも迷惑はかけないと誓うよ。だから、一晩で、気持ちを整理して明日また……」
謳うように真之介がいうと、ちえはそのまま立ち上がり、こくんと軽く頭を下げると石段を駆け下りていった。その姿をみていた孫兵衛が、
「いやあ
と感嘆の声で称えた。
「この地にたどり着いたころ、最初にもらった仕事は長屋での子守だったから」
真之介はほんの少し照れ笑いを浮かべた。
「それにしても孫さんはじっとみていただけだ」
「そう怒るな。じつは拙者はわらべがすこぶる苦手なのだ。妙齢の婦人ならばぜひにもおまかせ願いたいがな……どうやらちえは、初という女もさることながら、父上の身を案じていたのやもしれぬ。ふとそうおもった」
「ええと、
「八杉八右衛門……
「はちはち……かぁ……二度刺されるとやっかいだなあ」
珍しく真之介が駄洒落を洩らすと、それには反応せず孫兵衛が急に真顔になって、おヨネ婆のことに話題を転じた。
「……拙者も一度だけ綱渡りの芸を観たことがある。なんともすばやい動きで、身も軽く、宙を蝶のごとくに舞っておったぞ……噂だと元芸妓だそうだが、どうもそれだけではない過去があるようにおもわれてならぬがの」
「過去……?」
「拙者の遠縁のものが山陰の小藩で
「密偵……?」
「そうだ。なかには江戸からの隠密も潜んでおるとかいうぞ」
歳の効かもしれないが孫兵衛にはかれなりの情報収集網を培ってきたらしかった。同じ就活侍の真之介もそこは頭を下げるしかない。
江戸からの隠密というは、いわゆる公儀隠密である。藩の内紛、他藩との交遊交流、諍い事などを調べる役目である。ときには重要機密を盗み取り、要人暗殺もあろう。
「まさかこの
頓狂な声で真之介は訝った。
「世の中には、まさかという坂も多いのだ。真さんはこの地に来てまだ一年と経ってはおらぬだろ?」
「うん、年を越せば丸一年というところ」
「拙者は丸三年になろうか。の、真さん、この藪坂藩も小藩なりに抱えている問題は山積しておろう」
「そういうものなのか?」
「ははは、真さんは正直なところがいい。な、聴くところでは、江戸ではご正室がようやくご懐妊されたとか。国元には、側室が三名ほどおられ、男児女児ともうけられておる。いずれ世継ぎを争う内紛になりかねない……」
「ひゃ、そ、そんなことが……?」
真之介は驚いた。就活にはそのような知識も必要なのだろうか。
「じつは拙者は一度、さる御重臣から仕官の推挙をいただく直前までいったことがある」
「ほ、それは初耳……」と、真之介はさらに驚いた。
「国元のご側室に連なる一族で、男児誕生なら仕官するのはやぶさかではないとおもうておったのだが、産まれたのは女児。しかも早逝されてしまわれた……」
「はあ……そこまで考えねばならないとは……」
「いや真さんは、まだお若いのでじっくりと腰を据え就活されればいい。拙者は年が明ければ三十だ。古来、三十にして立つ…と申すそうな。や、話が逸れてしまったが、密偵や隠密どもは、数世代に渡って土地に住み着き、一朝事あらば使命をまっとうするそうだ。
真之介も噂には聴いたことがあった。幼年期、縁あって京の
「なるほど、では孫さんは、おヨネ婆というのは、
いつになく真之介も真顔になって、眉を寄せた。
「あの軽業をみたかぎり、その可能性は高い。芸妓となりて藪坂家中の情報を集めていたやもしれぬし……」と、孫兵衛がふんふんとうなづいた。
「なるほど、じゃあ、ちえ坊の悩みもそのあたりにあるというのか?」
真之介がいった。あのいたいけな少女がまさかそのような大事で悩んでいるとは想像し難く、真之介は何度も唸った。
「拙者はそのあたりを当たってみるとしよう。明日は真さんに同道できぬが、後日、知らせよう」
「わかった、
そう言って別れたあとでも真之介の表情はあくまでも堅いままで、とぼとぼと独りごちながら帰途についた。
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