【青雲の門】 秘剣朧舟が冴える!「成り上がり御落胤就活侍がゆく」

露霞 雹(つゆがすみ❄ひょう)

神様のはかりごと

たおやかで美しい

 板塀越しに見た空の色は、稲荷社のただずまいよりも鮮やかにあかく染めあげられていて、そこに鱗雲が重なれば、あたかも魚が泳いでいるように感じられただろうにと、はおもった。

 そうなれば、あの憎たらしいおヨネばあがいまにも目の前に立ち現れそうな気がするのだ……。

「ちょっと、ちえぇ、いつまでもそげんとこに、おっ立ってないで、はよう、はいりんさいよぅ」

 戸口からいつもの甲高い声が響いた。

 振り返ると、残陽のややきつい光のたばが、はつからだを貫いているようにみえた。

 初はやや上等の無地の紺絣こんかすりの上に白い前垂れ着を羽織って、髪を後ろでくくり紐で結い上げてちょこんと丸め、お気に入りの瑪瑙めのう細工のかんざしを斜め差しにしていた。

 落陽の光の束が、瑪瑙にねて、の眼を射った。あまりのまぶしさに、少女には初がまるで光の輪に包まれて突然現れたかのように見えた。

(き、れ、い・・・・かんざし・・・・)

 いつもはそう思っている。

 すると自分も早くあんなかんざしを刺せるおとなになりたいなどと背伸びするのだ。そんな少女のたかぶりを、父親の八右衛門はちえもんはいつも苦々しい顔でにらみつける。

 慌てて八右衛門が後ろに居ないかと、は思わず振り返った。

 そして、ああ、お城の御用で今夜は向こうでお泊まりなんだ、と思い出した。

 それにしても。

 あんないかつい顔をした、お腹のあたりがでっぷりとせり出している、どこから見ても“|風采《ふうさいの上がらない”(とは、近所の幼馴染の親がよく言っているのだが)父のもとに、のような綺麗な女人が身を寄せてくれるとは、十歳になったにもそれはもう驚きというものを越えた異変事いへんごとだった。

 御番組おばんぐみ追手番おってばん八杉やすぎ八右衛門は、十俵二人扶持ににんぶちという下層武士で、妻を亡くしてからは再婚することはなかった。

 そもそも縁談が持ち込まれなかったからだ。

 凡庸然ぼんようぜんとした風体ふうていもさることながら、やはり、追手番というその職掌しょくしょう忌避きひされたようであった。

 追手番は、隠密捕縛の任にあたる。

 町奉行ではなく家老直属の組織で、犯科人の追補だけでなく処刑時の検死までを担当する。藩士からだけでなく、とりわけ城下の町人たちから忌み嫌われていた理由もこのあたりにある……。

 その八右衛門のもとに、つい二か月前、突然、現れたのがという女だった。

 ちえは、

(新しい母上が来てくれたのだ)

と素直に喜んだ。なんと、美しいのだろうと驚いた。そうして飛び踊るほど喜んだ。

 嬉しさのあまり、最初はどこかにやられていた実姉が帰ってきたのだとすら勝手に思い込んだほどである。

 けれども親戚でもなんでもなく、三年ほど前に八右衛門が盗賊追補という御用のすじで、商人の身なりに扮し幕領ばくりょう(幕府直轄地)へ潜入したおり世話になった相手であるらしかった。八右衛門は格闘の末に賊二人を仕留めたが、太腿ももと左肩に手傷を負い、路傍に倒れていたのを通りがかったが家に連れ帰って介抱してくれたらしい。

 借りは返さねばならぬ、と父、八右衛門は、しばらくが同居することをちえに告げた。

 だから決して新しい母ではないし、の寝所はいまでも八右衛門とは別室である。

 それでも。

 このままに居てもらいたいとちえは願い、

『新しい母上になってくれますように……』

と、何度、稲荷社に拝みにいったことだろう。

 ところが。

 やしろぬしともいうべきが、

『かくのごとき願いなど聴き届けぬぞえ』

と、いつもちえに向かって悪態をつくのだった。

 ……稲荷社には殿舎はない。

 もともと御山おやまと呼ばれてきた標高の低い山自体が御神体であるらしかった。今は没落して屋敷も朽ち果てた豪商が盛んなりし時、商売繁盛の祈念を込めて、京の伏見稲荷から勧請かんじょうし、朱漆を塗った鳥居を建立した。五十余年前のことだとから聴かされていた。

 いまも殿舎はなく、元は裏山にあった小さなほこらを移転し安置しているだけで、その周りに掘立柱ほったてばしらと綿布で覆った小屋があって、みついていたのがおヨネ婆であった。

 かつて、おヨネ婆は、御城下の料亭“華柳はなやぎ”で一番名の売れた芸者だったらしい。

 いや、藪坂やぶさか藩領では芸者とは呼ばない、芸子げいこと言った。それはどうやら、稽古けいこを重ね合わせた造語であるらしかった。

 藪坂やぶさかの芸妓は、躰は売らない、芸を売る。……近隣の他藩領でもそう囁かれているほどの芸達者がかつては揃っていたが、近くで温泉が湧いているわけではなく、参勤交代の行列が通る本街道でもない神坂藩に、料亭があるのをいぶかしがる向きもあったが、いまでは往時のにぎわいはなくなった。

 の特技は、蔦伝つたづたいである。

 綱渡り、ともいう。

 鳥居にからみついた蔦と蔦と這うようにして、するすると大蛇が舞うごとく這いながら、その一本の蔦の上に立ち、逆立ちはもとより、くるりと宙返りさえしてのける。

 そんな曲芸を披露し参拝客から金を貰うのである。そのとき、ついでに人相をみて予言ごとを述べ、それが当たると評判をとっていた。

 いってみれば神様の名代みょうだいともいうべきが、ちえの願い事を一笑に付すものだから、少女にはそのことだけがこころに雲が立ち籠めるほどの気掛かりだった……。



 その日、いつものように稲荷社に向かったは、初めてみる二人の侍をみて、

「ひゃあ」

と、叫んだ。

 いやそれは叫びというより、驚きに近かった。

とうさまをつかまえに来たぁ……!)

と、なぜか一瞬そんなことをは連想してしまい、石段の端で尻もちをついた。

「おい、大丈夫かぁ?」

 妙に間延びした声をあげたのは若いほうの侍で、

(ご浪人……)

だとさらに驚いた。丁髷ではなく、伸び放題の長い髪を後ろで束ねていた。もう少し年嵩としかさのほうはちきんと髷を結っている。

「おい、おい、そうこわがるなよ」

 若いほうの浪人がいった。

 よく見ると二重瞼で頬から顎にかけて童顔の面影が残っていた。

しんさん、こわがるなといえばいうほど怖がるものだぞ」

 言ったのは年嵩の浪人で、背はそれほど高くはなく、腹のあたりがぽこりと出ている。

(父さまと同じだ……おなかが出ている)

 そうおもった瞬間、のなかの恐れが掻き消えた。

 真さんと呼ばれた若者が、

「おれは男神おがみ真之介しんのすけ、で、こっちが、まごさん……山本孫兵衛さんだ」

と、ゆっくり告げてからにこっと笑った。

 それでも返辞へんじに窮していると、は『助けにきた……』ということばを確かに聴いた。

「……おれは大工長屋に棲んでいるんだ。ほら、佐吉さんという棟梁がいるだろ? ま、知らないかも知れないが、その棟梁に頼まれて助けにきたんだ……」

 どちらかといえば真之介は幼児童女をて手なづけるのは苦手ではない。むしろ妙齢の女人や同年代の女子と接するのは得手ではなかった。かりに肩や腰を撫でられようものなら、すこぶる体幹からだじゅうが痒くなるのだ。とくに、頸回りがあたかも虫に刺されたかのごとくに赤く腫れあがる。一刻いっとき(約二時間)ほど経てば元に戻るのだが、それがいやで自分から話しかけることはなかった。

 のことは棟梁から真之介は聴かされている。まだ九歳あたりであったろう。

「……な、坊、大工職人のおかみさんが、稲荷社の境内でちえ坊と、ええと、なんといっていたかな……」

「おヨネ婆だろ? 境内に勝手に掘っ立て小屋を建て棲んでやがる……元芸妓かなになで軽業かるわざで参拝客から投げ銭を稼いでいる……」

 横から孫兵衛が助け舟を出した。

「あ、それそれ、その婆さんと坊が言い争っているところを見かけたそうだ。他の者も見たことがあるらしく、二度や三度ではないと聴いたぞ」

「……………」

 ちえは頷くこともなく否定もしない。ただ空虚を探っているかのような大人びた目で遠くを見ている。

「だ、か、ら、ちえ坊を助けてやってほしい、なにか悩み事があるのなら、聴いてやってほしいと頼まれたんだ」

 真之介は何度もおなじことを繰り返す。けれどもまた口を開こうとはしなかった。

「どうした? もしかして……家に居着いた美女のことが気になるのか?」

 突然、真之介に核心を突かれたもので、思わずはこくんと頷いてしまった。誰かに聞いてほしいと思い続けてきたちえにも、きょがあったのかもしれない。

 を見かけたことも口を交わしたこともない真之介だが、大工職人らの噂になっているほどだから、そのことを口に出したにすぎなかった。けれどの動揺は、の存在がなんらかの騒動の起因になっていたかもしれなかった。そう真之介は類推すると、

「な、ちえ坊、明日、同じ時刻にこの場で会いたい。一晩考えて、できれば悩みのもとを話してほしいんだ」

と、念を押した。

「とうさまをご存知なのですか?」

 ぼそりとが問うてきた。丁寧な口調である。よほどしつけられていたのであろう。

「いや、お会いしたことは一度もないんだ。ほら、このとおり、おれはしがない浪人だろ? でも、だから、この藩にはしがらみが一切ない。職人や近所のものたちがとても坊のことを心配している……それを解決するのが、こたびのおれたちの仕事なんだ」

「お仕事……?」

「そうなんだ、大工長屋で居候している身だから、気持ちは職人たちと同じだよ。ちえ坊の父上にもお役目にも迷惑はかけないと誓うよ。だから、一晩で、気持ちを整理して明日また……」

 謳うように真之介がいうと、はそのまま立ち上がり、こくんと軽く頭を下げると石段を駆け下りていった。その姿をみていた孫兵衛が、

「いやあしんさんはよく喋りますなあ。しかも子どもの扱いに慣れている」

と感嘆の声で称えた。

「この地にたどり着いたころ、最初にもらった仕事は長屋での子守だったから」

 真之介はほんの少し照れ笑いを浮かべた。

「それにしても孫さんはじっとみていただけだ」

「そう怒るな。じつは拙者はわらべがすこぶる苦手なのだ。妙齢の婦人ならばぜひにもおまかせ願いたいがな……どうやらは、初という女もさることながら、父上の身を案じていたのやもしれぬ。ふとそうおもった」

「ええと、八杉やすぎ……」

「八杉八右衛門……八八はちはちさんと呼ばれているようだ」

「はちはち……かぁ……二度刺されるとやっかいだなあ」

 珍しく真之介が駄洒落を洩らすと、それには反応せず孫兵衛が急に真顔になって、おヨネ婆のことに話題を転じた。

「……拙者も一度だけ綱渡りの芸を観たことがある。なんともすばやい動きで、身も軽く、宙を蝶のごとくに舞っておったぞ……噂だと元芸妓だそうだが、どうもそれだけではない過去があるようにおもわれてならぬがの」

「過去……?」

「拙者の遠縁のものが山陰の小藩で卑役ひやくに就いておるが、譜代外様とざまの別なく、どこの家中かちゅうでも隣藩や天領代官所が放った密偵狩りに腐心しておるそうな」

「密偵……?」

「そうだ。なかには江戸からの隠密も潜んでおるとかいうぞ」

 歳の効かもしれないが孫兵衛にはかれなりの情報収集網を培ってきたらしかった。同じ就活侍の真之介もそこは頭を下げるしかない。

 江戸からの隠密というは、いわゆる公儀隠密である。藩の内紛、他藩との交遊交流、諍い事などを調べる役目である。ときには重要機密を盗み取り、要人暗殺もあろう。

「まさかこの藪坂やぶさかに公儀隠密が……?」

 頓狂な声で真之介は訝った。

「世の中には、まさかという坂も多いのだ。真さんはこの地に来てまだ一年と経ってはおらぬだろ?」

「うん、年を越せば丸一年というところ」

「拙者は丸三年になろうか。の、真さん、この藪坂藩も小藩なりに抱えている問題は山積しておろう」

「そういうものなのか?」

「ははは、真さんは正直なところがいい。な、聴くところでは、江戸ではご正室がようやくご懐妊されたとか。国元には、側室が三名ほどおられ、男児女児ともうけられておる。いずれ世継ぎを争う内紛になりかねない……」

「ひゃ、そ、そんなことが……?」

 真之介は驚いた。就活にはそのような知識も必要なのだろうか。

「じつは拙者は一度、さる御重臣から仕官の推挙をいただく直前までいったことがある」

「ほ、それは初耳……」と、真之介はさらに驚いた。

「国元のご側室に連なる一族で、男児誕生なら仕官するのはとおもうておったのだが、産まれたのは女児。しかも早逝されてしまわれた……」

「はあ……そこまで考えねばならないとは……」

「いや真さんは、まだお若いのでじっくりと腰を据え就活されればいい。拙者は年が明ければ三十だ。古来、三十にして立つ…と申すそうな。や、話が逸れてしまったが、密偵や隠密どもは、数世代に渡って土地に住み着き、一朝事あらば使命をまっとうするそうだ。くさとか、草鞋わらじと呼ばれる……」

 真之介も噂には聴いたことがあった。幼年期、縁あって京の鞍馬くらまで過ごしたことがあるが、そこでの剣の師、鞍馬御坊は、もとはある大藩たいはんで探索方の役目を担っていたらしかった。

「なるほど、では孫さんは、おヨネ婆というのは、くさたぐいかもしれないと?」

 いつになく真之介も真顔になって、眉を寄せた。

「あの軽業をみたかぎり、その可能性は高い。芸妓となりて藪坂家中の情報を集めていたやもしれぬし……」と、孫兵衛がふんふんとうなづいた。

「なるほど、じゃあ、ちえ坊の悩みもそのあたりにあるというのか?」

 真之介がいった。あのいたいけな少女がまさかそのような大事で悩んでいるとは想像し難く、真之介は何度も唸った。

「拙者はそのあたりを当たってみるとしよう。明日は真さんに同道できぬが、後日、知らせよう」

「わかった、まごさんにはそちらを頼む」

 そう言って別れたあとでも真之介の表情はあくまでも堅いままで、とぼとぼと独りごちながら帰途についた。

        

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