ぬくもりをさがして

かたなかひろしげ

サムい

 「それじゃあ、N澤さんが昨日もそこの席に座ってたってこと?」


 今夜も俺はここ数日の寒さから逃げるように、いきつけのスナックでぬるい水割りを煽っていた。酒飲んで帰って、温かい布団で寝る。これこそが冬の醍醐味である。


 ここは駅前からも少し離れた場所にある小さな店だ。使い古したカウンターの前にある8席を、店のママが一人で回している。しかしいつ来ても満席になったのは見たことがなく、その顔ぶれもそう変わらない、そう。よくある類のうらぶれた個人スナックだ。


 かくいう俺も初訪問の時は、随分としけたスナックだと思ったのだが、適当に頼んでみた、ママの田舎から送られてくるという枝豆が非常に旨く、そんな豆に釣られて気がつけば、俺も常連となってしまっていた。


 そんなママから、とある相談を受けたのは数日前。

 話の内容は他でもない、カウンターのとある決まった席に、いつの間にか男が座ってしまい、とても困っている。というのだ。


 それも普通の人間であればまだ良いが、それが最近急に来なくなった常連客だというから、どうにもきな臭い話となる。それでは元々幽霊が視えるのかとママに尋ねてはみたが、そんなことはなく、きまって自分の店でだけ、あの男が視えるという。


 話が自分だけであれば、まあ見て見ぬふりをすれば良いだけの話であり、数日間はそれで良かった。


 だがしかしそれが、他の客からも指摘されるようになれば話は別だ。しかもその男、元々は常連客であったため、他の常連客とも顔見知りなのはどうにも都合が悪かった。N澤がいつの間にかカウンターに座っている、と常連客の中で評判になるまで、そう時間はかからなかった。


 決まってそのN澤が座るのは、店の一番奥のカウンター席と決まっていた。その席は、冬場はエアコンの風が直接当たる席の為、普段は荷物置き場にしていて、あまり人を座らせないようにしていた。だが、あのN澤という常連客は、冬は寒がり、夏は暑がりであった為、好んで空調の風が当たるあの席にばかり座っていたのだ。


 座わられてなにか実害があるのかというと、なにもなく、常連客が気にして話かけようとすると、すっと消えていなくなる。そして気がつくとまた別の日に現れる、といった具合であり、なにか目的があって現れているようには到底思えなかった。


 ただ、やはり「最近こなくなった常連客」が、いつもの席にすっと現れるというのは、それはもうそれで顔見知りの客達は、粗方の事情を察してしまうものだ。恐らくはもう、N澤は生きていないのだろう、と皆思い始めていた。


「ねえ。N澤さん、昨晩も出たんだって?」

「そう……そうなの。困ってしまってね。N澤さんが亡くなった、って決まったわけではないのだけれど、やっぱり幽霊が出るってのは辛気臭いじゃない? 怖がって帰ってしまう人も最近はいるし……こういう小さな店だからね、常連が一人でも減るのは厳しくて」


 N澤さんは、俺も常連なので何度か見掛けたことがあった。確か数度、簡単な会話をしたかもしれない。太いフレームに、傷だらけの分厚いレンズの入った眼鏡をかけた姿を、俺はぼんやりと思い浮かべていた。あの厚い眼鏡の奥の目はいつもどこか濁っているように見えて、正直、俺は苦手なタイプの相手だった。正直その時、何を話したのかも覚えていない。俺から見ればそんな人だった。


 ふと、俺はなにかひらめいた気がしたので、ちょっとした提案をしてみた。


「思ったのですが、たしかN澤さんって、寒いの嫌いでしたよね」

「そう。だから今みたいな冬の時期は、エアコンの風が当たるあの席にしか決して座らなくて」


「でしたら、エアコンの風、当たらないようにしてみたらどうでしょうか? 風向き、変えられましたよね」

「えっ?それは考えてみたこともなかったけど……その、N澤さんの霊が怒ったりしないかしら?」

「その時はその時でまたエアコンの風を当てれば、きっとOKですよ!」


 俺のよくわからない説得により、目出度くもお店のエアコンの風向きは無事変えられ、問題の席には風がまったく当たらなくなった。


 ───それから数日が経過した。


 俺は人伝いで、なにか相談したいことがある、と店のママから呼び出されていた。こんな寒い日は大好きな温かい布団にでもくるまって、寝酒で済ませてしまおうと考えていた。だが、先日適当なアドバイスをしてしまったことも気になり、俺は重い腰を上げて店に向かうことにしたのだ。


 冷たい冬の風の中、店の地味なドアを開けると、店内から蒸し暑い風が、もわっと顔に当たる。


「ママから連絡貰うなんて珍しいですね。なにかあったんですか?」

「聞いてよ。あのエアコンの風向き変えた後、でなくなったの。出なくなったのよN澤さん」


「よかったじゃないですか」

「でもね……それが今度はエアコンの風が当たる他の席に出るようになっちゃって。それでその席に座ると、人の気配が背後にするらしいのよ。生暖かい息まで首筋にかかるとかで、客も逃げちゃうし、どうしようかと思って」


 なんともそれは困った話だ。いつも座ってた席にしか出ないだろうと思い込んでいたが、どうやらN澤さんはそうではないらしい。しかしそれなら逆に話は簡単だ。空調の風が、もう席には直接かからないようにしてしまえばいい。


 あまり清掃が入っていなかったのか、店の古いエアコンの羽は薄く黄色いホコリが積もっている。俺はそれを手で掴んで無理矢理に向きを変えると、プラスチックのきしむ音がきしきしと鳴った。


 前回調整したエアコンの羽を、上下に動かすのではなく、思いっきり左側、つまり店のトイレのドアに向けた。空調としての効率は落ちるが、これで席に風が当たることはなくなったはずである。


「これで大丈夫でしょう。それとこのエアコン、掃除したほうがいいですよ?」


 俺は指先にべたっと付いてしまったホコリを、ママに見えるようにぶらぶらと振ってみせた。とはいえ、流石にそのままでは気持ちが悪かったので、そのままトイレに入り、洗面台で手を洗うことにした。


 この店のトイレは男女兼用で、前室に洗面台と鏡、中のドアを開けると便器の置かれた個室がある、という極一般的なものだ。部屋でタバコを吸う不届き者が多いのか、部屋の壁紙は黄色くなっており、これはきっと元々はこういう色ではなかったのであろうことを想像させる。


 密室ではあるがビル空調が回っているので、冬だというのに部屋の中はそれほど寒くはない。先程、エアコンの風向きをトイレに向けたこともあってか、部屋は水回り特有の湿気があるものの、妙に暖かい。


 ───洗面台で手を洗っていると、ふと襟元に生暖かい風を感じた。

 これは、空調の風ではない、とすぐにわかった。これは……人の吐息だ。


 すぐに先ほどのママの言葉が頭に蘇る。


 「人の気配が背後にするらしいのよ。生暖かい息まで首筋にかかるとかで──」


 これはつまり、それだろう。エアコン、エアコンなのか?温かい風が当たる場所でよければ、それが席だろうが、トイレの洗面台だろうと、おかまいなしなのかN澤さんは。俺は心の中で少しN澤に毒づいた。


 洗面台で手を洗っている俺は必然的に手元を見ている。正面には鏡があるはずで、つまり俺が今顔を上げれば、鏡の中の奴を見ることが出来る。


 今、隣で生暖かい吐息を吐きかけている奴がどんな顔をして、俺みたいな男に吐息を吹きかけているかを、うまくいけば拝めるかもしれないのだ。


「サムい……」


 なにか耳元でつぶやくような声が聞こえたような気がした。


 俺は覚悟を決めて、好奇心と、純粋な恐怖を天秤にかけた───




「もとやまさん!」


 俺は不意に耳元で聞こえた声で目覚めた。


「よかった……トイレで倒れているから、心配したんですよ」

「え、ええ。ちょっと気持ちが悪くなってしまって倒れてしまったみたいで、すみません。今日はもう帰ります」

 

 店のママはばつが悪そうな感じでものすごく心配してくれた。軽く介抱の礼をしつつ、俺はトイレを出た後、エアコンの羽をトイレに向けていたのを少しずらし、壁に向けるように調整しておいた。トイレは落ち着いて使いたいだろうと思いつつ。


 その後、店にはN澤さんは現れなくなったらしく、ありがたいことに、ママには大盛の枝豆をサービスしてもらった。



 ───だがこの冬、俺はずっとよく眠れない日々をおくっている。


 夜、布団に入り、その中が俺の人肌で温まってくると、布団の中に気配がするのだ。

 そう、あの時の生暖かい気配。


 布団の中に何者かの気配を感じると、暗闇の中でも、少し意識がはっきりする。身を刺すような冬の冷気の中、なけなしの勇気を出して薄目を開ければ、ご丁寧に掛布団は不自然なまでに膨らんでいるのがわかった。


 どういうことか。暗闇でよく見えないはずなのに、呼吸のリズムで布団の膨らみは、まるで脈動しているかのようにすら見える。

 

 朝に目覚める度に、もしや俺は、また迂闊にも布団の中を覗いてしまったのか、と思うのだ。


 尚、記憶はない。

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