婚約破棄されてヌン活に走った令嬢の話
良宵(よいよい)
第1話 婚約破棄の庭
アルビオン王国の冬は長い。王都周辺は海流の関係で降雪が少ないが、昼も夜も空は厚い雲に覆われて、太陽が顔を出すことは滅多にない。白と黒。王国の冬はこの2つの色でできている。
そんな冬に終わりを告げるのは、水仙の黄色だ。野山に、森に、道端に、庭の花壇にこの花が咲くと、人々は春の訪れを知る。
それを合図に木々は一斉に芽吹き、花が咲き乱れる。クロッカス、アネモネ、アーモンド、薔薇。モノクロの冬から一転、王国の春は色彩で溢れるようになる。
短い春を楽しもうと、人々はこの季節、森にピクニックに行き、庭でガーデンパーティーを開く。特に上流階級の人々は、ご自慢の庭でお茶会を開いて親しい友人を招く。
5月の良く晴れた午後、王都にあるモリス伯爵のタウンハウスでも、女主人が美しい庭に客人を招いてお茶会を開催していた。この時期のモリス邸の庭の見どころは、何と言っても藤の花である。近年、東方のダータン帝国から海を越えてはるばるやってきたこの植物は、気候が合ったのかこの国の土に良く根付いた。
藤は、蔓を伸ばしてモリス家の屋敷の白い壁一面に張り付き、黄緑色の葉を茂らせ、薄紫色の花房をいくつも垂らした。花からは甘い香りが降りてきて、その香りを嗅ぐ者をうっとりと夢心地にした。
花の甘い香りに負けじと芳香を放つのは、庭のガーデンテーブルの上の紅茶だ。
リディア・グレイは、紅茶の入った茶碗を
(ああ、美味しい。それにしても、お茶の作法って苦手だわ……)
この、茶碗から受け皿に紅茶を移してから飲むと言うスタイルは、紅茶先進国の
そもそも、過去にアルビオン王国を始めとした西方諸国に東方のダータン帝国やホツマ国から磁器とともにお茶が伝わったとき、そのお茶は緑茶だった。緑茶はぬるめのお湯で淹れるため、薄手の磁器の茶碗で直接飲んでもまったく問題なかった。
しかし近年、植民地で大量に栽培されるようになった茶葉は発酵され紅茶に加工されてから王国にやって来る。そして、紅茶は熱湯で淹れるのが一番美味しかった。
そこで、この奇怪なお作法である。熱々の紅茶を茶碗から受け皿に移し、冷ましてから飲む。
(お鍋のように、
そう思いながら、リディアは、
(胡瓜をご馳走になる貴重な機会だったけど、この家の茶会に呼ばれるのも今日が最後のようね……)
みずみずしい胡瓜のサンドイッチを味わって食べたリディアは、周囲を見回した。
のん気にお茶を楽しんでいるのは彼女1人だけであり、お茶会の主催者のモリス夫人は気絶し、騒ぎを聞きつけて飛んできたモリス伯爵は息子アーネストを殴り、吹っ飛ばされたアーネストが白薔薇の茂みに頭から突っ込み、彼の恋人が悲鳴を上げると言う、修羅場の真っ最中であった。
(さて、最後のご奉公といきますか)
ナプキンで口を拭った彼女は立ち上がった。
リディアは半年後にはこの家に嫁ぐ予定であったため、定期的にこの家に通ってモリス夫人から家政を教わり、使用人たちとも面識があった。この大混乱を治めるために使用人たちに指示を出し、モリス夫人を寝室に運ばせ、婚約者、いや、元婚約者のアーネストを治療させ、困惑する招待客に謝罪してお引き取りを願うことができるのは、現在、彼女だけであった。
使用人たちに指示を出しながら、リディアは、ついさきほど起きた婚約破棄騒動に思いをはせた。
*****
リディア・グレイ伯爵令嬢が、アーネスト・モリス伯爵令息と婚約を結んだのは2年前のこと。当時リディアは16歳、アーネストは19歳と年頃も良く、家柄も釣り合いが取れていたため、縁談はすぐにまとまった。
アーネストは、モリス家唯一の男児である。年の離れた姉が1人いるが既に嫁いでおり、彼が伯爵位を継ぐことは確定していた。アーネストの大学卒業を待って結婚すれば、やがてアーネストは伯爵に、リディアは伯爵夫人になる予定であった。
リディアは、婚約してから定期的にモリス家のタウンハウスに通い、姑となるモリス伯爵夫人に家政について教えを乞うていた。少し夢見がちだが素直な性質のリディアは、モリス夫人に可愛がられ、嫁姑の仲は良好であった。モリス伯爵とはあまり接点がなかったが、折に触れて将来の義娘を気にかけてくれた。
問題は
いや、よくよく思い返してみれば、アーネストとの相性はそこまで悪くなかった。彼は明るい性格で、体を動かすことを好み、ダンスが得意であった。夜会にパートナーとして出席して彼と踊ると、自分までダンスが上手くなったように錯覚するほど巧みにリードしてくれた。スポーツ、とりわけボート競技が趣味で、よく大学の友人と川に練習に出かけていた。
彼はアウトドア男子で、どちらかといえばインドア女子のリディアとは趣味が合わなかったが、別に夫婦で同じ趣味を持つ必要はないし、お互い好きなことをしていればよいと、貴族の娘らしくリディアは割り切っていた。
2人の間に燃えるような恋愛感情はなかったが、お互い『そう悪くない』相手と認識していたはずだった。
ただ、1つだけ懸念があった。
それは、モリス家のタウンハウスの
イザベラは、アーネストと同い年の、赤みがかった明るい金髪と青い眼の美人であった。使用人としての働きぶりに特に目立ったところはない、というのが彼女に対するリディアの評価であった。
違和感を覚えたのは、モリス家に通うようになって1年ほど経ってからであった。
「やだ、アーネストったら、冗談ばかり」
「本当だって」
モリス家の廊下を歩いていると、使われていない客間から、男女の声が聞こえた。そっと覗いてみると、それはアーネストとイザベラであった。2人の親しげな様子にリディアは何となく気おくれして部屋に入って行けず、思わず逃げるようにその場を去ってしまった。
アーネストは気さくな人柄だが、あそこまで使用人となれなれしくしているのを見たことはない。悩んだリディアは、後日、アーネストにイザベラとの関係を問いただした。
「イザベラは幼馴染なんだ」
悪びれることなく答えたアーネストによると、イザベラはモリス家と領地の近い男爵家の令嬢であった。2人は幼いころからの遊び友達であったが、彼らが16歳の頃に男爵家が没落し、一家は平民になった。債務整理の末にある程度の元手は残ったので、一家は王都で商売をしながら暮らすことにした。その際、長子のイザベラが女中奉公に出ることを決め、知り合いのモリス家で雇うことになった。
「そうだったの」
リディアは納得したが、心にもやもやとしたわだかまりが残った。かつて友人だったとはいえ、彼女の態度は、主人の息子に対するにはあまりにも気安いのではないだろうか。
モリス夫人に相談すると、彼女はため息を吐いた。
「イザベラ……あの娘はねえ……」
彼女を雇うことになったとき、これまで友人であったアーネストと使用人として関わるのはお互いに気まずかろうと思い、モリス夫人は彼女を領地の屋敷か別荘に送ろうとした。しかしイザベラがこれを嫌がり、家族のいる王都で働きたいと懇願し、タウンハウスの客間女中になった。
しかし、お嬢様気分が抜けないのか仕事ぶりは不真面目で、女中頭が厳しく指導しようとすればアーネストがかばうので、使用人の間に不満と不協和音が生じていた。
「どうにかしなければとは思っていたのよ。悪い娘じゃないのは分かっているけど、労働に向いていないし、このまま家にいれば騒動の種になる予感がするわ。今、彼女のために良い嫁ぎ先を探しているの」
悪い予感とは当たるものである。モリス夫人の予感は正しく、彼女はとびきりの騒動を起こした。
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