第四十三話 『ヴァルセリアの予言。毒を盛る者と剣を振る影』

 槍試合の決着は、あまりにも冷酷で、私の胸に冷たい鉛のような重みを残した。




 果物のように潰れたミハエルの亡骸が、砂の上に無惨に横たわっている。頭部は形を失い、血と脳漿が混ざった温い湯気が立ちのぼり、甘く鉄錆びた匂いが鼻腔を刺す。その匂いは風に乗って、貴族席に座る私のもとへと忍び寄った。




 返り血と飛び散った脳片は、イザベラとマリーベルのドレスを容赦なく汚した。絹の深い色合いは赤と灰色に染まり、艶やかさを失っていく。




「いやあああああ!」




 イザベラは狂乱の叫びを上げ、椅子を倒しながら後ずさる。頬に散った細かな血飛沫が、恐怖に引き攣った顔をさらに醜く歪ませていた。




 だが、隣のマリーベルは沈黙したままだった。瞳は暗く沈み、感情を押し殺したその表情は氷のように冷たい。彼女は迷いなく立ち上がると、ワインの置かれたテーブルへと足を運ぶ。




 そこには、マグダレーナが無表情のまま立っていた。まるでこの惨劇など眼中にないかのように、彼女は彫像のように動かず、冷たい瞳でマリーベルを見据えている。




 マリーベルは無言のままテーブルに手を伸ばし、毒を忍ばせたワインのグラスを取った。マグダレーナは一歩引き、まるでそれを当然の儀式のように見守っている。




 マリーベルはそのグラスをしっかりと握り、王座席へと向かって歩みを進めた。観客のざわめきは遠のき、石床に響く靴音だけが耳に残る。




 王の前に進み出たマリーベルは、深く一礼し、言葉を発することなく毒入りのワインを差し出した。その所作は一見忠誠の礼のようでありながら、その奥底に潜む黒い影が、私の胸を締めつけた。




 王は、壮絶な御前槍試合の結末を見届けると、深く息をつき、わずかに喉を鳴らした。




「……喉が渇いた」




 その言葉に応じるように、マリーベルが静かに一歩進み出る。手には、先ほどマグダレーナから受け取った深紅のワインの入った杯が握られていた。彼女の表情は冷ややかで、口元には微笑すら浮かんでいない。




 王はためらうことなく、その杯を受け取ると、喉を上下させて一気に飲み干した。濃厚な赤が杯から消えるのと同時に、場に微かな緊張が走る。




 王は立ち上がり、観客席を見渡した。その声音は張りがあり、戦場の雄叫びにも似ていた。




「勝者、ゴリアテ!」




 喝采とどよめきが混じる中、王は続けた。




「これより、近衛隊長の役目はゴリアテに任せる!」




 その言葉に会場が揺れるような歓声を上げる。私は、その光景を見ながら、心の中で小さくつぶやいた。




「……これで、この王の役目は終わった」




 次の瞬間だった。王が観客席の最前列でふと目を見開いたかと思うと、苦しげに喉を押さえ、膝から崩れ落ちた。




「ぐっ……!」




 鮮血が唇から溢れ、胸元を赤く染める。観客席から悲鳴があがる中、王はもがきながら血を吐き、重力に引かれるように前のめりに転げ落ちた。




 鈍い音を立てて石床に倒れ込むと、その身体は二度と動かなかった。




 数分前まで武勇と歓喜で満ちていた空気は、一転して凍りつき、やがて阿鼻叫喚の嵐に変わる。叫び声、泣き声、逃げ惑う足音が入り乱れ、玉座の間は混乱の渦に呑み込まれていった。




 王が絶命した瞬間、場内は異様な静寂に包まれた。喉の奥から漏れる誰かの息だけが耳に残り、観客席のざわめきすら止まっていた。




 私は隣のフリードリヒに目をやる。だが、そこにあったのは父の死を受け止める息子の顔ではない。頬は一瞬でこけ、皮膚は黄ばんで皺だらけになり、髪には白が急速に広がっていく。まるで時の流れが彼だけを容赦なく押し潰しているようだった。




 私は悟った。――サキュバスだ。精気を根こそぎ奪われた彼は、父王の死さえ理解できず、虚ろな瞳で宙を彷徨わせながら、意味不明のうわごとを漏らし、口端からよだれを垂らしていた。




 その瞬間、私は確信する。この国の支配権は、完全に私の手に落ちたのだと。




 私は立ち上がり、王の亡骸に群がる衛兵たちへ向かって声を張り上げる。




「現場を保全しろ! 観客は一人たりとも外へ出すな。王は毒殺された。全員の荷物検査が終わるまでは、この場から一歩も動かすな!」




 命令が石壁に反響し、衛兵たちが一斉に動き出す。逃げ腰になった観客を押し留める兵の動きが視界の端で揺れる。恐怖と混乱の臭いが、血の匂いに混ざって鼻を刺した。




 私はゴリアテに目を向けた。彼は無言で頷き、全身で覚悟を示すように前へ進み出る。




「この場の指揮はお前に任せる、ゴリアテ!」




 私は高らかに宣言した。その声は群衆のざわめきを押し沈め、視線を一斉に私へと向けさせる。――今、この場を支配しているのが誰なのか、誰もが理解していた。




 御前槍会の余韻が消えぬ会場は、血の匂いと鉄の匂いが入り混じり、重苦しい空気で満ちていた。観客たちのざわめきが遠くに響く中、衛兵の一人が低く叫ぶ。




「……見つけました! 毒入りのワインボトルです!」




 彼の手に握られていたのは、金細工の首輪が付いた高級ボトル。紫がかった液面が微かに揺れ、光を反射して妖しく輝いている。周囲の空気がさらに張り詰めた。




 すぐに事情聴取が始まる。マグダレーナが人々の視線を真っすぐに受け止め、静かに証言を口にした。




「最後にそのボトルからグラスへ注いだのは……次女です」




 その瞬間、衛兵たちが無言で動く。金属音が響き、次女の両腕が後ろ手に取られ、冷たい鉄の拘束具が嵌められた。彼女の顔は青ざめ、唇が小刻みに震えている。




 ゴリアテの鋭い声が場を切り裂く。




「侯爵家の長女も関与の疑いあり。二人とも地下牢に幽閉せよ」




 長女の叫びが響くが、兵たちは一切耳を貸さず、鎧の音を響かせながら姉妹を引きずって行った。観客席からは息を呑む気配だけが漂う。




 私は沈黙したまま、その光景を見届ける。言葉は不要だった。すべてが私の描いた筋書き通りに進んでいる。




 地下牢の闇と冷気は、沈黙を許さない。やがて侯爵家姉妹の口から、私が求める自白が吐き出されるだろう。そのための拷問も、必要ならば迷わず仕向ける。




 私は静かに目を細めた――駒はすでに、盤上から逃れられないのだから。




 王の葬儀は、私が主となって取り仕切った。役に立たなくなったフリードリヒの代わりに、静粛かつ盛大に――それは民衆に、この国の真の覇者が誰であるかを深く刻み込む儀式でもあった。黒衣の喪服に身を包み、凛と立つ私の視線を、誰も正面から受け止められない。鐘の音が重く響くたび、群衆は自然と頭を垂れ、私の存在を唯一の支配者として心に刻んでいった。




 一方で、裏ではマグダレーナを使い、王の死によって誰が最も得をするのかを民衆や貴族たちにささやかせた。噂はやがて一つの名に収束する――侯爵家を陰で操る黒幕、第三王子レオンハルト。巧妙に仕組まれた囁きは、確実に彼の足元を崩していく。




 その頃、ゴリアテは謹慎部屋を捜索し、一冊の日記を見つけ出した。そこには不穏な計画と、血塗られた未来図が記されていた。そして私の手元には、レオンハルト自らの筆跡で書かれた脅迫文が届く。証拠は揃った。




 私は命じた。「謀反の門でレオンハルトを捕らえよ」。鋼鉄の門が閉ざされ、逃げ場を失った彼は、衛兵たちにより鎖で縛られた。顔は蒼白、しかしその瞳には未だ傲慢な光が宿っていた。




 あとは、民衆の前で公開処刑するだけだ。広場には既に断頭台が組まれ、群衆のざわめきが風に乗って私の耳に届く。その瞬間、ふとヴァルセリアの言葉が脳裏に蘇った――『毒を持って笑う者と、陰で剣を振る者』。




 あれは、この私とゴリアテを指していたのだと、今なら分かる。




 私は小さく息を吸い、ゴリアテに視線を送る。その逞しい腕が剣を掲げ、夕陽の赤が刃を染めた。あとは、この刃が落ちるだけで、長き復讐の舞台は幕を下ろす。


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