第37話 『次なる布石』

 ほどなくして、フリードリヒの推挙により、マグダレーナは正式に女官長の座へと就いた。その報せを受けた瞬間、胸の奥で静かに炎が灯るのを感じた。




 左眼を細めると、視界の中にマグダレーナの姿が鮮やかに浮かぶ。彼女は宮廷の長い廊下を、氷のような気配を纏って歩いていた。足音が近づくと、侍女も役人も自然と脇へ退き、頭を垂れる。マグダレーナの視線は鋭く、ひと睨みで息を詰まらせるほどだ。すでに宮廷内では、彼女の冷徹さが静かな恐怖として広まり始めていた。




 私は左眼で彼女の心を掬い上げ、無言で命を下す。『この者とあの者の間に、微かな疑念を生ませよ』『あの貴族が密かに裏切っていると囁け』――ささやきは、刃より鋭く宮廷を切り裂くだろう。




 女官長の務めは、王妃や王女の身辺を整えるだけではない。彼女の耳は宮廷中の噂を拾い上げ、私の意図に沿って形を変えて広めることができる。その力を通せば、都合のよい物語も陰謀論も、まるで自然な風のように宮廷の隅々まで行き渡る。




 窓から差し込む冬の光が、彼女の背を金色に縁取っていた。その姿は、盤上に置かれた新たな駒の輝きのようで、私はその一手の重みを深く噛み締める。




 ――駒は揃い始めた。あとは、私が望む方向へ動かすだけだ。




 女官長という盤上の駒を手に入れた今、私の視線は次の空席へと移っていた。




 近衛隊長――王の最も近くで剣を構え、宮廷内外の武力を統べる座。その存在は玉座を守る盾であり、同時に敵を仕留める槍でもある。




 脳裏に浮かぶのは、ゴリアテの姿。闘技場で百戦無敗を誇った巨躯の戦士で、今は私の影のように寄り添う忠実な護衛。その剛腕は鋼をも砕き、その忠誠は決して揺らぐことがない。




 ――彼以外に、この椅子を託せる者はいない。




 指先が扇の骨をなぞる。女官長による情報網と、近衛隊長としての圧倒的な武力が揃えば、宮廷は完全に私の掌中に落ちる。盤は整い、あとは駒を動かすだけ。




 私はゆっくりと扇を閉じ、向かいに座るフリードリヒへと視線を移した。




「殿下――近衛隊長の任命権について、詳しくお聞かせ願えますか?」




 甘やかさを纏いつつ、その奥に鋼の響きを潜ませた声。フリードリヒはわずかに眉を上げ、口元に興味を帯びた笑みを浮かべる。




「……ほう、それを知ってどうする?」




「もちろん、殿下のお力になるために」




 言葉は柔らかく、視線はまっすぐに。内心では、彼が条件を語り出すのを待ちながら、次の一手をすでに計算していた。




 フリードリヒはグラスを傾け、赤い液面をゆらりと揺らしながら、私の問いに応じた。




「近衛隊長の任命だが……この国では血筋より腕だ。王の面前で槍試合を行い、勝った者がその座を得る」




 低く落ち着いた声には、誇りと現実を知る響きが混じっていた。




「ただ槍を振るうだけじゃない。王は余興好きだ。試合場をぬかるみにしたり、馬具を重くさせたり、時には楽師を入れて曲を変えたりする。観客席では貴族や将軍が酒を片手に騒ぎ、賭けが飛び交う……そんな混沌の中でも勝ち残れる者が選ばれる」




 口元に皮肉な笑みを浮かべたフリードリヒは、さらに続けた。「今の近衛隊長はもう歳だ。おそらく代行が出てくるだろう。王に頼んで、勝った者を新しい近衛隊長に据えるよう進言してやってもいい。その前に――お前が世を楽しませるのが条件だが」




 私はゆるりと扇を開き、その言葉を心の中で繰り返した。




 ――混乱、見世物、王の気まぐれ。それらをすべて乗り越えて勝てる者。




 扇の影から覗く視線の奥で、私は静かに結論を下す。




 あの男ならばやれる。闘技場で泥を踏みしめ、観衆の罵声を浴びながら、それでも敵を地に沈めたあの日のように。




 ゴリアテならば、この国のどんな槍も受け止め、そして折ることができる――。




 フリードリヒとの会話が終わり、私は扇を静かに閉じた。部屋の灯りが柔らかく揺れ、壁際の影が深く伸びている。その奥へと視線を向け、低く囁く。




「……ニール」




 黒い影がゆらりと動き、クローゼットの陰から漆黒の猫の姿が現れる。月光を受けた毛並みは絹のように艶やかで、金色の瞳が細く光った。




「ご用でしょうか、ご主人様」




 尻尾をゆったりと揺らしながら近づくニール。その仕草は優雅だが、足取りには獲物を狙う獣の気配が漂っている。




「老齢の近衛隊長の代わりとなりそうな者を探れ。槍試合――本戦でぶつかることになるであろう相手を、できる限り早く特定しなさい」




 私の言葉に、ニールの口元が人間めいた愉悦の笑みに歪む。




「なるほど……王の面前での決戦相手、ですね。承知いたしました。王城の訓練場、兵舎、そして下級将校の集まる酒場まで――すべて嗅ぎ回ってまいります」




 私は扇の骨を軽く指先で叩き、静かに頷いた。




「目立たず、しかし確実に。獲物は逃さないこと」




「お任せください、ご主人様」




 尻尾をひと振りすると、ニールは影の中へと音もなく消えていった。残されたのは、わずかな毛の匂いと、胸の奥で静かに膨らむ昂ぶり――新たな駒が盤上に現れるその瞬間を、私は待ち望んでいた。




 諜報に出していたニールが、音もなく影から姿を現した。月光が差し込む窓辺の傍らで、その金色の瞳が妖しく光る。彼の口元には、含み笑いの気配が漂っていた。




「ご主人様。実に面白い話を手に入れました」




 その声は、まるで新たな獲物を嗅ぎつけた黒豹のような自信と愉悦を孕んでいた。私は扇を閉じ、顎をわずかに引いて続きを促す。




「現近衛隊長が溺愛しているのは、ミハエルという青年です。容姿端麗、男爵家の出身。下級貴族ながら若くしてパラディンまで昇りつめた実力者。城内では近衛隊長の後継として噂されています」




 ミハエル――その名を心中で何度か反芻し、私は静かに息を整えた。盤上に新たな駒が置かれる音が聞こえた気がした。




 ニールは尻尾を一度だけゆらりと振り、さらに声を落とす。




「そして、そのミハエル殿……イザベラ様のご執心だとか。婚約相手にしようと、すでに恋仲らしいです」




 眉がかすかに動く。イザベラ――私の復讐対象。その女がかつてフリードリヒを狙っていたことは知っている。だが夢破れ、今度は若く有望な将を婿に選んだわけだ。




 胸の奥で冷たい笑みが形を成す。




「……おかしな偶然ね。絡め取る糸がまた一本、手元に落ちてきた」




 私はニールの瞳を見据える。そこには、次の指令を待つ狩人の光があった。




「ミハエルの行動、交友関係、戦場での癖……すべて洗い出して。特にイザベラとの接触は一瞬たりとも見逃さないこと」




「かしこまりました。網の目は、すでに城内の隅々まで広がっております」




 ニールは不敵に笑い、闇に溶けるように姿を消す。残されたのは静寂と、二つの標的を結ぶ見えぬ糸が、やがて命綱から絞首縄へと変わる確信だった。




 私は執務机から立ち上がり、扉の外に控えていた兵へ低く命じた。




「ゴリアテを呼べ」




 重い足音が廊下を響かせ、分厚い胸板を誇る大男が入ってきた。鋼のような体躯、鎧の隙間から覗く古傷が、闘技場で生き残ってきた歴史を物語る。今は単なる王女の筆頭護衛――元奴隷にして闘技場の覇者、ゴリアテだ。




「なんだ、呼んだか?」




 がらがらとした、少し間延びした声。私は顎を引き、まっすぐ見据えて告げた。




「近く、王の面前で槍試合を行ってもらう。勝てば……近衛隊長の座はお前のものだ」




 ゴリアテの目がぎらりと光り、獲物を見つけた獣のように口角が上がる。




「相手は?」




「ミハエル。若いパラディンで、男爵家の出。顔も腕も揃っているそうだ」




「ふん……勝てるかって? 闘技場じゃ猛獣を素手でぶっ殺したことあるんだぞ。人間なんざ、負けるわけねぇ」




 私は薄く笑みを浮かべ、低く命じた。




「ならば、その試合を見に来ているイザベラ――あの貴族女の前で、心に深く刻まれるような残虐な方法で殺して」




 ゴリアテは一瞬だけ目を細め、荒っぽく笑った。




「へっ、任せとけ。泣かせてやる」




 私はゆっくり頷き、窓外の曇天を見やる。盤上の駒は揃った。あとは血と歓声が、この計画を完成させるだけだ。




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登場人物紹介


主人公(偽名:エミリア王女/本名:セリーヌ=クロフォード)


没落農家の娘として生まれ、幼くして侯爵家に買われ下働きに。


第三王子レオンハルトや侯爵家三姉妹に水牢や拷問で辱められ、廃人寸前で追放される。


死の淵でノクトホロウの森の魔女ヴァルセリアに拾われ、五つの儀式を経て《ネクロサイト》を宿す。


現在は隣国ヴァロワ王国の王女「エミリア」として成り代わり、宮廷に潜入中。


冷静沈着で微笑を崩さないが、胸中には強烈な復讐心を燃やしている。




フリードリヒ=フォン=ヴァルデンシュタイン


ヴァルデンシュタイン王国第一王子。


冷静沈着で計算高い性格。王妃ルイーゼの子ではなく、女官の子。


双子の弟は王妃に毒殺されており、権力闘争の中で生き残った。


主人公と政略婚約中であり、王宮内での権力拡大において協力関係にある。


時に皮肉を交えて助言するが、真意を測りかねる一面もある。




ニール=スティッチ


ヴァルセリアの使い魔。元は継ぎ接ぎの少年で、今は美青年の姿。


軽口と毒舌を好み、情報収集に長ける諜報役。


主人公に忠誠を誓い、宮廷内外の噂や裏情報を収集してくる。


飄々としているが、主命に関しては冷徹に遂行する。




マグダレーナ


主人公の護衛兼女官で、無口で忠実。


近く、フリードリヒの推挙により女官長に就任。


左眼を通じて主人公が操ることが可能で、噂の流布や陰謀論の拡散といった情報操作の切り札。


冷徹な仕事ぶりで、すでに宮廷内に畏怖を与え始めている。




ゴリアテ


元奴隷で闘技場の覇者。今は王女(主人公)の筆頭護衛。


鋼のような肉体と膨大な戦闘経験を誇る。


知的ではないが、命令に忠実で、戦いでは圧倒的な暴力性を発揮する。


主人公の命を受け、近衛隊長の座をかけて王の面前での槍試合に臨む。




レオンハルト=フォン=リヴィエラ


第三王子で、王妃ルイーゼの寵愛を受ける。


かつて主人公を辱めた張本人。野心的で享楽的。


主人公の復讐計画における最終的な処刑対象。




ルイーゼ王妃


病床にある王妃。視線だけで場を支配するほどの威圧感を持つ。


フリードリヒを疎み、第三王子を後継に据えようと画策。


過去に第二王子を毒殺したとされる。




イザベラ=ヴァン=グランディール


侯爵家長女。支配的で冷酷。主人公を水牢に投獄し、歯抜き拷問を命じた。


現在、近衛隊長候補の青年ミハエルにご執心で、婚約を狙っている。


過去にフリードリヒを狙っていたが、夢破れ相手を変えた。




ミハエル


男爵家出身の若きパラディン。


容姿端麗で実力も確か。現近衛隊長に可愛がられており、将来の後継者と目される。


現在イザベラと恋仲で、婚約話も噂される。


主人公の計画では、ゴリアテとの槍試合の相手として血祭りに上げられる予定。


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