ep2.研究所
「山登りじゃん……」
だらだらと続く坂道を歩きながら、穂多美はぼやいた。
車一台、かろうじて通れそうな山道だ。たまに対向車の回避スペースが作られているが、木の枝で鬱蒼としているので回避した車に傷がつきそうだ。
「大自然で森林浴。マイナスイオンでリフレッシュ~」
なんとか気分を上げようと、ポジティブなイメージを呟く。
「おぉ……電磁波からも解放されてるぅ」
携帯は圏外だ。
確か、最後に地図を見たときの到着予測時刻からすると、もうすぐのはずなのだが。
胸元をしきりに汗が流れていく。リュックに接した背中が暑い。
「あ」
建物が見えた。蔦に覆われた、コンクリートの壁面。
あれが、節奈が働いていたという研究所に違いない。
穂多美は節奈から、書類とUSBメモリを入れた封筒を託されていた。これを当時の上司である『
正面入口らしき門にたどり着き、ものものしさに緊張しながらインターホンを押す。
ピンポーン
音はごく普通のインターホンだ。
『はい』
応答したのは、男性らしき声だった。
「こんにちは、あの、福成章介さんはいらっしゃいますか」
『どちら様ですか』
相手の怪訝そうな声を聞いて、頬に血が上った。先に名乗るべきだったか。
「小牧穂多美と申します。芳田節奈の使いで参りました」
『え?』
相手の声の色が変わった。
『お待ちください』
どうやら、節奈のことを知っているらしい。この男性が、福成章介なのだろうか。
門扉脇の通用口を開けて姿を現したのは、白衣を着た長身の青年だった。
節奈が研究所にいたのは10年前だ。当時の上司にしては若すぎる。
「管理責任者の
穂多美は促されるまま、通用口をくぐった。
***
建物の中は空調がきいて涼しく、穂多美は生き返る思いで息をついた。
「歩いてここまで?」
「はい」
「暑かったでしょう」
黒川鎖衣は、ミーティングルームのような部屋へ穂多美を案内すると、椅子を勧めて冷たい麦茶を出してくれた。
黒川の年齢は20代後半くらいだろうか。基本的に無表情だが、奥二重の目は穏やかで物腰も柔らかく、怖い印象はない。
穂多美はありがたくコップに口をつけた。香ばしい液体が喉を冷やす。
黒川は穂多美の向かいの椅子に座った。
「失礼ですが、芳田節奈さんとのご関係は」
「姪です」
「そうですか。今、ご本人と直接連絡は取れますか」
穂多美はスマホを見た。
「ここ、圏外ですよね」
「ああ……」
黒川は困った顔をした。
「所内の通信回線はありますが、機密情報を扱っているので、管理上提供が難しくて」
「そうですか」
かと言って、安易に節奈の連絡先を教えることも
「福成章介さんに、お届け物があるのですが」
黒川は首を振った。
「残念ながら、福成はここにいません」
「いない……お出かけということではなく?」
「はい。今はここの研究所に所属しておりません」
穂多美は封筒の入ったリュックを抱えて途方に暮れた。
「直接渡すように言われてるんです。福成さんはどちらへ?」
「彼は不祥事を起こして研究所を辞めました」
「えっ」
ますます途方に暮れる。では、どうしたらいいのか。
「あなたが節奈さんから預かったものは何ですか?」
「研究データだと聞いています」
黒川の、『節奈さん』という親しげな呼び方が気になった。
「伯母のことはご存知なんですか?」
黒川はうなずいた。
「昔、お世話になりました」
10年前にも研究所にいたとすると、見た目より年上なのだろうか。
いや、そうとも限らない。ここにいたのは、研究職員だけではない。
「ここには……子供がいましたよね?」
黒川はハッと目を見開いた。
「もしかして黒川さん、ここで育ったんですか?」
「いや、俺はよく出入りしていただけで……」
黒川は用心するように口をつぐみ、穂多美を見た。
「君は、どこまで知ってるんだ?」
穂多美も慎重に言葉を選ぶ。
「写真を見ました。男の子と女の子の」
ぴくりと黒川の肩が震えた。
「伯母は、今どうしているか知りたいって」
「……そうか」
「10年前に10歳くらいだった女の子と、5歳くらいだった男の子」
黒川の表情をうかがいながら、節奈に聞いた名前を口にする。
「マゼンタと、シアン。今もここにいるんですか?」
テーブルの上で組んでいた黒川の両手の指が、白くなった。
「シアンは、生きてる」
その言い方に、不穏が漂う。では、もう片方は……?
「マゼンタは、3年前に死んだ」
穂多美は息を飲んだ。
写真を撫でていた節奈の姿が胸の痛みと共によぎり、リュックを抱き締める。
「3年も前に……」
間に合わなかったのか。
「事故みたいなものです。節奈さんの予測が甘かったわけではない」
黒川は握り合わせた両手をほどき、顔を上げた。
「そのデータの中身がシアンの役に立つものかどうか、一度確認させていただけませんか」
穂多美はハッとした。
そうだ。男の子は生きていると言っていた。この研究データは、まだ無駄にはなっていない。
「俺に福成ほどの技術はありません。でも、それなりに経験は積んでいます」
節奈は福成にと言ったが、福成章介がここにいない以上、データを生かすには黒川を頼る他ないだろう。
穂多美は、黒川に封筒を手渡した。
***
──ドアの外。
その様子を伺う影があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます