塩と水とその器
望凪
プロローグ
肌を焼き焦がすような太陽だったのを覚えている。
目の前には50メートルに及ぶプールがあって、水面が太陽の光を反射させていた。しかし、不思議と眩しいとは感じなかった。
観客の声が騒々しかった。メガホンによって拡声された音がけたたましく鳴り響いている。
それだけではない。どこかから聞こえてくるセミの鳴き声が、耳の奥でずっとリピートしている。
レースを目前にして集中しようとしていた私にはうっとうしくて仕方がなかった。
全国中学校水泳競技大会、その県予選。ここで上位に入るか指定の記録を上回れば全国大会へと出場できる。
そんな舞台のせいだろうか。いつもより不自然に心臓が速く脈打っている。
さっさと笛が鳴ってほしかった。
スタートの合図である笛の音。それさえ耳にすれば、私は水の中に潜れる。視界はピントが外れ、雑音は泡となり、心は機微を喪う。
唯一、私が他者を気にせず何かに没頭できる時間。それこそが、私にとっての競泳だった。
前の組の人がまだプールで泳いでいたから、早く泳ぎ終われと疎ましく念じた。
肌を伝う汗が這いずる虫のように感じられて、誤魔化すように身体を引っ切り無しに動かした。
「続いて、最終組の競技を行います——————」
前の組のレースが終わって、アナウンスが聞こえた。応援は既に鳴りやんでいた。
すぐさまが笛が鳴る。短く四回、そして少し間を置いてからぴーっと長いのが一回。それに合わせてスタート台を上る。
遅れて、違和感に気づいた。
静寂としつつも僅かに残る観客の声。ざわざわと取り留めもないのに、ハッキリと聞こえてくる。
おかしい。いつもなら、もっとくぐもって私の邪魔をしないのに。
「——————」
全く集中できていない。それを自覚する。
なぜ。いつもと何が違う。私はいつも通りだったハズだ。朝の過ごし方も、アップの時も、レース前も、これまでと何ら変わりなかった。
……いや、そうじゃない。
明確に違うことがあった。むしろ、なんで今の今までそれが頭から抜けていたんだ。
「あ…………」
周りがスタートの姿勢を取る中で、自分だけがスタート台で突っ立っていたことに気づいた。慌ててクラウチングスタートの構えを取る。
でも、ぜんぜんいつもと違う。
後ろに下げた右足が震える。夏の熱気は変わらないハズなのに、身体は頭からつま先まで血を抜き取られたみたいに熱を喪っていた。
だって、今までそれが当たり前だったのに、唐突に消えてなくなった。
彼女がいない。私にとって、唯一無二の親友で、憧れで、特別な存在。
”もう、わたしに構わないで”
「イヤだ……」
まだレースは始まっていないのに呼吸が早くなる。心臓が血液を送り出す感覚が喉元まで這い上がってきて、吐きそうになる。
真下の水面が真っ暗闇に変わって、私は水泳選手であることを忘れた。
「Take your marks——————」
左足の踏ん張りがきかなかった。だから落下するしかなかった。
一秒に満たない浮遊。一瞬にして世界は切り替わり、無数の泡が私を包んだ。ここは夢の世界、私の頭に響いた一言は妄想に過ぎないと告げるように。
水底に背中がぶつかったのが最期の記憶。
中学校最後の夏のことだった。
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