あのエレベーターでの出来事以来、山本くんのアプローチはさらに拍車がかかっていた。私のデスクに温かい飲み物がそっと置かれていることは日常茶飯事になり、仕事中に彼が隣に立つ時間も増えた。気のせいだと自分に言い聞かせるけれど、心臓は常に警鐘を鳴らし続けていた。


 今日のお昼も、いつものように中庭で麻美と会った。お弁当を食べながら、私は開口一番、ため息混じりに訴えた。

「もうダメ…心臓もたない…」

 私の言葉に、麻美は楽しそうに「ははっ」と笑った。

「なかなかやるな〜山本」

 まるで他人事のように言う麻美に、私は頬を膨らませた。

「もう!麻美はどっちの味方なの?」

「どっちって、山本が敵みたいに言ってやるなよ」

 麻美の指摘に、私は「う…」と言葉に詰まる。確かにそれはそうだ。別に山本くんは悪いことをしているわけじゃない。私に好意を向けてくれているのは事実で、それを表現しているだけなのだ。私は心の中で「ごめん」と山本くんに謝った。

「実際どうすんのかなとは思ってたけど、引かないのが偉いよねぇ」

 麻美は感心したように言う。彼の諦めない姿勢は、私自身もひしひしと感じていた。

「うう…」

 私はただ唸るしかなかった。

「ふうちゃんも、山本が本気なんだって、さすがにわかったんじゃない?」

「それは…」

 麻美の問いかけに、私の胸はさらにざわついた。

 正直、もう言い訳はできなかった。そりゃあ、宣戦布告された上にあれだけアプローチされたら、嫌でも意識してしまう。彼の真剣な眼差し、距離の近さ、そして私だけに向けられる特別な気遣い。それら全てが私の心を確実に動かし始めていた。

「で?そんな健気な後輩くんに、いつまでお預け食らわせるわけ?」

 麻美の言葉に、私の中で何かが弾けた。その言葉が、一瞬理解できなかった。

「え…?」

 呆然とする私に、麻美は呆れたように首を振る。

「いくら山本が急がないって言ったからって、いつまでも待たせるわけにいかないでしょ?それに、それだけふうちゃんのこと気遣ってくれるんだったら、ふうちゃんが動かないと、何も進まないんじゃない?」

 心臓が早鐘を打ち始めた。そうだ、私は山本くんの気持ちに対して、何も答えていないし、応えてもいない。イエスもノーも、どちらも伝えていないのだ。山本くんの行動は積極的だが、最初の告白以降「好き」という言葉は一度も聞いていない。彼はただ、彼なりに私との距離を詰めてきているだけ。その事実に気づいた時、私の胸は確実にざわついた。

「ふうちゃんは、進まない方がいいの?」

「………」

 麻美の問いかけが私の心を深く抉る。

 私は言葉を失い、ただ俯いた。

「それとも、怖い?」

「え……」

 その瞬間、麻美の言葉で、自分の感情に名前をつけてもらえた気がした。心臓がドクンと鳴り、全身を電流が駆け巡る。ああ、そうか。私は、怖かったんだ。この状況が、これからの変化が、すべてが。

「…そう、かもしれない」

 やっと絞り出した声は、ひどく震えていた。

「じゃあ断るの?」

 断る…?山本くんを?

 麻美の次の問いに、私は息を呑んだ。嫌な汗が背中を伝う。

「たぶんだけど、断ったら、今までみたいに山本の隣にはいられないよ」

 麻美の言葉が現実を突きつける。山本くんが私から離れていく。私の隣に、もう彼がいない。困った時にすぐに駆けつけてくれる彼が、もういない。眼鏡をかけた私に、当たり前のように「お似合いですよ」と囁く彼が、もういない。なぜだろう。それは、すごく嫌だなと、心の底から思ってしまった。

「………」

 私の泣きそうな顔を見て、麻美はふっと優しく笑った。いつものサバサバした麻美とは違う、仲間を気遣う親友の顔だ。

「ごめん、私が急かしたらダメだよね」

「んーん…麻美、ありがとう」

 麻美がいて本当によかったと心から思った。混乱していた私の感情に名前をつけ、進むべき道を照らしてくれたのは、紛れもなく麻美の言葉だった。

「じゃあ、こういうのはどう?」

 何か閃いたように麻美の顔がパアッと明るくなる。そして私の耳元にそっと顔を寄せ、小さな声で何かを囁いた。その提案に、私は思わず大きな声を上げてしまった。

「え!?」

 麻美は私の驚いた顔を見て満足そうにニヤリと笑った。


- - -


 麻美からの提案を胸に抱え、その日一日、私は落ち着かないまま過ごした。驚きと、少しの戸惑い。けれどそれ以上に、私の心には小さな期待が芽生えていた。


 終業後、いつものように山本くんが私のデスクに近づいてくる。最近は彼が側にいるだけで心臓が跳ねるようになってしまった。

「先輩、お疲れ様でした。今日は何かお手伝いすることはありませんか?」

 彼の声はいつも通り丁寧で穏やかだ。その声を聞くとなぜか少しだけ安心して、そして、背中を押されたような気持ちになった。

「あ、山本くん、お疲れ様。あのね、山本くんに、お願いがあるんだけど…」

 私の言葉に、山本くんは少しだけ目を丸くした。普段私が彼に「お願い」をすることは滅多にないからだろう。

「はい、なんでしょうか」

「あのね、今度の日曜日に、麻美…えっと、営業部の松岡麻美、わかる?」

 私が恐る恐る尋ねると、山本くんはすぐに頷いた。

「はい、松岡先輩とは飲み会で少しお話ししたことがあります」

「よかった…」

 小さく息を吐き、続ける。

「その…麻美の親戚がやってる陶芸工房で、陶芸体験に行こうかって話してて…」

 口の中が妙に渇く。言葉を選びながらゆっくりと説明する私を、山本くんはじっと見つめていた。その視線がまた私の胸をドキドキさせる。

「それで、もしよかったら、山本くんも一緒にどうかなって…」

 そこまで言って私は一瞬口ごもった。麻美は「山本は絶対来るよ」と自信満々だったけど、もし断られたら。今度は私の方が傷つく番だ。それに麻美の提案には、もう一つ条件があった。

「あ、えっと、あとね…山本くんも、誰か一人、誘える?」

 意を決して付け加えた瞬間、山本くんの瞳がほんの一瞬わずかに揺れた気がした。けれどすぐに彼は口元に微かな笑みを浮かべる。それは穏やかで優しい笑み…のはずなのに、私にはその奥で何かがキラリと光ったように見えた。


- - -


「あ、えっと、あとね…山本くんも、誰か一人、誘える?」

 橘先輩がおずおずと付け加えた瞬間、俺はほんのわずかに口元を緩めた。気づかれてはいないだろうが、自分の目が鋭く光ったのをはっきりと感じていた。

 なるほど。松岡先輩…やはりあなたですか。

 数日前、中庭で松岡先輩と橘先輩が熱心に話しているのを見た時から薄々感じてはいた。これはきっと松岡先輩の策だろう。二人きりにはさせないため…しかし、それでも確実に距離を縮めるための場を作った。「誰か一人誘う」──俺にとっては無意味な条件ではない。むしろ、この場をさらに有利に運ぶための好機だ。

「はい、もちろん。喜んでご一緒させていただきます」

 即答する声は、きっと先輩にもわずかに熱を帯びて聞こえただろう。告白してから意識的に距離を詰めてきた俺にとって、こうして先輩の方からプライベートの誘いをしてくれる日が来るなど、まるで夢のようだった。

「誘う相手、ですか……」

 あえて考え込む素振りを見せる。だが答えは最初から決まっている。星野以外にあり得ない。こういう時、頼りになるのはあいつしかいない。

 星野は俺の片想いを知る唯一の存在であり、何より「協力する」と言ってくれた。あの軽快さと場の空気を読む力は、こういう時にこそ頼りになる。俺は既に陶芸体験の日の構図まで頭の中でシミュレーションし始めていた。

「わかりました。誰を誘うか、少し考えておきます」

 そう答えると、先輩はほっとしたように微笑んだ。その笑顔は柔らかく、どこか無防備で、胸の奥が熱で灼けるようだった。

 あなたという人は、どこまで無自覚なんですか。

 その笑顔が、俺にどれほどの覚悟をさせるか、きっと彼女は知らない。だが構わない。松岡先輩の策であろうと、俺にとっては関係ない。むしろ“自分のペース”に引き込むための最高の布石だ。

「ありがとう、よろしくね」

 ふわりと笑う彼女の声に、俺の胸が再び強く脈打った。陶芸体験の日。きっと、ここから一気に距離を詰める。そう決意した瞬間だった。




 俺はすぐに星野に連絡を取った。

『今、時間あるか? 話がある』

 返信はすぐに来た。

『おう、珍しいな。どうした?』

 社食で尋問してきたことなど忘れたかのように明るい。だが、俺が本当に困っている時、そして本気の相談を持ちかけた時、彼は決して軽んじない男だ。


 星野と落ち合ったのは会社の近くにあるカフェだった。落ち着いた照明とジャズが流れる店内は、昼間の喧騒とは打って変わって静かだ。俺が先に着き、席に着いて待っていると、少し遅れて星野がやって来た。

「悪い、待たせたな。で?何だよ改まって。もしかして、例の告白、なんか進展あった?」

 星野は席に着くなり、遠慮なくそう聞いてきた。その顔は好奇心に満ちている。

「まあ、進展と言えば、進展かな」

 俺はコーヒーを一口飲みながら答えた。星野は期待に満ちた目で俺を見つめている。

「実は、今度の日曜日に、橘先輩と、あと営業部の松岡先輩とで、陶芸体験に行くことになった」

 俺が淡々と説明すると、星野は目を大きく見開いた。その驚きようはいつも通りで見ていて飽きない。

「はぁ!?マジか!?陶芸!?何そのオシャレイベント!」

 星野は興奮気味に身を乗り出す。

「それで、橘先輩から、もう一人誘ってほしいと言われているんだ」

 俺がそう切り出すと、星野は一瞬きょとんとした後、すぐにニヤリと笑った。

「なるほどね!ってことは俺に協力要請ってわけだ。もちろん行く行く!マジかよ、最高じゃん!お前の恋路の助太刀もできるし、しかも俺、陶芸とかマジ興味あったし!腕の見せ所だな!」

 星野は興奮を隠せない様子で、俺の肩をバンバンと叩いてきた。その勢いに俺は思わず苦笑する。暑苦しいやつだが、こうして素直に喜んでくれるのは確かに心強い。

「で、松岡先輩ってどんな人だっけ?あんまり話したことねえけど…綺麗?」

 すぐさまミーハーな一面を見せる星野に、俺は小さく息を吐きながら答えた。

「橘先輩の同期だ。サバサバしてる感じの人だな」

「あー!あの人か!」

 星野は大きく頷き、さらに悪戯っぽく笑う。

「じゃあ今回の黒幕は松岡先輩ってことか。策士だな、面白え」

 星野はそう言ってニヤリと笑う。彼の勘の良さはこういう時に本当に厄介であり、頼りになる。

「もちろん協力するからな。お前のためなら一肌どころか二肌脱ぐぜ!」

 星野は胸を叩き、ニカッと笑った。頼もしい、と同時にやはり少し暑苦しい。だが、心の奥で安堵が広がった。


- - -


 待ちに待った…いや、正直なところ、少し緊張していた週末、陶芸体験当日。前日はほとんど眠れず、朝から何度も鏡を覗き込んでは、クマができていないか確認した。


 指定された駅の改札前には、すでに二つの背の高い人影が見えた。山本くんと、見慣れない男性。星野くん、だろうか。

「おはよう、山本くん!」

 私が声をかけると山本くんが振り返った。スーツ姿ではなく、白いニットにジーンズというカジュアルな服装。普段の隙のない印象とは全く違い、少し柔らかい雰囲気がある。髪もセットが軽くて、どこか休日らしいリラックス感が漂っていた。

「橘先輩、おはようございます。今日はよろしくお願いいたします」

 声もほんの少しだけトーンが柔らかい気がして、胸がきゅっとなる。

 隣の男性が明るい茶色の髪を揺らしながら、にこやかに頭を下げた。

「おはようございます! 星野です。いつも山本がお世話になってます!」

 星野くんは見るからに人懐っこい笑顔で自己紹介をしてくれた。山本くんとは対照的な、カジュアルで親しみやすい雰囲気だ。

「橘風花です。こちらこそ、今日はよろしくお願いします」

 私が挨拶を返すと、山本くんは星野くんの言葉にごくわずかではあるが眉をひそめた。

「おい、お前は俺の上司か」

 低く、砕けた声。オフィスでは聞けない響きに、心臓が不意に跳ねる。だがその一言に星野くんが「はは、ごめんごめん!」と笑い、場の緊張がふっと解けた。

 そこにちょうど麻美も到着した。

「ふうちゃん、おはよー。 あ、山本も星野くんも早いね」

 麻美はいつもの調子で挨拶をした。これで四人、全員集合だ。

「じゃあ、レンタカー借りてあるから、すぐ行こ!」

 麻美に促され、私たちは駅前のレンタカーショップへと向かった。


 運転は星野くんが買って出てくれた。

「いやー陶芸体験とか初めてだし、楽しみっすね!」

 ハンドルを握りながら、星野くんが楽しそうに笑う。その声に麻美も「ほんとだねー!」と応じる。

「初めてだから、私もワクワクしてる」

 私が後部座席でそう言うと、隣の山本くんが小さく頷く。

「はい。きっと、いい思い出になります」

 彼の声は、いつものオフィスより少しだけ低くて穏やか。隣にいるだけでその体温が伝わってきそうで、妙にドキドキする。

「先輩は何か、作りたいものとか、ありますか?」

 突然山本くんがこちらに顔を向けた。その視線の強さに、心臓がまた騒ぎ出す。

 車はカーブを曲がり、山本くんの肩が一瞬だけ私の肩に触れそうになる。意識すればするほど、車内の空気が妙に甘く感じる。

 ふと、助手席の麻美がルームミラー越しに私を見て、にやりと笑った。その意味深な視線に、胸がドキリと跳ねた。




 星野くんの軽快な運転と、助手席の麻美との間で交わされるテンポの良い会話のおかげで、私たちはあっという間に目的地である陶芸工房に到着した。麻美の親戚だという、白髪のおじいさんが優しい笑顔で迎えてくれた。


 エプロンを借りて袖を通し、ろくろの前に座る。目の前にある湿った粘土の塊が、これからどんな形になるのか想像もつかない。説明を聞きながらも、私の視線は隣の山本くんへと吸い寄せられた。彼もまた、真剣な顔で説明を聞いている。その横顔は、やはりオフィスでの彼とは違う、少しだけ少年のような表情に見えた。

「じゃあ、皆さん、早速始めてみましょう!」

 先生の声に促され、いよいよ陶芸が始まった。ろくろのペダルを踏み込み、粘土を回転させる。けれど、どうにもうまくいかない。粘土は思ったように形にならず、すぐにぐにゃりと歪んでしまう。

「あー!難しい!」

 星野くんが早くも粘土を崩して笑っている。麻美も苦戦しているようだ。

「山本くんは、器用そうだから上手そう」

 私が何気なく言うと、山本くんは小さく笑った。

「そうですね。多少は自信がありますが……先輩も、無理なさらずに。最初は誰でも難しいものです」

 彼の声は穏やかで、私の失敗を気遣ってくれているようだ。

 私が粘土と格闘していると、突然、背後に温かい気配を感じた。

「先輩、失礼します。少し、手をお借りしてもよろしいでしょうか?」

 山本くんの声が、私の耳元で囁かれた。振り返る間もなく、私の背後にぴったりと彼の体が寄り添う。熱い吐息が首筋にかかる。心臓が跳ね上がり、呼吸が一瞬止まった。ろくろを回す私の手の上に、彼の大きな手がそっと重ねられた。ひんやりとした粘土の感触と、彼の体温が同時に伝わる。

「こうすると、もう少し安定しますよ」

 彼の声はすぐ後ろから聞こえる。もう、オフィスでの丁寧な敬語は形骸化し、まるで恋人のように親密な響きを持っていた。彼の指が私の指を包み込み、ゆっくりと粘土を形作っていく。不器用な私の手とは違い、彼の指は迷いなく、けれど優しく粘土を導いていく。粘土は彼の指示通りに、みるみるうちに美しい器の形になっていった。

「すごい…山本くん、やっぱり器用だね」

 私が感動して言うと、彼の肩が小さく震えた。それは笑い声のようにも、どこか照れているようにも見えた。

「先輩も、とても熱心でいらっしゃいますから。もう少しで素敵なものができますよ」

 私は顔が熱くなるのを感じた。こんなにも近い距離で、手を取り合って何かを作り上げているかのような感覚。それはこれまでの彼のアプローチの中でも、一番直接的で、そして一番、私の心を大きく揺さぶるものだった。

 隣で星野くんと麻美が私たちの方をちらちらと見ているのが分かったけれど、もう、そんなことはどうでもよかった。私の意識は、目の前の粘土と、それを包む山本くんの大きな手、そして、すぐ近くにある温かい体温に、完全に奪われていた。




 山本くんの助けもあって、私が作ったのは少し歪だけど、私にしては上出来な小鉢だった。素焼きと釉薬、そして本焼きを経て完成するのはもう少し先になるという。どんな色に仕上がるのか、今から楽しみだ。


 私の隣では山本くんが迷いなく、けれど丁寧に、繊細な湯呑みを作っていた。彼の器用さには本当に驚かされる。麻美は斬新すぎるオブジェのようなものを作り上げ、星野くんは「これで日本酒飲む!」と意気込んで、ごつごつとしたぐい呑みのようなものを作っていた。

「橘先輩、よろしければ、先輩が作ったその小鉢、俺がいただいてもよろしいでしょうか」

 作業が一段落した時、山本くんが唐突にそう切り出した。その言葉に私の手はピタリと止まる。

「え、私が作ったやつ?いいけど…なんで?」

 まさか私の作品を山本くんが欲しがるなんて全く予想していなかった。少し歪で、決して上手じゃない小鉢を。

「先輩が一生懸命作っていたものだからです。それに、先輩が作ったものなら、どんなものでも大切にしたい」

 彼の真っ直ぐな言葉に、心臓が大きく跳ね上がる。まるで、私の作品そのものが、私自身であるかのように言われている気がした。隣では麻美と星野くんが意味ありげにニヤニヤしたりしているのが分かった。もう二人の前で彼の言動を「ただの後輩」としてごまかすのは無理がある。

「あ、ありがとう…じゃあ、よかったら…」

 恥ずかしすぎて、それ以上何も言葉が出てこない。顔が熱くなって俯いてしまった。

「ありがとうございます。大切にさせていただきます」

 山本くんは満足そうに小鉢を両手で受け取った。その表情は、まるで宝物を手にした子どものようだ。


 その後、完成した作品を預け、私たちは工房を後にした。帰りの車中も、星野くんと麻美が賑やかに話していたけれど、私の耳にはほとんど入ってこなかった。隣に座る山本くんの存在が、あまりにも大きすぎたのだ。

 彼が私の小鉢を「大切にしたい」と言った言葉が、頭の中をずっとループしていた。そしてその言葉が、私の心の中で確かな熱を帯び始めているのを感じた。

 私…山本くんのこと……。

 アパートの前に着き、みんなと別れた後も、私の心はまだ陶芸工房のろくろの上にいた。彼の大きな手が、私の手を包み込んでいた時の感覚。あの時、私の心に生まれた温かい感情。

 私は、彼のことを、もう「可愛い弟」だとは思えなくなっていた。


- - -


 ~閑話休題・車内にて~


「そういえばさっきから思っていたのですが、橘先輩、松岡先輩からふうちゃんって呼ばれてるんですね」

 不意に山本くんがそんなことを口にした。

「あっ俺もそれ思った!」

 星野くんも前のめりになって反応する。

「そうだよ、可愛いよね」

 私が当たり前のように答えると、山本くんと星野くんは同時に「え?」と声を上げた。

「ふうちゃん…まだそれ言ってんの…」

 助手席から麻美の呆れたような声が聞こえてくる。

「えっと、どういう…?」

 山本くんが不思議そうに首を傾げたので、私はふふっと笑って続けた。

「だって、麻美の口から“ふうちゃん”なんて響きが出てくるの、私、今でもたまにくすぐったいもん」

「あ、あー、なるほど?」

 星野くんが納得したような、していないような声を出す。

「麻美ってね、高校生の時から全然変わってないの。女子バスケ部のキャプテンとかやってて、周りからは、『かっこいい!』とか、『できる女!』って言われること多いけど、実はすごく可愛いんだよ」

 私が意気揚々に話し始めると、助手席から「ふ、ふうちゃんもういいって!」と慌てた声が聞こえた。

「ブラックコーヒー飲めなくていつも絶対カフェオレだし、わさび食べられないし、お化け屋敷嫌いだし、雷怖がるし、偏頭痛持ちだし、フランダースの犬で泣くし」

 指を折りながら麻美の可愛らしい弱点を並べると、「ふうちゃん!?」と麻美の悲鳴が上がった。

「意外ですね」

 山本くんが真顔で呟く。

「マジすか!? 松岡先輩、ギャップ半端ないっすね!?」

 星野くんは面白そうに声を上げる。

「星野うるさい!てか偏頭痛持ちは関係なくない!?フランダースの犬だってみんな泣くでしょ!?」

 麻美の反論は私たちの笑い声にかき消された。

「ね?可愛いでしょ?」

 私が山本くんにそう問いかけると、彼は口元を緩め、私を見ていた。

(これを素で可愛いと思ってる先輩が可愛い)

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