山本くんはただの後輩だと思ってた

髪川うなじ


 企画書の最終チェックに集中していた私の目の前に、ひんやりとした缶コーヒーがすっと差し出された。顔を上げると、そこに立っていたのは山本くん。いつも通り、シャツの襟元まできちんと整えられた姿勢で立つ彼。髪も無造作に見えて乱れひとつない。まるで絵に描いたような「できる後輩」だ。

「橘先輩、これ、よろしければ」

 彼が手にしているのは、私が普段愛飲している微糖ブラック。ああ、気が利くなあ。つい笑みがこぼれる。

「ありがとう、山本くん」

 私の言葉に、山本くんの口元がほんの少し緩んだ。いつものクールな表情がわずかに和らぐと、どうしてだろう、彼が少し年相応に見えて可愛らしい。

 私は彼が入社した頃、教育係として付き添ったから、どうしても成長を見守る気持ちが抜けない。入社当初から仕事の覚えが早くて、私が教えたことなんかあっという間に吸収してしまった。今では私のほうが彼のテキパキとした仕事ぶりに助けられてばかりだ。

「いえ、ちょうど自販機に行ったついでです。それに先輩、最近忙しそうですから、ちゃんと休憩もとってください」

 そう言いながら、山本くんは私のデスクの端にそっと缶を置いた。気遣いが本当に細やかで、彼がそばにいると何かと心強い。

「ありがとうね、助かるよ。山本くんも今日は残業でしょ?無理しないで」

 私が労わりの言葉をかけると、山本くんはわずかに眉を下げた。少し不満そうにも、どこか拗ねているようにも見える。

「先輩が仕事をされているのに、私が先に帰るわけにはいきません。それに、私がいた方が何かと便利でしょう?」

 そのまっすぐな言葉に、少し胸が温かくなる。けれど、これは後輩としての責任感からくるものだと、私は当然のように思った。山本くんはそういう人だから。

「山本くんは本当に気が利くね。まるでドラマに出てくる執事さんみたい」

 私が何気なく冗談めかして言うと、山本くんは一瞬だけ目を見開いた。そしてすぐに落ち着いた表情に戻ったが、その耳元がじんわりと赤くなっているのが見えた。

「……光栄です。橘先輩のお役に立てるのなら」

「ふふ、ありがとう。じゃあ、私ももうひと頑張りしなくちゃね」

 そう言って、私は缶コーヒーに手を伸ばす。プルタブを引くと、空気の抜ける小さな音と一緒にコーヒーの香りがふわりと広がった。再び企画書に視線を落としたけれど、山本くんの視線がまだこちらに向いている気がした。きっと私がちゃんと休憩を取るか確認しているのだろう。本当に優しい後輩だ。

 もちろん、私はまだ気づいていなかった。彼の「お役に立てるのなら」という言葉が、社交辞令なんかじゃないことに。


- - -


 時計の針は、そろそろ日付が変わることを告げていた。

 フロアには、キーボードを叩く音と、ときどき漏れる私のため息だけが響いている。冷えた空気の中で、指先が少しだけかじかむのを感じながら、企画書の最終ページと睨み合っていた。どうにも最後の部分がしっくりこない。頭の中でいくつも言い回しを組み替えてみるけれど、どれも収まりが悪くて、出口の見えない迷路に入り込んだみたいだ。

「んんん……」

 思わず声が漏れた瞬間、隣の島から聞こえていたキーボードの音がふっと止まった。顔を上げると、山本くんがこちらを見ているのに気づいた。静かで、けれどこちらを心配しているような目だった。彼もまだ残っていたのか。集中しすぎると周りが見えなくなる、私の昔からの悪い癖だ。

「先輩、少し休憩なさっては。お疲れのようです」

 低く落ち着いた声が、夜のオフィスの張り詰めた空気を少しだけ緩めた気がした。

「山本くんも、まだ残ってたの?」

「はい。それより、先輩は最近お忙しそうでしたし。顔色もあまり良くありません」

 彼は静かに立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その足音が、誰もいないフロアに少し大きく響く。何をするのかと思った次の瞬間、肩にふわりと柔らかいものがかけられた。手に触れると、それはフリースのブランケットだった。職場の共用のものよりずっと肌触りが良くて、指先が少し沈み込むその感触に思わず息がゆるむ。

「これは…?」

「冷えますから。この時間は特に」

 山本くんはそれだけ言うと、ブランケットの端を軽く整えてから静かに自分のデスクへ戻っていった。その仕草が自然で、なんだかくすぐったいような気持ちになる。

「ありがとう、山本くん。本当に気が利くね」

 そう言うと、彼は小さく「いえ」とだけ答えた。声の調子がいつもより少し低く感じたのは、気のせいだろうか。再び企画書に目を戻すけれど、肩にかけられたブランケットの温もりが、じわじわと意識に残っている。


 しばらくして、再び企画書に目を落としていると、視界の端に温かいマグカップが置かれているのに気づく。湯気の向こうから、カモミールの優しい香りがほわりと漂った。私が家でよく飲むハーブティーと同じ香りだった。

「山本くん、これ……」

「先ほど自販機に寄った際、気になったので」

 私が言葉を続ける前に、山本くんが静かに言った。視線はもうパソコンの画面に戻っている。

「先輩は集中されると、どうしても体を冷やしてしまいますから。温かいものを少しでも」

 その言い方はいつも通り丁寧で、特別な響きなんて含まれていないはずなのに、不思議と心の奥で引っかかった。このオフィスの自販機にこんな本格的なハーブティーなんてあっただろうか。それに、私がカモミールティーが好きなこと、どうして知っているんだろう。

 首を少しかしげながらも、湯気の立つマグカップに手を伸ばす。カップの温かさが指先からゆっくり広がり、冷えきっていた手がじんわりと解けていくようだった。一口含むと、カモミールの香りがふわりと口いっぱいに広がり、思わず息がゆるんだ。気づけば肩に入り込んでいた力が抜けている。

 山本くんはもうすっかり仕事に戻っているようだったけれど、さっきより彼の存在が、ずっと近くに感じられた。




 温かいハーブティーのおかげか、ようやく企画書の沼から抜け出すことができた。長かった戦いが終わりほっとした気持ちで顔を上げると、山本くんがすでにデスクを片付けているところだった。

「山本くん、手伝ってくれてありがとう。おかげで終わりが見えたよ」

 私がそう声をかけると、彼は振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。

「お疲れ様でした、先輩。私も、先輩の作業が無事に終わって安心しました」

 その言葉に、私ははっとした。彼のデスクに何も残っていないことに気づく。パソコンも資料も、すべて片付いている。

「もしかして山本くん、もうとっくに終わってたの?それなら先に帰ってよかったのに。悪いことしちゃったね」

 私が慌てて言うと、山本くんは首を横に振った。

「いえ、とんでもないです。先輩がお一人で残業なさっているのに、私だけ先に帰るわけにはいきません。それに、万が一何かあったら困りますから」

 その言葉に胸の奥がじんわりと温かくなる。本当に、どこまで気が利くんだろう。私は彼の気遣いに甘えっぱなしだ。

「山本くんは本当に優しいね。なんか私のお兄ちゃんみたい」

 私が心から感謝を伝えると、山本くんは一瞬、目を見開いた。そしてすっと視線を伏せた。彼の顔に微かな陰りが差したように見えたのは、暗いオフィスの照明のせいだろうか。

「……兄、ですか」

「うん。なんか、山本くんがいてくれるとすごく安心するんだ。それにいつも私のことを気にかけてくれて、本当に助かってる。でも年下だもんね。やっぱり可愛い弟みたいかな」

「弟……」

 私は山本くんの真摯な気遣いに、無意識のうちにすっかり甘えていたのだ。

 彼を褒めているつもりの言葉が、まさか彼の心を深く抉っているとは、夢にも思っていなかった。


- - -


 時刻はもう深夜を回っている。オフィスを出ると、ひんやりとした夜風が肌を撫でた。

「先輩、送ります」

「ありがとう。でも、山本くんの家とは方向が違うんじゃない?」

 私が遠慮がちに言うと、山本くんはただ真っ直ぐに前を見据えながら、静かに答える。

「この時間に先輩を一人で歩かせるわけにはいきません」

 彼の声には、一切の譲歩が感じられなかった。そう言い切られてしまうと、私はそれ以上何も言えなかった。

 彼の隣を歩きながら、改めてその存在の大きさに気づかされる。いつもは会社での可愛い後輩だけど、こうして夜道を二人で歩いていると、妙に頼りがいがある。私よりもずっと背が高くて、すらっとした長い手足。細身ながらも体つきはしっかりしていて、隣にいると心なしか安心できた。

 静かな住宅街の道を進む。街灯がまばらに並び、二人の影を長く伸ばしている。特に会話もなく、ただ足音だけが規則的に響いていた。沈黙は気まずいものではなく、むしろ心地よかった。昼間の喧騒から離れたこの静けさが、疲れた心身にじんわりと染み渡る。

 ふと見上げると、夜空には満月がぽっかりと浮かんでいた。その光がアスファルトの上に白い道を引いている。

「月、綺麗だね」

 私がぽつりと言うと、山本くんの足が一瞬だけ止まった。隣を見ると、彼は私の顔をじっと見つめている。

「…先輩、それ、わざとですか」

 彼の声は、いつもの冷静さとは少し違って、どこか探るような響きがあった。

「え?」

 私がきょとんとして聞き返すと、山本くんは小さくため息をつき、再び歩き出した。

「いえ、なんでもありません」

 そう言う彼の横顔は、少しだけ拗ねているようにも見えて、私は首を傾げた。今の、なんだったんだろう?


 そうこうしているうちに、見慣れたアパートの灯りが見えてきた。アパートのエントランスまで来ると、私は立ち止まった。山本くんも私の隣で立ち止まる。

「山本くん、本当にありがとう。こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね」

 私が頭を下げると、山本くんはゆっくりと顔を上げた。街灯の光が彼の顔を照らし、その瞳が真っ直ぐに私を捉えているのがわかる。その視線に、妙な熱がこもっている気がして、私の心臓がドクンと大きく鳴った。

「先輩」

 彼の声が静かな夜にはっきりと響いた。いつもとどこか雰囲気が違う。

「先輩、“月が綺麗ですね”」

 山本くんは私の目から視線を外すことなくそう言った。

「え?う、うん?」

 私が曖昧に頷くと、山本くんは少しだけ、口元に笑みを浮かべた。その笑みは、諦めにも似ているような、けれど強い決意を秘めているような、不思議なものだった。

「夏目漱石の愛の告白、ご存知ですか?」

「っ……!」

 その言葉を聞いた瞬間、私の頭がフル回転で動き出す。夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという有名な逸話。まさか、そんな。

 頬が熱を帯びる。心臓が大きく脈打つ。これまでの山本くんの行動、言葉、そして先ほどの「わざとですか」という問い。全てが線になっていく。

 山本くんは、私の動揺を真っ直ぐに見つめていた。そして、彼の口から、まるで堰を切ったように、今まで聞いたことのない力強い言葉が紡ぎ出される。

「先輩、俺、先輩のことが好きです。尊敬とかそういうんじゃなくて、一人の女性として」

 夜の静寂に響く彼の声は、私の思考を完全に停止させた。目の前の山本くんは、これまで見たことのないほど真剣な眼差しで私を見つめている。

「…その様子だと、本当に全然伝わってなかったみたいですね。俺、結構わかりやすかったと思うんですけど」

 山本くんは、呆れたような、それでいて少し寂しそうな顔をした。その言葉が私の耳に妙にリアルに響く。

「え、う、嘘…」

 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど情けなかった。だって、まさか、あの山本くんが私を…?

「こんな嘘、つくわけがないでしょう」

 きっぱりと言い切る声には一片の迷いもない。その視線は私の動揺を真っ直ぐに捉えている。

「だ、だって!山本くんは、私の大切な後輩で…」

 必死に絞り出した言葉は、頼りなく空気に溶けた。山本くんは小さく息を吐き、一歩私に近づく。

「後輩ってだけで、ここまで尽くしたりしませんよ」

 その言葉と、真剣な眼差しが、私の心臓に直に届く。

 これまでの彼の気遣い、微糖ブラックの缶コーヒー、ブランケット、カモミールティー、夜道を送ってくれる優しさ――全てが、今「好き」という言葉に繋がり、一つの意味を持ち始める。

 全身に熱が広がるような感覚。自分の鈍感さが恥ずかしくて、息が詰まりそうだった。私はただ、目を見開くことしかできない。

「もう一度言いますね。俺は先輩のことが好きです」

 山本くんは先ほどより少し低い声で、けれど真っ直ぐに私を見て繰り返す。その瞳に吸い込まれそうになる。

 喉が詰まって声が出ない。頭の中は、彼の言葉と、再構築される過去の記憶でぐちゃぐちゃだった。

「でも、返事は急ぎません」

 私はさらに目を見開いて小さく「え…?」と漏らすと、山本くんは少し視線を落とした。

「先輩が俺のことをそういうふうに見ていないことは、ある程度わかってましたから」

 その顔に、わずかに諦めが滲んでいるように見えて、胸の奥がきゅっと痛む。

「困らせてごめんなさい」

 彼が頭を下げた。その姿が私の心を強く締めつけた。山本くんが私に、こんなふうに気兼ねして謝るなんて。

「あ、謝らないで!そ、その…」

 慌てて声を出すと、山本くんはゆっくり顔を上げた。瞳にさっきまでの陰りはなく、代わりに強い光が宿っている。

「でも、この気持ちだけは譲れません。なので、明日からは、もう遠慮しません」

「え…?」

 言葉の意味がすぐには理解できなくて、また情けない声が出る。遠慮しないって、どういう…?

 私の混乱など気に留める様子もなく、山本くんは小さく微笑んだ。その笑みは、達成感にも似ていて、何かを決意した人の強さが滲んでいた。

「じゃあ、おやすみなさい、先輩」

 彼はそう言い、私に背を向けて歩き出す。夜の闇にすっと溶けていく後ろ姿。その背中が小さくなっていくのを、私はただ見送ることしかできなかった。


 アパートのエントランスに一人立ち尽くす。夜風が頬を撫でて、火照った顔を少し冷やしてくれる。頭の中は今夜の出来事を処理しきれず、ただ山本くんの最後の言葉が繰り返し響いていた。

「明日からはもう遠慮しません」

 それが何を意味するのか、私と山本くんの関係がこれからどう変わっていくのか。全く想像がつかないまま、胸の鼓動だけが、夜の静けさに大きく鳴り響いていた。


- - -


 翌朝、目覚ましのアラームよりも早く目が覚めた。まだ夜の帳が完全に明けていない、薄暗い部屋。頭の中は、昨夜の山本くんの告白と、あの最後の一言でいっぱいだった。

 どうしよう。どんな顔して会えばいいんだろう。グルグルと考えながら、なんとか身支度を整える。普段はコンタクトの私だけど、今日は落ち着かず、家でかけていた眼鏡をそのままにしてしまった。いつもの服を選んだはずなのに、どれもしっくりこない。足取りも重く、会社までの道のりがいつもよりずっと長く感じられた。


 会社のエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。乗り合わせた社員たちの視線が自分に集まっているような気がして、思わず俯いた。心臓が不規則に速く打つ。

 フロアに着き、部署のドアを開けた瞬間、息が詰まる。山本くんがもう自分のデスクに座っているのが見えた。そういえば、彼はいつも私より早く出社している。どんなに早く来ても必ず先にいて、シワひとつないシャツで仕事に向かう姿がある。

 パソコン画面に真剣な眼差しを向ける背中は、昨夜私に告白した人物と同一だなんてとても思えなかった。いつも通りの「できる後輩」そのものだった。

「お……おはよう、山本くん」

 意を決して、声をかける。自分でも気づくほど声が小さい。震えていないか心配だった。

 山本くんはゆっくりと顔を上げ、私に視線を向ける。そして、普段と何ひとつ変わらない、礼儀正しい笑顔を見せた。

「おはようございます、先輩。今日はずいぶん早いですね」

 あれ…?いつも通りだ…。声も、響きも、優しさすら滲むその口調も、いつもと変わらない。

 胸が、拍子抜けするほど静まる。昨日の出来事が夢だったのかと錯覚しそうになる。でも──夢じゃない。あの告白の言葉は、鮮明に胸に焼きついている。

 もしかして、意識してるのは私だけ…?そんな不安が胸をよぎり、じわじわと顔が熱くなる。自分だけが空回りしているような気がして、恥ずかしさでいっぱいだった。

「あ、いや、なんでもないの。ちょっと早く目が覚めちゃって」

 曖昧に笑い、そそくさと自分のデスクへ向かう。椅子に腰を下ろし、パソコンを立ち上げる。無機質な画面を見つめながら、どうにか平静を装おうと必死だった。

 その時だった。

 ふいに耳元で、低い声が落ちた。

「先輩、その眼鏡も、とてもお似合いですよ」

 ぞくり、と背中に電流が走った。声のトーンはいつも通りの丁寧な敬語。それなのに、吐息が耳にかかったように感じて、全身が熱を持ち始める。

 慌てて振り返ると、山本くんはもう自分のデスクに戻り、何事もなかったかのようにキーボードを叩いている。

 この人…まさか。

 心臓がひときわ大きな音を立てた。昨日の「明日からはもう遠慮しません」という言葉が、頭の中で鮮明に響く。あれは、宣戦布告。まさにそういう意味だったのだ。

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