第22話 キス・3


 湯村が知りたかったのは、写真の画像では見切れてしまっている人物の名前である。しかし、少年が「この春馬さん、若いね。となりにいるのは、おにいちゃんかな?」と、無邪気に口をはさんだことで、鷹尾は小さく肩をすぼめ、


「電車の時間だ。帰るぞ」という。


「わっ、たいへん。もうこんな時間なんだ。門限ぎりぎり。それじゃあ、またね、透おにいちゃん!」


 少年から携帯電話を受けとる湯村は、「ま、待って」と声にでたが、駅に向かって歩きだすふたりは、うす闇にまぎれて消えてしまった。


「まだ聞きたいことが!」


 前方へのばした腕は、宙をさまよった。結局、新しい情報といえば、鷹尾の携帯番号くらいである。あと、兄弟はいないらしい。


「だったら、いっしょにいた男の子は誰なんだよ。ほんとうに、あなたの弟じゃないの?」


 鷹尾は嘘をついていない。少年が実弟ならば、かなりとしの離れた兄弟である。もし義弟だとしても、血はつながっていない場合もあった。


「あなたのことを知るたび、謎が増えていくような気がする……」


 茫然としてたたずむ湯村は、ドーンッと、夜空へひびく花火の音でわれにかえり、帰路へついた。



「ふう、疲れた……」


 

  慣れない外出をして帰宅すると、二階の部屋におちついた。さっそく、何枚か撮影した花火の画像をながめ、いちばんよく写っているものを選び、教習所の水島へ送信した。少しでも、夏の夜風を感じてもらえたらと思った。お礼の返信メールはすぐにきた。湯村の表情は、機械文字を読みながらしだいになごやいでいった。


 花火大会のあと、雨もよいの日がつづき、湯村は外出をひかえた。数日後、バス停のクロスケが気になり、傘をさして向かうと、待合室のベンチで丸くなっていた。持参したキャットフードをあたえ、頭をなでてやると、気持ちよさそうにニャアと鳴いた。見たところ怪我もなく、元気そうで安堵した。とくに痩せてもいない。



「ウチで飼えたら、よかったのに……。車に気をつけて、できるだけ長生きするんだよ……」


 

 クロスケを残して雨のなかを歩く湯村は、近所のコンビニへ立ち寄り、キャットフードを追加で購入した。じぶんのおやつとして、真空パックになっているとりのささみと、ヨーグルト、ナッツ類をカゴにいれて精算した。大学のフルーツ牛乳がのみたくなり、次の日、トートバッグのなかへ携帯電話と鷹尾の設計図を詰めこみ、スクールバスに乗りこんだ。


 雨の日でも、構内を移動する人影は多かった。だが、渡り廊下のさきにある自動販売機は、昔ながらの紙パック飲料(しかもどれも甘い味だ)で、あまり学生の姿は見あたらない。小銭を投入してフルーツ牛乳のボタンを押すと、ガコッと、勢いよく落ちてくる。ストローをさしてひと口のむと、ほどよい酸味に停滞ぎみの思考がひらけてゆくようだった。いっぽう、あとに残る甘さは、湯村を現実へ引きもどす。


「あのひとにもういちど逢えたら、なにを云おうかな……」


 一方的な自己紹介にたいして、湯村のほうで反応が遅れたことは、いつまでも悔やまれた。せめて、苗字だけでも教えてほしかった。まだ、はっきりとしたこたえを見つけられない湯村だが、鷹尾の存在が、彼のもとへみちびいてゆく。



「まったく、なにがご褒美だよ。ぼくをもてあそんで、愉しんでいるくせに」



 文句のひとつも云うつもりで、鷹尾に電話をかけると、本人が目のまえにあらわれた。「もしもし」と携帯電話を耳にあてながら、自動販売機へ近づいてくる。湯村は驚いて回線を切った。


「なんで、いるの……。まさか、ぼくを尾行できるとか……?」


「なんのために、湯村を追う必要があるんだよ。おれは大学に用があるだけだ」


 たしかに、最近の湯村は自意識過剰となっていた。ばかなことを口走って青ざめると、靴底が地面に吸着して動けなくなった。鷹尾が接近してくる。硬直する湯村の手からフルーツ牛乳のパックを奪いとり、ストローをくわえてのんだ。


「甘いな」


 ふたたび湯村の手にもどすと、携帯電話を耳にあてている腕を、ようやくさげた。肩がけにした図面ケースの蓋をあけ、葉番の記された設計図を差しだす。


「また、謎解きですか」


「つまらなきゃ捨てろ」


「いくらなんでも、捨てるなんてできませんよ(影山さんいわく、上品な図面だもの。なんか価値がありそう……)。せめて、理由を教えてください。どうしてこんなことをさせるのか、あなたの考え……を……」


 湯村のせりふをさえぎって、鷹尾が唇をせてくる。やや強引にからませてくる舌は、フルーツ牛乳の味がした。鷹尾の熱い息をのみこんでうろたえる湯村は、その場にへたりこみ、乱れた呼吸を苦心してととのえた。


 鷹尾のキスに途惑うのは、受け身として容認できないからだ。心の底で、なにかがちがうと感じる。湯村が求めているものは、快楽のための情愛などではない。身体作用は欲望に忠実とはいえ、むやみに興奮したいわけではなかった。


 よりによって、大粒の涙がこぼれた。泣くつもりなどなかった湯村は、渡り廊下の段差へうずくまった。両ひざを立て、額を押しつける。背なかを丸めて躰を小さく折りたたむと、鷹尾が近づく気配がした。しのび泣く湯村のとなりに腰をかけ、しばらく寄り添ったのち、


「人任せにするようなやつなら、とっくに見かぎってたけどな。……辛抱強くて頑固なくせに、ここまできて降参するのか? よく見ろ。ゴールラインはどこにある? あきらめるのは勝手だが、巻きこまれたのは、おれのほうなんだよ。おまえがさきに降参した場合、遠慮なく手をださせてもらうぜ」


 と、なにやら思わせぶりなせりふを口にして、さらに湯村を困惑させた。



✦つづく

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