第6話 ある雨の日
新緑が薫る五月の晩春、朝から霧のような雨がふっていた。
通学のためスクールバスに乗る必要がある湯村は、自転車を駐輪場へ停めると
時刻は早朝だが、五歳くらいの男の子がベンチにすわっている。湯村が驚いたのは、迷い猫のクロスケ(オスだと判明したので勝手に命名した)が、男の子のひざのうえで
「おはよう。早いね。……きみの猫?」
「おはようございます。この子は、のら猫だと思います」
ためしに声をかけてみると、警戒されず、すんなり応じた。クロスケは男の子のひざから、ぴょんっと地面へ着地して、湯村の足もとに
「全部あげないの?」と、
男の子が訊く。ベンチに浅くすわり、両足をふらふらさせている。水色のレインコートに黄色の長靴といった、小学生らしい身なりだが、ランドセルを背負っていないのが気になった。
ここ最近のクロスケは、
「食べすぎは危険だからね」
「ウチのお父さん、メタボリックシンドロームなんだよ」
「生活習慣の改善をおすすめするよ」
子ども相手なら、それなりに会話が成立する湯村は、内心ホッとした。
「きみ……」
男の子とはこれが初対面だと思い、とりあえず名乗ろうと顔をあげると、ふたたび、目をうたがった。こつ然と消えている。クロスケは首のうしろを前脚で搔くと、ベンチに飛び乗って丸くなった。
「あの子は、どこへ行ったんだ?」
あわてて待合室の外を確認したが、
次は◯◯大学総合体育館まえ~
次は◯◯大学総合体育館まえ~
プシューッ、ガタンッ
ピロリンッ、ブロローッ
時間の経過とともに雨は勢いを増し、本降りとなった。バスをおりた湯村は、折りたたみ傘を組み立ててさすと、ゆっくり歩きだした。ぼやけた視界のさきに、人影がたたずんでいる。また幽霊かと思い、ギクッと背筋が硬張ったが、見覚えのある図面ケースを背負っているため、本校の学生だと認めた。しかし、構内で姿を見かけたことはいちどもない。不覚にも、湯村は鷹尾をさがして歩きまわった。キスの件を、問いただすためだ。
「あなたは、いったい誰なんですか」
「知っているだろ」
「建築科の鷹尾春馬さん」
「正解」
「嘘つき」
「ひどいな」
「だって、構内じゅうをさがしても、あなたはいなかった……」
「へえ、おれをさがしたんだ」
「どこにも、いませんでした」
「だとしたら、おれは何者だ? ばけものか幽霊だとでも思ってる?」
「……そんなの、知りません。あなたが何者でも、ぼくには関係ありませんから」
「キスしたくせに」
「あれは、あなたが勝手にしたことです。だからぼくは、どういうつもりなのか、ききたくて……」
じりじりと鷹尾が詰め寄ってくるため、折りたたみ傘をふりまわして抵抗した。
「ぼくに、近寄らないでください!」
「おおげさだな。おまえ、誰をさがしているんだよ」
「え……?」
「おれを見つけるのは簡単だ。朝、正面玄関で待ちぶせればいい。ひとの出入りが多くなる日中に、わざわざ構内を移動してまでさがす必要はないはずだ。……なんのために、おれが、こうして先まわりしていると思ってるんだ」
そう云う鷹尾は笑みを浮かべ、口ごもる湯村を抱擁した。あまりにも
「はなして……ください……」
「なにがききたいんだ」
「そうじゃなくて……」
「話なら、きいてやる」
「ちがうんです……、腕をはなして……」
鷹尾は、雨にぬれる湯村の肩を見つめると、折りたたみ傘を拾って差しだした。突き放せなかったくせに、どうしても腹が立つ湯村は、相手のビニール傘を奪い取って走りだした。シロクマのデザインがお気に入りだった折りたたみ傘は、あとで返してもらえばいい。鷹尾の云うとおり、早朝の木立ちのかげで待ちぶせれば、かならず逢えるのだから──。
✦つづく
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