第6話 ある雨の日


 新緑が薫る五月の晩春、朝から霧のような雨がふっていた。

 

 

 通学のためスクールバスに乗る必要がある湯村は、自転車を駐輪場へ停めると雨合羽あまがっぱを脱いで、待合室にはいった。ベンチを寝床にしている迷い猫に食事をあたえるため、キャットフードを持ち歩く湯村は、一瞬、目をうたがった。


 時刻は早朝だが、五歳くらいの男の子がベンチにすわっている。湯村が驚いたのは、迷い猫のクロスケ(オスだと判明したので勝手に命名した)が、男の子のひざのうえでくつろいで、、、、、いるからだ。頭をなでられて、気持ちよさそうに、ニャアと鳴く。最近になって、湯村のキャットフードを食べるようになったクロスケが、初対面の相手になつくわけがない。


「おはよう。早いね。……きみの猫?」


「おはようございます。この子は、のら猫だと思います」


 ためしに声をかけてみると、警戒されず、すんなり応じた。クロスケは男の子のひざから、ぴょんっと地面へ着地して、湯村の足もとにり寄ってくる。トートバッグのなかにある小分けパックのキャットフードを取りだすと、しゃがみこんで何粒かあたえた。


「全部あげないの?」と、


 男の子が訊く。ベンチに浅くすわり、両足をふらふらさせている。水色のレインコートに黄色の長靴といった、小学生らしい身なりだが、ランドセルを背負っていないのが気になった。


 ここ最近のクロスケは、餌付えづけをする人物があらわれたようで、アッというまに雪だるまみたいなフォルムになっている。猫の肥満は、人間と同じように関節炎や呼吸不全などの病気を引き起こす可能性があるため、クロスケの健康を懸念した湯村は、低カロリーのキャットフードを少量だけあたえるようにした。


「食べすぎは危険だからね」


「ウチのお父さん、メタボリックシンドロームなんだよ」


「生活習慣の改善をおすすめするよ」


 子ども相手なら、それなりに会話が成立する湯村は、内心ホッとした。


「きみ……」


 男の子とはこれが初対面だと思い、とりあえず名乗ろうと顔をあげると、ふたたび、目をうたがった。こつ然と消えている。クロスケは首のうしろを前脚で搔くと、ベンチに飛び乗って丸くなった。


「あの子は、どこへ行ったんだ?」


 あわてて待合室の外を確認したが、けむりのような小雨が視界をさえぎり、あたりは鎮まりかえっていた。幽霊でも見たのかと寒気を感じたとき、バスが到着した。釈然としないまま乗りこみ、大学へ向かう。



 次は◯◯大学総合体育館まえ~

 次は◯◯大学総合体育館まえ~


 プシューッ、ガタンッ

 ピロリンッ、ブロローッ



 時間の経過とともに雨は勢いを増し、本降りとなった。バスをおりた湯村は、折りたたみ傘を組み立ててさすと、ゆっくり歩きだした。ぼやけた視界のさきに、人影がたたずんでいる。また幽霊かと思い、ギクッと背筋が硬張ったが、見覚えのある図面ケースを背負っているため、本校の学生だと認めた。しかし、構内で姿を見かけたことはいちどもない。不覚にも、湯村は鷹尾をさがして歩きまわった。キスの件を、問いただすためだ。



「あなたは、いったい誰なんですか」

「知っているだろ」

「建築科の鷹尾春馬さん」

「正解」

「嘘つき」

「ひどいな」

「だって、構内じゅうをさがしても、あなたはいなかった……」

「へえ、おれをさがしたんだ」

「どこにも、いませんでした」

「だとしたら、おれは何者だ? ばけものか幽霊だとでも思ってる?」

「……そんなの、知りません。あなたが何者でも、ぼくには関係ありませんから」

「キスしたくせに」

「あれは、あなたが勝手にしたことです。だからぼくは、どういうつもりなのか、ききたくて……」


 じりじりと鷹尾が詰め寄ってくるため、折りたたみ傘をふりまわして抵抗した。


「ぼくに、近寄らないでください!」


「おおげさだな。おまえ、誰をさがしているんだよ」


「え……?」


「おれを見つけるのは簡単だ。朝、正面玄関で待ちぶせればいい。ひとの出入りが多くなる日中に、わざわざ構内を移動してまでさがす必要はないはずだ。……なんのために、おれが、こうして先まわりしていると思ってるんだ」



 そう云う鷹尾は笑みを浮かべ、口ごもる湯村を抱擁した。あまりにも容易たやすく抱きしめられて、折りたたみ傘が指からすべり落ちる。じぶんのものではないぬくもりが心地よく感じてしまう湯村は、泣きたくなった。


「はなして……ください……」


「なにがききたいんだ」


「そうじゃなくて……」


「話なら、きいてやる」


「ちがうんです……、腕をはなして……」


 鷹尾は、雨にぬれる湯村の肩を見つめると、折りたたみ傘を拾って差しだした。突き放せなかったくせに、どうしても腹が立つ湯村は、相手のビニール傘を奪い取って走りだした。シロクマのデザインがお気に入りだった折りたたみ傘は、あとで返してもらえばいい。鷹尾の云うとおり、早朝の木立ちのかげで待ちぶせれば、かならず逢えるのだから──。



✦つづく

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