第4話 待ちぼうけ


 湯村の家庭は両親が共働きで、手間がかかる動物は飼わない主義だった。湯村は犬が好きで、散歩中や近所の庭で見かけるたび、いつか飼える日を夢みた。


 早朝のコンビニで、小分けパックのキャットフードを(はじめて)手に取った湯村は、コロッケパンとフルーツ牛乳、それからミントキャンディをカゴにいれると、レジで精算した。自転車に乗ってバス停へ到着すると、待合室のベンチを寝床にしている黒い毛の猫に、「おいで」と声をかけた。


「毒なんてはいってないよ」


 食欲がないのか、鼻さきへ小粒のフードをちらつかせても、ぴくりとも動かない。猫にとって湯村は、知らない人間というわけでもない。その猫は、大学へ向かう朝のバス停で、かならずベンチで丸くなっている。


「ほら、おいで。食べないのか?」


 せっかく買ってきたが、どうあっても動きたくないらしい猫は、湯村の存在など知らん顔だ。しかたなく、パッケージをあけた分のキャットフードはベンチの下にまとめ、スクールバスへ乗りこんだ。ガラ空きの席にすわる。



 次は◯◯大学総合体育館まえ~

 次は◯◯大学総合体育館まえ~


 プシューッ、ガタンッ

 ピロリンッ、ブロローッ



 バスをおりた湯村はトートバッグの内ポケットへ定期カードをしまうと、警備員室の建物を通過して、正面玄関へと向かう。スニーカーの紐がゆるんでいたので、立ちどまってしゃがみこんだ。木立ちの葉むらが、ざわざわと風にゆれる音が聞こえる。アスファルトのうえに置いたコンビニのレジ袋も、ざわざわと似たような音をたてた。



「フルーツ牛乳が好きなのか」



 突然の声は、背後ではなく真横から聞こえた。湯村はしゃがんだまま顔を向けると、筒型ホルダーの図面ケースを肩がけにして、木の幹に寄りかかる男がいた。建築科の鷹尾である。直感で脳が判定した。


「あ、あなたこそ、優秀なんですね」


 湯村は冷静に声を発したが、靴紐を結ぶ指が小刻みにふるえた。人ちがいだった場合、意味不明な発言である。だが、男には通じた。自嘲ぎみに笑うと、


「なにが」と訊く。


「三年前のセンター試験です」


「そんな噂話を信じるのか」


「事実ではないと……?」


 湯村は、つまらない話題を持ちだして後悔した。目のまえにいる学生は、まちがいなくキレ者だ。



「まずはそっちから名乗りなよ。自己紹介は、下から上にというのが基本だろう」



 男の口ぶりは意外にのびやかな調子で、むやみに心拍数が上昇する湯村は、めまいさえ感じる状況に困惑した。


「名前がないのか」


「え……」


「だから、名前」


「湯村です」


「湯村は苗字だな。名前は?」


「と、とおると云います」


 うながされて名乗ったが、鷹尾は木立ちのかげを抜けだして歩きだす。



「待ってください。あなたの自己紹介が、まだ終わっていない!」


 

 湯村にしてはめずらしく、声高になった。二、三メートルさきで立ちどまった相手は、ゆっくりふり向いた。少し驚いたような顔をして、湯村を見据えた。



「当ててみて」と云う。


「……よ、四年生の鷹尾さん」


「正解」



 鷹尾は、くすッと笑い、大学の校舎を見あげた。きれいな横顔だった。思わず見とれた湯村はハッとして、「名前も教えてください」と、あわててたずねた。鷹尾は木立ちのなかの鳥の声に耳をすませ、「春馬はるま」と、こたえた。


「鷹尾春馬さん」


 湯村が声にだして呼ぶと、かすかに目を細め、踵をかえす。互いに名乗った以上、もう見ず知らずの間柄ではない。次に逢うときは「鷹尾さん」と呼べる。湯村は、遠ざかる背なかを見つめ、そう思った。


 それから、誰もいない教室へ足を運び、定位置の席につくと、ため息が洩れた。朝一番にスクールバスへ乗りこむ湯村だが、二度も鷹尾に出喰わすとは、ふしぎな感覚である。


「あのひと、こんなに早くきて、なにしているんだ?」


 湯村の場合、通学時の混雑をきらって早起きするのが日課だが、鷹尾のほうの理由が気になった。なんとなく誰かを待っているようでもあり、その相手に興味をそそられた。



 翌朝、木立ちのかげに鷹尾の姿はなかった。そこにいた痕跡をさがしてしまう湯村は、じぶんの嗜好を意識して青ざめた。



「……ぼくは、また失敗したのか」



 葉むらのざわつきが、耳もとで鳴る。ふつうがふつうでなくなったとき、湯村の悩みは深刻だ。今すぐ立ち去らなければ、あともどりできないだろう。一刻も早く、逃げるべきだった。置かれた状況を頭で理解しても、手足が動かなくなる。じぶんの躰なのに、気持ちと連動しないのだ。



「……だ、誰か……」



 うまく息ができず、呼吸が苦しい。いっそ、このまま永遠の眠りにつけたらと、ばかなことを考えた。



「おちついて深呼吸しろ」



 すっと男の腕がのびてきて、湯村の胸のあたりへ手のひらを置くと、軽く圧迫した。鷹尾だ。舌がよくまわらず、名前を呼ぼうとした湯村はのどが詰まった。


「ほらよ。こんなときにでも、好物がのみたくなるのか」


 そう云って、頰へ冷たいフルーツ牛乳の紙パックをあてがわれた途端、思いだしたかのように深く息を吸った湯村は、鷹尾を殴り飛ばしたい気分になった。


「どうして、こんなこと……」


「だって、これが好きなんだろう」


「……好きですけど」


 大学の構内には、自動販売機が設置されている。紙パックのフルーツ牛乳が入手できる場所は、渡り廊下のさきにある一台きりで、どうやら鷹尾は、さがしまわったようだ。……ぼくが好きなのは、あなたです。という告白の予定はない。気になる相手は、ほかにいる。だが、オープンキャンパスで遭遇した人物は、いまだにあらわれない。大学生になって二週間が経過した湯村は、まぼろしを見たのではないかと思い、まぶたをとじた。


 かたわらの鷹尾は、湯村の肩を引き寄せると、唇をせた。



✦つづく

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