波の花が咲く日

モノを描く人

第1話 灰色のファインダー①

シャッター音が、やけに乾いて聞こえた。


「はい、OKです。ありがとうございました」


アシスタントの若い声が、無機質なスタジオの空間に響く。俺はカメラから顔を上げた。目の前には、完璧なライティングを浴びた化粧水のボトルが、ガラスの台座の上で澄まし顔をしている。背景のグラデーションペーパーには一点の曇りもなく、ボトルの表面に映り込むスタジオの機材は、レタッチで消しやすいように計算し尽くされている。完璧な、しかし魂のない一枚。それが、今日の俺の仕事の成果だった。


クライアントである化粧品メーカーの担当者が、モニターに映し出された画像を見て、満足げに頷いている。


「素晴らしいですね、湊さん。この透明感、さすがです。商品の持つクリアなイメージが、これ以上なく表現されています」

「いえ……」


曖昧に会釈を返す。求められたものを、求められた通りに撮る。プロとして当然の仕事だ。フリーランスのフォトグラファーとして独立して五年、おかげさまで仕事が途切れたことはない。だが、その事実に比例して、俺の中の何かが少しずつすり減っていくのを感じていた。


スタジオを出て、機材を詰め込んだ重いケースを引きずりながら、灰色の空を見上げる。東京の空は、いつだって何かで薄められたような、はっきりしない色をしていた。かつて、俺はこの空の下で、世界を切り取ることに夢中になっていたはずだった。大学の写真学科に通っていた頃、一台の中古フィルムカメラを首から下げ、目的もなく街を歩き回った。雨上がりのアスファルトに反射するネオン、古びた喫茶店の窓辺に座る老人の横顔、風に揺れる公園のブランコ。ファインダーを覗けば、退屈な日常が、一瞬一瞬、特別なものに変わった。そのきらめきを、印画紙の上に永遠に焼き付ける行為が、たまらなく好きだった。


『湊の写真は、温度があるよな』


そう言ってくれたのは、同じゼミにいた親友の健太だった。卒業制作の講評会で、俺が提出した、寂れた港町の組写真を見て、彼はそう言ったのだ。


『別に、劇的な瞬間を撮ってるわけじゃないのに、そこにいる人の体温とか、空気の匂いとかが伝わってくる感じがする』


彼は卒業後、故郷の新聞社に就職し、今も地方のニュースを撮り続けている。時折送られてくる、祭りの写真や、地元の子供たちの笑顔の写真を見るたびに、彼の言葉が胸に蘇る。俺は、その言葉を、お守りのように胸に抱いてプロの世界に飛び込んだ。だが、今の俺の写真に、あの頃のような「温度」はあるだろうか。クライアントが求める「透明感」とは、結局のところ、無味無臭で、誰の心にも波風を立てない、最大公約数的な美しさのことだ。俺は、その技術を磨くことに必死になるあまり、自分の心が何に動かされるのかを、すっかり忘れてしまったのかもしれない。


自宅と仕事場を兼ねたマンションに帰り着くと、部屋の隅に立てかけてある防湿庫に目が留まった。中には、学生時代から使っているフィルムカメラや、旅先で撮りためたまま、現像すらしていないフィルムが眠っている。いつからだろう。防湿庫の扉を開けなくなったのは。デジタルカメラの効率性と正確性に慣れきってしまい、フィルムの持つ不確実さや、待つ時間と向き合うのが、億劫になっていた。


重い体をソファに沈め、スマートフォンを手に取る。メッセージアプリを開くと、一件の通知。恋人である栞からだった。


『今日もお疲れさま。今夜、何か食べたいものある?』


その短い文章に、強張っていた心がふわりとほどけるのを感じた。


栞とは、三年前、友人の紹介で知り合った。彼女は出版社で文芸雑誌の編集者をしていて、いつも穏やかで、本の話をする時の彼女の目は、子供のようにきらきらと輝いた。俺の仕事についても、深くは聞いてこない。ただ、俺が撮った雑誌の広告やポスターを街で見かけると、「見つけたよ」と嬉しそうに報告してくれる。その絶妙な距離感が、心地よかった。彼女は、俺の写真そのものではなく、写真と向き合っている俺という人間を見てくれている。そんな気がした。


『ありがとう。なんでもいいよ。栞の食べたいもので』


そう返信すると、すぐに既読がついた。


『じゃあ、カニ鍋にしない? 美味しそうなズワイガニ、見つけちゃった』


画面に表示されたカニの写真に、思わず笑みがこぼれた。タグが付いたままの、鮮やかな赤い脚。その無防備な姿が、なんだか栞らしいと思った。

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