【重ねたくちびる。重ねた体(2)】

 そんなことを聞かれても、僕にはわからないよ、という顔を乃蒼に向けた。僕だって解決策なんて知らない。答えを知りたいのはこっちのほうだと言ってやりたかった。けれど、彼女とて、僕に弱音を吐きたかったわけじゃないのはわかっていたのでしなかった。僕だって乃蒼の気持ちに応えてあげたい。ただ、うまく言えないだけで。


「わからない。わからないけれど、ずっとここにいたらいいさ。そしたら、何も変わらない」


 全部、物語の中の話だ。そうなると決まったわけじゃない。乃蒼は、ずっとここにいればいい。ずっといてほしい。

 返事はなかった、それが問題の先送りでしかないと僕はわかっていたし、彼女もわかっているのだ。

 三分経った。二人でラーメンをすする。


「でも、私の目が覚めないことで、向こうの世界にいる誰かに迷惑がかかっているんだよね? きっと。病院の人とか。友だちとか。親戚とか」


 家族という単語を乃蒼は言わなかった。そこに彼女の本音が滲んでいるような気がして心が苦しくなった。

 乃蒼の家庭環境は複雑だ。それが元で、彼女は周りの人に負担をかけたくないと常に思っている。それがたとえ、並行世界の話だとしてもやはり気になるのだ。


「私は嫌だな。自分が寝ている間に、誰かに迷惑をかけているなんて」

「じゃあ、どうするの?」

「立夏は、どうしたらいいと思う?」


 乃蒼はカップ麺の容器に割りばしをゆっくりと置いた。答えを探るように、静かな湖面を見つめるようにしてしばし静止していた。


「向こうの世界のことなら、向こうの世界の人たちがなんとかするさ。ここにいる君が心配することでもない。――乃蒼は、向こうの世界に帰りたいの? 僕一人をこの場所に残して?」


 この先、物語の通りになると決まったわけでもないのに、僕は何に駄々をこねているのだろう。第一、自分本位な考え方だ。こんなのは僕のワガママでしかない。一番困惑しているのは彼女なのに。


「そういうわけじゃないけど」


 案の定、困った顔をされた。


「私だって、このままでいられるならそうしたいよ」

「僕だってそうだよ。ずっと乃蒼のそばにいたい。だから……」


 だから? その先は? もう、自分でも何を言いたいのかわからなくなっていた。ただ、彼女の手を離したくないという想いだけがあった。


「まずは、今できることをしよう」

「うん……」


 薄っぺらい台詞だと自分でも思う。けれど、それが今の僕にできる精一杯の言葉だった。何を想定し、どのように考えを巡らせたとしても、納得できる答えなどどこにもありはしないのだ。僕は、不安で、苦しくて悲しくて腹ただしかったけれど、乃蒼は僕以上に苦しいのだから、僕だけは冷静でいなければならないと自分を戒めた。

 食べ終えたカップ麺の空容器を片付けるため乃蒼が一度立った。

 キッチンから戻ってくると、ノアが僕の真横に座る。心なしか、いつもより距離が近い。

 乃蒼の今日の服装はミニスカートだ。嫌でも露出している太ももに目がいった。

 乃蒼が髪をかき上げた。コロンの甘い匂いがした。僕の肩に乃蒼の頭が乗る。普段よりも大きく感じる彼女の息遣いに意識が引っ張られた。

 不意に手を握られた。その柔らかさに驚いて隣を見ると、彼女と正面から目が合った。

 視覚、嗅覚、聴覚、触覚、あらゆる角度から乃蒼の存在を感じる。頭の中が乃蒼で満たされて、くらくらしてくる。


「あのね立夏」


 艶っぽい声だった。


「うん……」

「私ね、この二日間ずっと考えていたの。もしこのまま立夏と離れ離れになったらどうしようって。そう考えただけで不安になって」


 潤んだ瞳が僕を見つめている。その目に吸い込まれそうになった。


「僕もだよ。僕もずっと乃蒼のことを考えていた。この二日間だけじゃない。もしかしたら、君と初めて出会った日からずっと」

「うん。私も、だよ」

「僕はたぶん、乃蒼に嫉妬していた」


 乃蒼が瞳を大きく見開いた。僕のカミングアウトが、意外だったのだろうか。でもすぐに、覚悟を決めた顔で「うん」と頷いた。


「高校時代、たぶん僕はうぬぼれていたんだ。有名な小説家を父に持っているのだから、僕は実力があるのだと。実際、僕は決して下手な書き手ではなかったと思う。けれど、乃蒼は全然違った。そんな僕を、初手から置き去りにしていく存在だった」

「そんな、私は」

「いいんだ。それは僕が勝手にそう思っていただけで、乃蒼が悪いわけじゃない。乃蒼の小説があまり売れなかったときも、このあたりで一度壁にぶつかるべきなんだ、くらいのことを無責任に思っていた。間違いなく、それは醜い嫉妬の感情だった」

「それを立夏はずっと気にしていたの?」

「うん……ごめん」


 でもね。


「同時に、すいすい傑作を書き上げていく乃蒼に憧れてもいたんだ。小説に向き合う姿勢からして違うことに気づいたとき、特にそう思った。だから、君とこうして再び出会えて嬉しかった。僕は、乃蒼と一緒に小説が書けるのが楽しかったんだ」


 この先、世界がどうなってしまうかはわからない。

 乃蒼のことを、忘れてしまうのかもしれないし、むしろそうなったほうがいいのかもしれない。

 けれど、彼女への想いは本物だった。それだけは確かなことだった。

 だから――僕は言う。

 ずっと伝えたかったことを。

 これまで彼女に言えずにいたことを。


「これで終わりにしたくない」


 自分の気持ちをごまかすための贖罪なんかよりも、何よりも――。

 彼女のために言ってやりたかった言葉だ。


「この先、乃蒼の元にどんな運命が降りかかってくるのかわからないけれど、どんなことがあっても僕が側にいる。側に……いてほしい」

「えっと、それは……」


 乃蒼が少したじろいだ。


「ずっと前から好きでした」


 やっと、言えた。

 ずっと抱えてきた思いを告白したことで、気持ちが楽になっていた。


「――?」


 乃蒼が息を呑む音を最後に、周囲から音が消えたように感じた。いや、それは気のせいだ。こんなにも、僕の鼓動はうるさいのだから。

 乃蒼が瞳を瞬かせる。時間が静止したみたいに彼女はそれきり動きを止めた。

 数秒ののち、勢いよく立ち上がって、彼女がトイレに駆け込んだ。

 バタンという音がして、静寂がおとずれる。

 なんだろう、これ。失敗してしまったのだろうか。

 自己嫌悪していると、ややあって乃蒼がトイレから出てくる。手を洗う音がして、再び隣に座った乃蒼の顔は心なしか赤い。

 えっと、立夏、と彼女が言った。


「もう一度言ってくれる?」


「うん」と僕は頷く。一言一句違わず先ほどの台詞を繰り返す。すると彼女は恥ずかしそうに頬を染めて俯きながら、囁くようにこう言ったのだ。 

「私も、ずっと前から好きでした」と。


「ほんとに?」

「冗談でこんなこと言わないよ」

「良かった。ずっと片想いだと思っていたから」

「私も」


 彼女が僕の肩に頭を預ける。その体温が愛おしい。僕も彼女の頭に自分の頬をくっつけた。お互いの吐息が感じられるほどの近さだった。


「ようやく、恋人同士になれたね」


 乃蒼が言うので、僕は頷く。彼女を抱く腕の力を少し強めたら、同じだけ抱き返された。

 二人の目が合う。ごく自然に二人の顔が近づいて、僕たちは初めてのキスをした。


 ――たぶん。このとき僕は焦っていたんだ。僕だけではなくてきっと乃蒼も。残されている時間が、決して多くないことをお互いに察していたから。


 乃蒼が僕の手を握って自分の胸に押し付けた。柔らかい感触と心臓の鼓動を手のひらで感じる。それはとても速くて、とても熱い。


「ねえ、立夏。……私、今すごくドキドキしてる。どうしてかわかる?」


 乃蒼の顔は真っ赤に染まっている。彼女が興奮しているのが伝わってくる。


「僕と同じ理由であれば、わかるよ」


 乃蒼が目を閉じて顔を寄せてくる。キスがしたいんだ、とわかったので僕のほうから唇を重ねた。それは、さっきよりも長くて、深くて、たまらなく気持ちがいいキスだった。

 乃蒼をベッドに連れていき、組み敷いた。彼女の首筋にキスをしながら、服を脱がせていく。乃蒼も僕を受け入れてくれているらしく、背中をぎゅっと抱きしめてくれた。


「立夏……」


 乃蒼が僕の名前を呼んだ。彼女の目を見たくて、僕は上体を起こす。


「立夏……私……わたし……」

「うん」


 乃蒼は泣いていた。彼女の不安を拭うために、もう一度口づけをした。今度はやさしく唇に触れるだけのキスだった。彼女の顔を両手でそっと包むと、自分の額を乃蒼の額にくっつけた。


「きっと大丈夫」


 そう言って笑いかけることしかできなかった。乃蒼は鼻をすすりながら小さく頷いた。

 僕らはそれからずっとベッドの上で抱き合った。互いの存在を確かめ合うように、何度も唇を重ねた。二度、三度と回数を重ねて、徐々に激しくなっていった。そのたびに、僕は「乃蒼が好きだ」と告白した。彼女はそのたびに「私も立夏が大好き」と答えてくれた。それはとても甘やかな響きだった。

 理性では抗えないほどの本能的な衝動に突き動かされながら、僕は乃蒼を愛したし、乃蒼も僕を愛してくれたと思う。

 行為を終えたあとも、僕たちは抱き合ったままでお互いの熱を感じていた。その肌は溶け合ってしまいそうなほどに熱かったが、僕はしばらく乃蒼から離れたくなかった。それはたぶん、乃蒼も同じだったろうと思う。彼女はずっと僕の腕の中で震えていたから。だから僕は彼女を強く抱きしめたまま離さなかった。


「立夏。私の姿、見えてる?」


 小さな声で、乃蒼が言った。 


「……? 見えているよ。当たり前だろ」

「そっか。良かった」

「変な奴」


 この先のことは考えたくなかった。心の真ん中が、真っ黒な何かで塗りつぶされているのは自覚していたが、乃蒼に気持ちを伝えられたことからくる多幸感に浸って目をそらしていた。今はただ、この手の温もりを放したくなかった。この一瞬だけは、永遠であってほしかった。

 ――それは、とても熱くて長い夜だった。僕たちが体で繋がったのは、これが最初で最後になった。


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