【一ヵ月だけ、うちと付き合うて】

 乃蒼が僕の提案を受け入れて、高三の晩秋からスタートしたこのプロジェクトは、しかし、大学受験を控えている多忙な時期のせいもあって、ほとんど進まなかった。本格始動したのは、むしろ大学に進学してからだ。

 僕が鹿児島の大学を志望したのは、ここが父の母校だったからだが、乃蒼も僕を追いかけるように同じ大学を志望していた。学部は二人とも文学部。たとえ進学先が別々だったとしても、僕はメールでやり取りしながらプロジェクトを継続させるつもりでいたのだが。

 この頃にはもう、彼女に対して抱いている憧憬しょうけい以外の感情にも気づいていたから。

 僕は、このときすでに乃蒼に恋をしていた。

 大学に進学してからも、プロジェクトの進行は亀の歩みだった。乃蒼と一緒にいられる時間を思うように作れなかったのだ。乃蒼の時間が空いているときに電話したりメールしたりするが、お互い忙しいこともあって、週に一、二回会えればいいほうだった。

 それでも、このプロジェクトをやめるわけにはいかなかった。僕には使命感があったし、なによりも乃蒼がやめたいと言わなかったからだ。彼女はいつも「楽しい」と言ってくれていた。図書館で二人で語り合う時間は、何にも代えがたいものだった。

 しかし、プロットが完成していよいよ執筆という段階まできて、このプロジェクトは頓挫してしまう。

 あの日のバス事故によって。


 ――あれから、一年。ずっと止まり続けていた時計の針が、こうして再び動き始める。

 僕と乃蒼は、あの日の続きの時間を紡ぐことになった。


 乃蒼の死によって未完成となった作品のプロットは、今も僕のパソコンの中に残されていた。

 作品のメインテーマは「恋愛」。後半でどんでん返しを入れるために、世界観として並行世界を用いていた。並行世界(パラレルワールド)とは、僕たちがいるこの世界から分岐し、それと並行して存在している別の世界のことを指す。この概念は、SFやファンタジーの作品でよく使われているものだ。作品の設定は、乃蒼のデビュー作である『レター・ガール』のものを一部踏襲していた。

 主人公は大学生の女性。片想いをしていた彼に想いを伝えようとしていた矢先に、交通事故で彼を失ってしまう。彼を失った悲しみから、彼が「もし生きていたら」というイフの世界線を作り出し、そこに迷い込んでしまう。これが作品のあらすじだ。

 こうして見返すと、登場人物も世界の設定も煮詰めが甘い。再構築していかなければならない点が山積だった。


「この彼は、主人公にとってどんな存在なのかな? 恋をしている相手というだけじゃなくて、何かしらの気付きを与えてくれる存在であってほしいよね?」

「そうだなあ。主人公に欠けている何かを埋めてくれる要素があると、彼ともう一度会いたい、一緒にいたいと思うのにも説得力が出るからね。……二人の生い立ちについてもう少し詰めてみようか」

「わかった」


 プロットを睨みながら、乃蒼が本文を書いていく。文章力でなら、僕だって乃蒼に引けを取らないと自負しているが、これは彼女が紡ぐ物語だ。乃蒼が書かなければ意味がない。僕は、彼女が書いた文章を見直して、誤字脱字がないか、物語の整合性が保たれているかをチェックしていく。

 彼女が紡ぐ言葉は、いつだって僕の心を強く揺さぶる。読み手の感情にダイレクトに響くその豊かな表現力は、恋愛をテーマにしたこの作品にとってやはり武器になる。僕には到底書けない文章を見るたびに、ごく自然に頬が緩んだ。


「なあ」

「ん?」

「……ありがとうな」


 僕が言うと、乃蒼は手を止めて僕の顔を見た。


「どうしたの?  なんで急にお礼なんて言うの?」

「なんとなくだよ」

「……変な立夏」


 乃蒼はそれだけ言って、再び視線をパソコンのディスプレイに戻した。これ以上会話を続ける気はないらしい。僕もそれ以上は言及しなかった

 時々、僕が文章の提案をするときもあった。そうしてお互いに意見を出し合うことで、僕も作品の世界に没頭することができたし、何よりも、二人で一つの作品を作り上げているのだ、と実感できることに意義があった。


   *


 僕は誕生日が五月なので、大学の同期の中ではわりと早く二十歳になる。季節はもう八月で、この頃には同期でも多くの者が誕生日を迎えていた。胸を張って酒が飲めるようになると、しばしば友人たちと飲み歩いた。

 八月十六日。大学終わりに朝香に誘われて、駅前の居酒屋に向かうことに。

 この日は、乃蒼のデビュー作が発売された日でもあった。そんなことを思い出しながら、家に電話をかけた。

「ごめん。今日は遅くなる」と乃蒼に伝えると、「気にしないでゆっくりしてきなよ」と言われた。あっけらかんとした口調だった。

 朝香が一緒だから何もないと思っているのか。それとも、僕は異性として意識されていないのか。詮索されないことに拗ねたような感情が顔を覗かせて、子どもみたいだなと辟易しながら電話を切る。

 有り体に言って、僕たちの関係は進展していなかった。

 この日の飲み会の面子は、僕と朝香と、朝香と同じ科にいる男女二名だ。大学に入ってから知り合ったというその男女は、今年の春頃からカップルになったらしい。「おめでとう」と朝香が茶化すと、照れくさそうに二人で顔を見合わせて笑った。

 午後九時くらいに店を出て、その二人とはそこで別れた。

 この時間だとバスはない。朝香と二人で駅を目指して歩いた。

 空には満月がかかっていて、砂金をぶちまけたような星空だった。


「ごめんね。乃蒼怒っとらんかった?」


 だいぶ酔っぱらっているのか、朝香の顔は上気していて赤い。ブラウスの襟首から覗いた首筋も真っ赤だ。アルコールの匂いと一緒に、コロンの甘い香りが漂ってくる。


「大丈夫だよ。あいつは自炊できるし、立場上、居候みたいなもんだからな。強く文句は言えまい」

「そっか。乃蒼は元気にしとー?」

「まあね。特に変わりなく元気にしているよ。気になるんだったらさ、時々顔を見にきてやったらいいのに」


 乃蒼に着替えを持ってきたあの日以降、朝香は何度か乃蒼の様子を見にアパートまで来たが、ここ最近はすっかりご無沙汰だ。前回来たのは、ひと月ほど前だろうか。


「そげなわけにはいかんでしょ。二人の邪魔ばしたっちゃ悪いし」

「いや、邪魔になんかならないだろ。僕と乃蒼は付き合っているわけでもないんだし」


 そもそも、乃蒼がどういった存在なのかは今もわかっていないんだし、とは言わずにおいた。ここに乃蒼はいないとはいえ、それを口にするのは酷な気がした。


「ふーん。じゃあ、まだセックスとかしとらんの?」


 これにはたまらずふき出した。


「……するわけないだろ! 僕たちの関係はただの同居人でしかないんだし」

「立夏はそげな風に思うとーと?」

「そりゃそうだろ。あいつは行くところがないから家にいる。それだけの関係でしかないんだよ」

「ふーん……」


 朝香の声は不満げだ。どうしてそんな声なのか、わからず変な顔をしそうになる。


「そげなところなんだよね」

「何が?」

「でも、乃蒼のことは好いとっちゃろ?」

「……」


 痛い腹を探られたみたいで、黙り込んでしまう。


「黙り込む時点で、否定になっとらんよねえ。好きなんやったらさあ、乃蒼のことちゃんと捕まえとけば良かやなか? おおかた、乃蒼だって立夏のこと好きっちゃん」

「そんなわけ」

「いいや、あるばい。あれだけ露骨なんやけん。そりゃわかるばい。うちだって立夏のこと好きなんやけん」


 誰に言うでもなく、朝香がボソッと呟いた。

「そげなところハッキリしてくれな、こっちも困るんだよね」と。

 朝香に告白をされたのは、今年の春先のことだった。

 乃蒼が死んでから、僕は無気力で怠惰な生活を送っていたのだが、その間傍らにいて支えてくれたのが朝香だった。

 キャンパスを歩いていると、気さくに声をかけてくれる。うつむいていると、話を聞いてくれる。気晴らしになるようにと、時々遊びに誘ってくれる。風邪をひいて寝込んだときは、アパートに来て雑炊を作ってくれたこともあった。ひたむきに献身してくれるその姿に、惹かれたことは事実だ。

「どうして僕がいいの」と訊ねたことがある。今思うと、少し残酷な質問だ。「誠実だし、女の子を大事にしてくれそうだから」と朝香は答えた。

 買い被りだと思う。僕は臆病なだけだ。ずっと過去にとらわれていて、次の一歩を踏み出せないでいる。

 朝香はハッキリ言って可愛い。

 明るくて、積極的で、がさつに見えて案外と気立てが良い。

 栗色のソバージュヘアも、アーモンド型の瞳も、小柄な体格に似合わない大きな胸も、くせのある博多弁もすべてが彼女の魅力だ。

 魅力的であるそのような女の子が、突然「付き合ってほしい」と告白してきたわけだ。

 そりゃあ、胸が高鳴らないはずはなかった。

 それでも、首を縦に振ることはできなかった。

 頭の中に、すぐ乃蒼の顔が浮かんでしまったから。

 そうして振っておきながら、いざ乃蒼が戻ってきたらこの通り煮え切らない態度を続けているのだから、朝香が苛立つ気持ちもわかる。


「ごめん」

「そこで謝りなさんな。うちはずっと立夏の側におるのに、それがいささかもアドバンテージになっとらんようで、わりとショックなんやけん」


 朝香は拗ねたように言った。


「そういうわけじゃないけど」


 前を向いて、僕ははっきりとそう告げた。


「でもさ、どうしようもないんだよ。僕の中で、乃蒼はまだ死んだことになっていないから。あのときも、今はむしろもっと。こんな宙ぶらりんな気持ちで、朝香と付き合うことはできないんだ」

「うん……。それはわかっとーよ。うちも立夏の立場やったら、同じやったかもしれんもん」


 行き交う車のヘッドライトが、朝香の横顔を照らした。色白な輪郭線が浮き彫りになって、前を見据える瞳が綺麗な光を放っていた。


「もしうちと乃蒼の立場が逆やったら、立夏はうちのことを考えてくれたっちゃろうか……なんて」

「やめろよ。そんなこと考えても仕方ない」

「うん、そやね。恋って、苦しかもんやねえ。自分一人でどげんかできるものでもないけん」


 朝香は、ふうっと大きくため息を吐いた。


「でもさ、立夏がそげな風に思い悩んどーのも、うちとしては複雑やけん。好きなら好きってはっきりしてくれんと」

「……」


 何も言えないでいると、朝香は諦めたように静かに首を振った。


「もういいよ。今日のところはこの辺にしとく」

「本当にごめん」

「だから、謝らんでって言いよーやろ……って、ああ、そうや」

「ん、どうした?」


 などと言っている間に駅に着いた。ちょうど電車が着いたのか、駅からたくさんの人が吐き出されてくる。


「お詫び、でもないんだけどしゃ、じゃあ、うちの頼み事ば一つだけ聞いてくれん?」

「一生のお願い、みたいな奴?」

「そげん重う考えんでよかばい」


 朝香は苦笑とも微笑ともつかぬ複雑な笑い方をした。


「一ヵ月だけ、うちと付き合うてくれんかなあ?」

「はあ?」


 意味がわからなくて変な声が出た。僕の戸惑いをかき消すみたいに、鹿児島中央線の汽笛が夜空を切り裂いた。

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