第6章:偶然を装った、二人きりの逃避行
秋も深まった頃、会社の一大イベントである社員旅行が開催された。行き先は、紅葉が美しい箱根の温泉地。ほとんどの社員がお祭り気分で浮かれる中、私と高橋さんは、いつも通り輪から少しだけ外れていた。
宴会では、上司にお酌をして回り、同期のカラオケに手拍子を送る。そういうのは苦手じゃないけど、心の底から楽しめるわけでもない。ちらりと高橋さんの方を見ると、彼もまた、誰と話すでもなく、一人静かにお酒を飲んでいた。その姿が、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
翌日は、昼まで自由時間。ほとんどの社員はグループで観光に出かけていったけど、人付き合いが苦手な私は、そっと一人で旅館を抜け出した。目的は、川沿いにある足湯だ。ここなら、一人でも気兼ねなくのんびりできる。
「ふぅ……気持ちいい……」
温かいお湯に足を浸し、紅葉に染まる山々を眺める。最高の時間だ。
そう思っていたら、隣に、すっと誰かが座る気配がした。
「……偶然ですね、佐藤さん」
聞き覚えのある、低くて落ち着いた声。
横を見ると、そこには当たり前のように、高橋さんが座っていた。私と同じように、スラックスの裾をまくって、足湯に足を入れている。
偶然なわけ、ないでしょ!
心の中で全力でツッコミを入れる。だって、ここは旅館から少し離れた、分かりにくい場所だ。彼がたまたまここに来るなんて、天文学的な確率のはず。
「た、高橋さんも、お散歩ですか?」
「ええ。この辺りに、いいカフェがあると聞いたので」
彼はそう言って、スマホの画面を私に見せた。そこに表示されていたのは、私が少し前の配信で「行ってみたいなー」と雑談で話した、古民家風のカフェのページだった。
やっぱり、偶然じゃない! 確信犯だ!
「あの、もしよかったらですけど」
彼は少し躊躇いがちに、でもまっすぐ私を見て言った。
「一緒に行きませんか?」
断る理由なんて、どこにもなかった。
高橋さんのエスコートは、完璧すぎた。
「ここのアップルパイが、配信で話していたものですよね。頼みましょう」
「この先の吊り橋、景色がいいそうです。高所恐怖症は、大丈夫ですか?」
彼は、私の配信を隅から隅まで見ていることを、隠そうともしなかった。私が何気なく口にした「好き」や「興味がある」を全部覚えていて、それを完璧なプランでなぞっていく。
それは、まるで、私のためのオーダーメイドのデートコースみたいだった。
会社で見る「氷の貴公子」の姿は、そこにはどこにもなかった。
彼は、私の歩くペースに合わせてくれ、私が話す他愛もないことに、穏やかに相槌を打ってくれる。そして、私が面白いことを言うと、ほんの少しだけ、口元を綻ばせて笑うのだ。
その笑顔を見るたびに、私の心臓は、いちいち大きく音を立てた。
恥ずかしい。でも、それ以上に、嬉しい気持ちがどんどん膨らんでいく。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、集合時間が近づいてきた。私たちは旅館への帰り道を、少しだけ距離を開けて歩いていた。名残惜しい。もっと一緒にいたかった。
すると、高橋さんがふと立ち止まった。
私もつられて足を止める。彼は少し照れたように、でも真剣な目で私を見た。
「……楽しかったです」
その言葉に、私も「私もです」と頷く。
彼は、それに小さく微笑んでから、こう続けた。
「ルナ様とじゃなく、佐藤さんと出かけられて」
そう言って、彼は本当に、心の底から嬉しそうに、ふわりと笑った。
それは今まで見たどの表情よりも、優しくて、温かくて。
ドクンッ!
その完璧な笑顔に、私の心臓は、今度こそ張り裂けそうなほど大きく跳ね上がった。
もう、誤魔化せない。
私はこの人のことが、好きなんだ。
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