第3章:共犯関係のはじまりは、温かいお茶の味

「……こちらへ」


 固まったまま動けない私の腕を、高橋さんがそっと掴んだ。その力は意外に強くて、私はなされるがままに立ち上がらされる。彼はそのまま私を連れて、会議室から出て、フロアの隅にある給湯室へと向かった。


 ガチャリ、とドアが閉まる。狭い空間に、二人きり。

 ああ、もうダメだ。ここで、会社をクビになることを宣告されるんだ。「会社の品位を貶めた」とか、そういう理由で。あるいは、軽蔑しきった目で見られて、「気持ち悪い」とか言われるのかもしれない。

 最悪の事態ばかりが頭の中をぐるぐると駆け巡り、私は今にも泣き出しそうだった。


 すると、高橋さんは何も言わずに、給湯室の隅にある自動販売機に向かった。ピッ、ガコン、という音を立てて、出てきたのは一本のペットボトル。彼はそれを、私の目の前に差し出した。

 温かい、緑茶だった。


「……え?」

「どうぞ」


 それは、私が配信で「最近、このお茶にハマってて、飲むとホッとするんだよね」と話したばかりの、まさにそのお茶だった。

 偶然? いや、そんなはずは……。

 私がハッとして顔を上げると、高橋さんは少し気まずそうに視線を逸らした。


「誰にも言いません」


 静かだけど、はっきりとした声だった。

「あなたの活動を、誰かに話したりはしません。だから、安心してください」


 その言葉が、なかなか私の頭に入ってこない。誰にも、言わない?

「……ほ、本当ですか?」

「はい」

「どうして……?」

 私の問いに、彼は一瞬だけ黙り込んだ。そして、意を決したように、まっすぐ私の目を見た。


「むしろ……応援しています。ずっと、前から」


 応援? 応援って、どういう……。

 私の混乱を読み取ったのか、彼は観念したように、小さな声で付け加えた。


「ハンドルネーム、『K』です」


 けー。

 ……K?

 え、うそ、え、えええええ!?


「け、Kさん!?」

「……声が、大きいです」


 思わず叫んでしまった私を、高橋さんが慌てて制する。

 信じられない。目の前にいるこの人が、あのKさん? いつも私を励ましてくれて、支えてくれていた、あの?

 配信開始当初からの古占で、誰よりも私のことを理解してくれていると思っていた、あの紳士的なファンが、この氷の貴公子!?

 ギャップが、ギャップがありすぎる! 脳の処理がまったく追いつかない!


「あ、あの、じゃあ、私の愚痴も……『氷みたいな先輩』って……」

「……聞いてました」

「うわあああ……」


 顔から火が出そうだ。穴があったら入りたい。いや、今すぐ地球の裏側まで逃げたい。本人の前で、なんてことを。


「いえ、気にしてません。事実なので」

「そんなことないです! 私が勝手に言ってただけで……!」

「俺は、あなたの声に、言葉に、何度も救われたんです。だから……あなたの活動を邪魔するようなことは、絶対にしません」


 真剣な声だった。その瞳には、いつもの冷たさではなく、静かな、でも確かな熱がこもっているように見えた。

 私は、差し出された温かいお茶を、両手でぎゅっと握りしめた。じんわりと伝わってくる温かさが、凍り付いていた私の心を少しずつ溶かしていくみたいだった。


「……ありがとうございます」

「いえ」


 少しだけ、沈黙が流れる。

 気まずい。すごく気まずい。これから、会社でどんな顔をして会えばいいんだろう。


「その代わり、と言ってはなんですが」

 不意に、高橋さんが切り出した。

「いくつか、お願いがあります」


 やっぱり! そうだよね、タダで秘密を守ってくれるわけないよね! 一体どんな無理難題を吹っかけられるんだろう……!

 ゴクリと唾を飲み込む私に、彼は少し照れたように視線を逸らしながら、こう続けた。


「まず、配信の裏側……機材とか、どんな風に準備してるのか、見せてもらえませんか」

「……へ?」

「それから、もし新曲が出たら、誰よりも先に俺に聞かせてほしいです」

「……は?」

「あと、グッズ展開についても相談させてほしい。アクリルスタンドとか、実用的なマグカップとかも需要があると思います」

「…………」


 それは、会社の上司としてのお願いなんかじゃなかった。

 ただの、熱心すぎるファンの、純粋なお願いだった。


「それで、お願いなんですが……次の配信でやる新企画、少しだけ相談に乗ってもらえませんか?」


 目をキラキラさせながら(ように見えた)、そう切り出す高橋さん。

 その姿は、いつも私を怖がらせていた「氷の貴公子」からは想像もつかない、ただの、オタクの顔だった。

 こうして、私と氷の貴公子改め熱烈ファンの先輩との、奇妙で秘密だらけの「共犯関係」が、幕を開けたのだった。

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