第1章:氷の貴公子と月の歌姫

「みんな、今日も会いに来てくれてありがとう! ルナはとっても嬉しいな」


 煌めく星空を背景に、銀髪を揺らしながら私は満面の笑みで語りかける。画面の向こうからは、温かいコメントが滝のように流れてくる。


 《ルナ様、こんばんは!》

 《今日も声が可愛い!》

 《歌声聞けるの楽しみにしてた!》


 ここは私の世界。私の居場所。

 現実の私――佐藤葵は、都内の中堅デザイン会社で働く、地味で目立たないしがないOL。けれど、このバーチャルの世界では、私は「ルナ・セレス」。星と月をモチーフにした幻想的な衣装を纏い、優しい歌声でリスナーを癒やす、チャンネル登録者数5万人のVTuberだ。


「それじゃあ、今夜も一曲歌うね。みんなの心が、少しでも軽くなりますように」


 アバターに動きを同期させ、アコースティックギターを構える。優しいメロディを奏で始めると、コメント欄がさらに加速する。みんなが私の歌を待ってくれている。その事実が、自信のない私の心を温かく満たしてくれた。会社では言えない本音も、本当の気持ちも、ここでは素直に話せる。この活動は、私の生きがいそのものだった。


『みんながいるから頑張れるよ!』


 それは、心からの本音だった。


 *


「――で、この資料の意図は何?」


 翌日。シン、と静まり返った会議室で、氷のように冷たい声が私の鼓膜を突き刺した。声の主は、私の正面に座る先輩社員、高橋健人さん。艶のある黒髪に、切れ長の目。彫刻のように整った顔立ちは、社内の女性社員たちの密かな憧れの的だ。けれど、その完璧な容姿以上に有名なのが、彼の徹底した仕事ぶりと、一切の感情を読み取らせないクールすぎる態度だった。


 社内での彼のあだ名は「氷の貴公子」。

 うん、言い得て妙だと思う。私はこの貴公子様が、最高に苦手だった。


「申し訳ありません……。クライアントの要望を、こちらのデザインに反映させようと……」

「反映? 佐藤さん、これはただの改悪だ。先方のブランドイメージを理解しているとは思えない」


 高橋さんの言葉は、鋭利な刃物みたいに私の心を抉ってくる。彼が指さす資料には、私が良かれと思って修正を加えたデザイン案が広がっていた。でも、彼の言う通り、それはクライアントが求めていたものとは、たぶん、全然違う。


 ああ、またやっちゃった。

 昨日、大きなミスをしたばかりだというのに。

 取引先に送るメールの宛名を間違えるという、社会人としてあるまじき失態。それに気づいてくれたのも高橋さんで、彼は無言で私のPC画面を指さしただけだった。言葉で罵られるより、ずっと怖い。その視線は「お前は本当に仕事ができないな」と語っているようだった。


 今日もそうだ。完璧な彼の前では、私の未熟さが際立つばかり。萎縮して、頭が真っ白になって、余計に何も言えなくなる。

 ああ、もう、泣きそう。


「……すみません。すぐに、修正します」

「当然だ。今日の午後イチまで」


 それだけ言うと、高橋さんは席を立ち、颯爽と会議室から出て行った。一人残された私は、机に突っ伏して深いため息をつくしかなかった。どうして私は、こうなんだろう。ルナ・セレスの時のように、堂々と、自分らしく振る舞えたらいいのに。


 その夜。私は逃げ込むように配信を開始した。

「みんな、こんばんはー! ルナだよー!」

 いつものように明るく振る舞うけれど、心の中はずっしりと重いままだった。リスナーとの雑談が、少しだけ私の心を軽くしてくれる。


「そういえばさ、今日、会社で怖い先輩にまた怒られちゃって……」

 つい、愚痴がこぼれてしまった。まずい、とは思ったけど、もう止められない。

「背が高くて、クールで、仕事はできるんだけど、目が笑ってないっていうか……もう、氷みたいに冷たいの。私のこと、絶対嫌ってるんだよね……」


 コメント欄がざわつく。

 《ルナ様にもそんな人がいるのか!》

 《大丈夫?》

 《その先輩、見る目ないな!》


 みんなの優しい言葉に、涙が出そうになる。

「ううん、私が悪いの。仕事できないから……。はぁ、明日も会社行くの憂鬱だなぁ」


 その時、ひときわ目立つコメントが画面に表示された。

 七色に輝く、高額のスーパーチャット。


【K:大丈夫、ルナ様は悪くない。いつも頑張ってるの、俺は知ってるから】


 ハンドルネーム「K」さん。配信を始めた初期からのリスナーで、いつもこうして私を励ましてくれる。彼のコメントは、どんな時も私の心の支えだった。


「Kさん、いつもありがとう……。その言葉だけで、明日も頑張れそうだよ」


 私は画面に向かって精一杯の笑顔を作った。

 もちろん、その優しい「K」さんの正体が、今日私を凍りつかせた「氷の貴公子」その人であることなど、知る由もなかった。

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