第4話 鎌倉別④
鎌倉別は、三浦半島の地質学的な成り立ちから、相模国内で唯一、鉄の原料となる砂鉄を獲得できた地域である。そしてその砂鉄を精錬して鉄製品を生産していた製鉄関連遺構が見つかったのが、神奈川県横浜市の上郷深田遺跡だった。現在、相模国の領域内で確認されている製鉄関連遺跡は、この上郷深田遺跡のみである。
上郷深田遺跡で発見された製鉄遺構について述べる前に、この遺跡そのものについて述べておく必要がある。
上郷深田遺跡は、都市計画道路である舞岡上郷線の整備工事に伴って1986年に発掘された。
調査早々に神奈川県初の製鉄遺構が発見されたことから、専門家や地元住民が遺跡の重要性と調査範囲の拡大を訴えたが、横浜市の市道路局と市教委はこれを棄却し、遺跡の半分は未調査のまま埋め戻された。埋め戻された遺跡の真上に舞岡上郷線が敷設されたため、この領域の再調査はほぼ永久的に不可能となっている。
上郷深田遺跡は、多くの製鉄遺跡がそうであるように斜面に造られており、大きく上段と下段に分かれていた。未調査のまま埋め戻されたのが上段にあたり、調査が行われた下段は東急グループによる開発が予定されていたが、現在計画は中断している。
調査が行われた下段の領域から見つかった遺跡は、遺構の成立した年代から3つの時期に分けることができる。
Ⅰ期640年頃~680年頃には竪穴建物の痕跡のみが、Ⅱ期680年頃~720年頃には製鉄炉と鍛冶の痕跡が、そしてⅢ期720年頃~760年頃には製鉄炉と鍛冶、鋳造の痕跡が見つかっている。
Ⅱ期の遺跡から見つかった箱形炉と呼ばれる製鉄炉は、663年の白村江の戦いの後で大陸や半島からもたらされた新しい製鉄技術である。天智天皇と中臣鎌足が主導して近江大津京から全国に広げたものと云うことができるだろう。
これに対しⅢ期の製鉄炉は竪形炉といい、8世紀中ごろから東日本に多く見られるようになるものである。国の主導の下、蝦夷との戦いに臨む朝廷軍の武器を供給し、また国分寺などの大規模寺院で用いられる鉄器を鋳造するためにこのタイプの製鉄炉が普及したと考えられている。
問題となるのは道路の下に埋め戻された上段の遺跡である。
ここにはⅠ期640年頃~680年頃に稼働していた古墳時代の製鉄炉があった可能性が指摘されている。
もし上郷深田遺跡が大化の改新以前から製鉄所として稼働していたならば、相模国成立以前に鎌倉別が「ワケ」を名にもつ王族の直轄の地域だった理由がそこにあったのではないだろうか。
三浦半島を領域とする鎌倉別が何故特別な地域に成り得たのか。
その歴史の謎を解く鍵は現代人の手によって地中深くに封じ込められたままになっている。
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