第29話 地方行政の整備
公地公民制を実施するためには、王権が派遣する地方官による地方行政の掌握が必要だった。
孝徳天皇紀以降の日本書紀の記述をみると、地方行政の掌握には非常に時間がかかっている。天武・持統天皇の時代に至っても王権の地方官、すなわち国司の配置が済んでいたのは、従前より倭王権に忠実だった地方に限られていたことが読み取れる。
関東地方と東北南部では、孝徳天皇在位中という比較的早い時期に国司の配置が済んでいた。その理由として、北関東を支配していた最も有力な豪族が王族とも強い関連がある毛野氏だったことと、白河の関以北は倭王権の到達が遅く国造制の歴史が浅かったことが挙げられるだろう。
中国地方と四国・九州北部は百済遠征と白村江敗戦を契機とした天智天皇のときに(中大兄皇子称制期間を含む)、中部地方は壬申の乱を契機として、国造から国司への移行が進行したのではないだろうか。
倭王権は従来、その勢力が及んだ地域の豪族を国造に任じて地方を治めさせていた。大化の改新が始まるまでの間に、国造は倭王権の権威を得て地方における権力を増大させ、そしてその強大になりつつあった国造と倭王権との信頼関係は揺らぎ始めていた。
だからこそ国造を廃して国司を置くことが必要だったのだが、独自の権力を持つ各地の国造がすべて素直に応じたわけではない。
最も極端な例が
古代出雲国を治めていた出雲国造は大化の改新による国造廃止に応じず、後に国司が置かれ、国府が築かれても国造を名乗り続けた。現在も出雲国造は千家氏によって継承されている。
出雲程でなくても、程度の差こそあれ各地の国造が簡単には倭王権に応じなかったことは想像に難くない。
大化の改新の詔が出された十数年後の斉明天皇の時、百済遠征のための兵を集めようとしたが集まらず、中大兄皇子が自ら
国司が配置できなければ地方行政の把握はできない。
公地公民制が大化の改新の最重要課題であったのと同時に、公地公民制のために必要な地方行政の整備は、国造制の廃止という一点において最も難航した政策だったと云えるだろう。
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