第25話 圓城寺の伝承
三井寺は、琵琶湖の西岸、滋賀県大津に建つ寺院である。
686年に建立された時は圓城寺という名前だったが、のちに三井寺と改名された。三井寺の名前の由来は、この寺院の境内にある井戸の水が、天智天皇、天武天皇、そして持統天皇という三人の天皇の産湯に使われたからだと云われている。
三井寺のある滋賀県大津には、天智天皇の王宮である近江大津宮が置かれていた。
天智天皇の死後、その皇子である大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が王位継承を争った壬申の乱が起きた。大友皇子は戦いに破れて処刑され、大海人皇子が天武天皇として即位したのが673年のことである。
処刑された大友皇子を弔うために、その子である与多王(大友与多王)が建立したのが圓城寺だと伝わっているが、日本書紀や皇族の系譜に与多王という名の人物は記録されていない。圓城という寺の名も天武天皇が名付けたものだと云う。
圓城寺自体が、その後日本全国に分布することになる大友皇子にまつわる伝承の最も古い一例であると考えることができるだろう。
圓城寺には大友皇子の父である天智天皇にまつわる事物が多く伝わっている。本堂の本尊である弥勒菩薩は秘仏となっているが、これは天智天皇の持仏だったと云う。
そして圓城寺開基と天智天皇の伝説が平安時代後期に成立した「今昔物語集」に納められている。
――天智天皇が霊験を得て長等山の麓に寺院を建てることになった。寺を建てているときに土の中から宝塔が見つかった。天智天皇は自分の右手の薬指を切り落としてこの宝塔に納め、燈籠の下に埋めた。
この伝説が後世に語り継がれていく中で次第に内容が付け加えられるようになり、近代までには次のような伝承になった。
――天智天皇は、かつて自ら蘇我入鹿を弑したことを深く後悔していた。入鹿の霊を慰めるために圓城寺を立て、自分の指を落として土に埋めた。
この伝承の変化には、日本書紀の乙巳の変の記録に後世の人々が覚えた困惑が影響を与えていると考えることができる。
実際に、日本書紀の記述だけを純粋に読み解くならば、乙巳の変に至る蘇我蝦夷の専横は明白に記録されているものの、蘇我入鹿の行状には取り立てて非難すべきものが見当たらない。
古人大兄王を皇太子に立てようとして障害となる山背大兄王を滅ぼしたことも、入鹿の祖父である蘇我馬子と厩戸王、もしくは推古天皇との関係に比することができる。つまり王族への忠誠心があったと読み取ることができるのである。
さらに専横を極めたと明記されている父、蘇我蝦夷の方針に逆らい、入鹿は山背大兄王を滅ぼした。蘇我宗家の当主となった入鹿には、蝦夷とは異なる信条を以て政治を行おうとしていた形跡が少なからずあったのではないだろうか。
日本書紀の乙巳の変の記録には、次のような記述がある。
――中大兄皇子の命で佐伯子麻呂に斬りつけられた蘇我入鹿は「私に何の罪があるのでしょうか。どうぞ調べて下さい」と皇極天皇に懇願した。皇極天皇は入鹿には答えず、中大兄皇子に「なぜこんなことをするのか」と問い質した。
この記述を素直に受け取るならば、中大兄皇子が蘇我入鹿を討ったことは皇極天皇にとって想定外のことだった、と読めるだろう。
皇極天皇にとって想定外ならば、それは古人大兄王や軽皇子にも同じことだったのではないだろうか。
日本書紀の乙巳の変の記述は、年若い中大兄皇子が独断で、明らかな罪状の無い蘇我入鹿を誅した、と解釈できる。この解釈に戸惑いを感じた後世の人々が「天智天皇は蘇我入鹿を討ったことを後悔していた」とする圓城寺の伝承をつくり出したのではないだろうか。
そして、日本書紀編纂者もそう読まれることを避けられないと思ったからこそ、乙巳の変の前に中大兄皇子と中臣鎌足の密談のエピソードを書き加え、二人を共謀者とすることで後に天智天皇となる中大兄皇子への批判を躱す目的があったのではないだろうか。
日本書紀が編纂された時代は、鎌足の息子である藤原不比等が天皇の絶対的な守護者としての藤原氏の存在意義を明確にした時代でもある。そのような時代背景も日本書紀を読むときには必要になるだろう。
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