第11話 推古天皇の即位

 日本書紀によれば崇峻天皇の在位期間は五年間である。


 この間に崇峻天皇は百済に敵対する新羅に使いを送り、任那に倭国の屯倉を置くことについて打診している。使いだけでなく倭王権の軍を筑紫に派遣していることから、武力を以て百済から任那を収奪する意図を明らかにしたものだろう。それは倭国侵略の陰謀があった百済への牽制だった。


 一方で、仏教については百済から経典や僧侶、寺院建設の技術者を受け入れ続けていた。

 また、東山道(北関東)、東海道(南関東)、そして北陸に使者を出し、当時の蝦夷との国境を確認している。これらのことは律令体制への準備の一環であったと考えられる。


 そして崇峻天皇は、大臣でありながら百済と関係の深い蘇我馬子を嫌った。


 崇峻天皇が蘇我馬子討伐の兵を集め始めたことを知ると、蘇我馬子は配下であった東漢駒(東漢値駒)に命じて崇峻天皇を暗殺させた。同時に蘇我馬子は筑紫に駐屯していた倭王権の軍に対して、引き続き半島への警戒を命じている。これは、この政変が倭国内部だけでなく、百済や新羅の思惑によって引き起こされたものであることを示唆している。


 ここで、倭王権に重大な問題が生じた。


 度重なる王族同士の争いと蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺により、王族の中に王位に就くことができる成年男性がいなくなってしまったのである。敏達天皇の竹田皇子と用明天皇の厩戸皇子はともに年若く、王位に就くことができない。敏達天皇のもう一人の皇子である彦人大兄皇子は、度重なる内乱で権力を失い、王権の中央から遠のいていた。


 竹田皇子もしくは厩戸皇子が成人するまで王位を任されたのは、蘇我馬子への信任が厚い炊屋媛であった。王位を継承した炊屋媛は推古天皇となり、蘇我馬子とともに百済との親密な関係を維持しながら、倭王権の律令制への変革を進めていくことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る