第5話 蘇我氏と物部氏の対立
ヤマト王権の半島における拠点でもあった伽耶の滅亡と前後し、ヤマト王権の有力な臣は自らの氏族に連なる男子と百済の女子との婚姻を推し進めた。紀氏、物部氏、巨勢氏がその代表である。倭と百済の両方の血を引いた子孫の多くは百済の宮廷で官人として仕えるようになった。
貿易だけでなく混血を伴う交流によって、ヤマト王権と百済はこれまでよりも親密な関係を急速に固めつつあった。
欽明天皇十三年(538年)、その百済から大陸の新たな思想である仏教が倭国へともたらされた。
ここで注意すべきは、百済王から当時のヤマト王権の大王であった欽明天皇に仏教が伝えられたという点である。僧侶による布教ではなく、統治者間の伝達には政治的な意味が含まれる。
そもそも百済のある朝鮮半島では、中国大陸に接するという地理条件から、3世紀にはすでに後漢の原始的な律令制が支配体制に取り入れられていた。
大陸の律令制は、皇帝という頂点の支配者が存在し、律(きまりごと)と令(罰則)によって臣民を統治する。支配される大勢多数の人々に律と令を理解させるためには支配者と被支配者の間に共通する教義が必要とされる。支配者の行いの善悪は教義によってジャッジされるが、教義の母体となる信仰を選ぶのは支配者である。
大陸の律令制の基盤となる教義には主に仏教や儒教が採用されていた。
すなわち百済王が伝えたのは、ヤマト王権にはない律令制という政治の制度であり、その制度を成り立たせるための基本的なしくみ、俗っぽく言うならば“律令制のスターター・キット”としての仏教であった、と云うことができる。
一方で、それまでのヤマト王権は大王と有力豪族である臣たちによる合議制で政治方針を決めていた。だが各地の豪族が力を蓄えた結果、その合議制が先に述べた継体天皇の時代に大きく揺らぎ、有力な豪族の承認が無ければ王族(皇族)から大王を出せないなど、王族は自身の王権内部の不安定さに直面していた。
百済経由でもたらされた大陸の律令制は、ヤマト王権の大王の権力を絶対的なものにするために極めて有力な手段だったのである。
これまでのヤマト王権の政治体制をまるで変えてしまう恐れのある仏教を王権内部に導入することに強く反発したのが、ヤマト王権に古くから仕え、大きな権力を持っていた物部氏である。
ヤマト王権の支配構造を変えたい王族と、百済の経済力を背景にした新興勢力である蘇我氏、そして古くからの豪族である物部氏。彼らの思惑と反発は、王族をまき込んだ激しい内部抗争を引き起こすことになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます