第3話 蘇我氏の登場

 継体天皇の後、ヤマト王権は支配の及んでいるクニに次々と王権直轄地である屯倉みやけを置き、中央による地方支配を強固なものにしようとした。当時各地のクニを治めていたのはヤマト王権にその土地の統治を任された土着の豪族である国造こくぞう(くにのみやつこ)である。屯倉が置かれたのは国造が治める領地、クニの内部だった。


 その頃の日本書紀の記述には、犬を使役して屯倉を警護する犬養部いぬかいべを置くことを命じたとある。


 五世紀までに国造が治める東日本の土地は現在の福島県南部に達していた。今も名を知られている白河の関は、当時のヤマト王権の東征前線基地であったと考えられている。前方後円墳をヤマト王権の影響力が及んだ土地とするならば、北限は角塚古墳のある岩手県奥州市である。


 白河の関と東北の国造ついては第二章で改めて取り上げる。


 王権が地方支配を強化するとき、王権中央の氏族が自らの部の民を地方に送り込んでいた、もしくは現地に自らの領地を得て住人を部の民にしたと考えることができる。代表的な例に常陸の中臣氏、安房の忌部氏が挙げられる。また物部氏の系統は広範囲におよぶ地域で国造となっていた。


 ヤマト王権が地方支配を強化し王権の基盤を強固なものに作り替えていくその過程で、遅れて王権の中央に登場したのが蘇我氏である。


 蘇我氏はヤマト王権の初期から存在していたであろう物部氏や忌部氏、中臣氏とは異なり、難波を本拠地とした地方豪族だった。しかし渡来人系の技術者を多数取り込み、葛城氏と繋がって王権と血縁を構築していくことで、この時代、氏族から初めて蘇我稲目が大臣(おおまえつきみ)の地位に就くことができた。


 蘇我稲目は蘇我馬子の父、蝦夷の祖父である。


 そして蘇我氏が渡来人系の技術者を部の民として多く抱えることができた背景には、朝鮮半島の政治情勢が大きく関係していた。

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