『EVIL HUNTER』
親川 ぺて
序章・原罪
その大昔、神々の都・オリュンポスが未だ崩壊する前の時代。世界樹に神が宿っていた時代があった。神はその樹と共にあり、世界に恩恵をもたらしていた。
だが、世界樹の加護によって潤う人々の生活は、やがてそれに依存するようになり、欲望にまかせてその恩恵を貪った。結果、世界樹と一体であった最高神は、身を削るようにして力を失い、次第に衰弱していった。
──神はもう、長くはなかった。
そこで神は決断する。自らの力を優れた人間に託し、神の代行者として新たな時代を紡がせようと。
「創造」「終焉」「維持」──三つの役割に分けられた選抜で、それぞれにふさわしい者を選び、元・人間による執政を任せようとしたのだ。
この選抜の旨を宣言したのは、神の代弁者であるデウス・トランプだった。
「世界樹を守りし賢者たちに、“神の権能”を託す」と。
当時、“賢者”とは、世界樹を守護する優れた人間たちの称号だった。
温和で心優しきアーサー、勇敢にして正義を貫くカエサル、陽気で憎めないお調子者ヨシュア。そして、陰気で薄気味悪いサタン。さらには、天のように美しい姫のような存在リリスもまた、その一人だった。
*
選ばれし賢者のひとり、──その名は、リリス。
神々の祝福を受けし存在でありながら、その瞳に宿るのは祈りではなく、燃えるような意志だった。
彼女は知っていた。
神は、この世界をただの舞台としか見ていないことを。
人の苦悩も、賢者の誓いも、神にとっては些細な余興に過ぎないということを。
空が血に染まる黄昏の時。
ハルモニア大聖堂の堂内に、ひと陣の風が吹き抜けた。
色鮮やかなステンドグラスが、夕陽の光を受けて神秘的に輝き、調和の調べを奏でるように空間を満たす。
その光の中、沈黙を纏った影がゆっくりと歩み出る。
それは賢者サタン──彼女にとって、かつての友。
冷たい静けさの中で現れたその姿に、リリスの胸はわずかに揺れた。
「……まだ、この場所にいたのね」
声は静かだった。だが、その奥にあるものは、懐かしさと微かな安堵だった。
サタンは答えなかった。ただ、遠い記憶をたどるようにステンドグラスの見えやしないその向こう側を見つめていた。
「デウスから、お告げがあったわ。選抜が始まる……神はまた、世界を試すつもりよ」
リリスは大聖堂の高い天井へと視線を向ける。
その白銀の髪が、風に揺れるたび、聖堂の色彩豊かな光を受けて天の川のように煌めいた。
「私は加わらない。神の意志に従うことに、意味を見い出せないの」
彼女の声は静かだったが、確かな反逆の意志が込められていた。
賢者でありながら、神に背を向ける覚悟。
「サタン。あなたは選抜に必ず出て。……あなたなら、ただの駒にならずに済むでしょう。」
サタンのまなざしがわずかに揺れた。
その手が、ゆっくりと拳を作る。
「……俺も、選抜の参加を望んではいない。だが、告げを聞いたとき……胸がざわついた。嫌な予感がしたんだ。あれは……神の声じゃない」
低く、震える声。
それは彼が初めて口にした“恐れ”だった。
「だが、…真実なのか定かではない。今や、俺も…もう答えが分からなくなってしまった…何が真実でなにが嘘なのかを…」
リリスは、そっと彼の手を取った。
その大きな手を、壊れ物に触れるように、そっと包み込む。
「なら、一緒に確かめましょう。私たちの意志で、何をすべきかを。この偽りの世界で糸を操るのは誰なのかを…
私たちは舞台の人形じゃないひとりの人間として、ただ黙って従うだけの存在じゃないって」
そのとき、聖堂の奥から雷鳴のような轟きが響いた。おそらく、デウスが新たなお告げを受けたのだ。
遠く、ハルモニア大聖堂の鐘が重く鳴り響く。
何かが動き始めた。それは神の劇場──その幕が、静かに上がろうとしているのだ。
*
リリスとサタンが並んで歩く聖堂の大理石の回廊。
色とりどりのステンドグラスの光が銀のカーテンのようにリリスの髪を揺らし、夕日が彼女の横顔を金色に染めていた。
「……ずっと、こうして歩けたらいいのにね」と、リリスがぽつりとつぶやく。
その言葉に、サタンの胸はかすかに震えた。だが彼は、感情を閉ざしたように答える。
「リリス、…俺たちには時間がない。……すでに水面下では、歯車が誰にも気づかれぬまま回り始めている」
リリスは立ち止まり、彼の方を見つめた。
「…あなたは、まだ信じているのね。人が神に逆らえると…舞台装置を止められるって」
「いや……信じているのは、リリスの方だろう。そういい始めたのはお前じゃないか」
リリスの目が揺れた。長い沈黙の末に、彼女はそっとサタンの胸に顔を埋めた。
「それを信じてるのは…私が、あなたを信じてるから。それに、怖いの。私たちが……神に選ばれてしまうことが」
「そのときは……すべてを敵にまわしてでも、俺が…お前を守る」
その誓いは、神の法をも冒涜するほどに重く、深く、確かだった。
──それが、世界に許されぬ愛の始まりだった。
――鐘が響き渡るハルモニア大聖堂。
運命の選抜は、ついに幕を開けた。
選抜の鐘は冷たく、透き通るような音色で世界を震わせた。
大聖堂の色鮮やかなステンドグラスが、その鐘の響きに共鳴し、光と影の舞踏を織り成す。
そこに集ったは、神に選ばれし賢者たち。アーサー、名高き三名の候補者に加え、数多の英知の輝きが集う。
そしてサタンとリリスも、運命の幕開けを見据えたその場に立っていた。
選抜は、ただ一つの試練――
黄金の盃に注がれし、最高神の血を飲み干すこと。
その一口は、神の力の扉を開く代償。
しかし、誰もがその力を纏えるわけではない。
適応できず、半神の呪縛に囚われる者。
あるいは、永遠の闇に落ちる者もいるという。
*
その夜、選抜の始まりを告げる鐘が遠ざかるころ。
ハルモニア大聖堂の庭園、静寂に包まれた白い月光の下。
銀の噴水が静かに揺れる水音を立て、夜風が白百合の花々をやさしく揺らしていた。
リリスは、サタンと並んでその中央に立っていた。
言葉もなく、ただ寄り添うふたりの間に、どこか穏やかでやさしい沈黙が流れていた。
やがて、サタンが懐から小さな黒い箱を取り出す。
その蓋を静かに開くと、中には白百合の紋章が刻まれた、銀の指輪がひとつ、月の光を受けてそっと輝いた。
「……これは?」
リリスがそっと目を見開く。
サタンは照れたように視線を外しながら、かすかに微笑んだ。
「に……似合うと思って。
俺が彫ったんだ。…不器用なもんだけど、ずっと渡す機会を探してた」
リリスは驚き、そして少し笑った。
けれど、その笑みはどこか寂しげで、胸の奥に灯る痛みを隠していた。
「ふふ……こんな時に贈り物だなんて、まるで、永遠の約束みたいね」
「……あ、ああ」
サタンは、そっと彼女の左手を取り、その薬指に銀の指輪をはめた。
そして、彼の手にも同じ指輪を、リリスが嵌めた。
互いに、指輪を嵌め合ったその瞬間。
時が止まったかのように、夜の庭園が静寂に包まれた。
ふたりの間を結ぶのは、何にも書かれぬ約束。
言葉では語らずとも、心で交わした契り。
「これなら何があったとしても……私の中に、ずっと残るわ。あなたの名前と、このぬくもりが」
リリスは指輪に口づけながら、囁くように言った。
「ありがとう。私を、ただの賢者じゃなく、一人の人間として見てくれて」
サタンもまた、彼女の手を両手で包みながら答えた。
「…お前が“君自身で在り続ける”ことを、願ってるだけだ。たとえ俺の記憶から消える日が来ても……この指輪が、俺の祈りになる。」
月が静かに雲間から顔を出し、ふたりを柔らかく照らしていた。
それは、決して神の脚本には書かれぬ、
世界に知られない──人知れぬ愛の証だった。
*
そして、リリスの選抜の前夜のこと。
オリュンポス宮殿の庭は百合の香りに包まれていた。
オリュンポスの光を浴びて、リリスの宴が華やかに催されていた。
花びらが舞い散るその場に、神の代弁者――デウスもまた姿を現した。
その瞳は深く、宿命を映す鏡のように冷たかった。
彼はリリスへ、静かに告げる。
「リリス――君があの血を飲めば、君は永遠の眠りにつくことになるだろう。」
その言葉は氷の刃のように彼女の胸を切り裂いた。
「どうしてそれがあなたに分かるの」
リリスは怪訝な面持ちで彼を見つめた。ひとつ踵得御引きながら。
「…神からのお告げさ。」
さも当然化かのような言いぶりは嘲笑を含んでいた。
「だが、翌日君は血を飲まなくてもいい。
代わりに、僕の婚約者となってほしいんだ。」
幾年も彼女を見守り、想いを寄せてきた代弁者の口から紡がれた、その切なる願い。威厳を纏う彼の瞳はひどく震えていた。
しかし、リリスの瞳は揺らぐことなく、毅然と答えた。
「ごめんなさい、デウス。私には、あなたに嫁ぐことはできないわ。」
その声は震えていたが、決して揺らがなかった。
「…どうして?」
予想だにしていない反応にデウスは、呟く。
「私には、別に想いを寄せている方がいるのですから。いくら私の命がかかろうとも私は彼を裏切ることはできないの」
宴の華やかさは、突如として凍りついた。
誰もが知る、その“別の想い”――サタンへの秘めた想いが、ぶわりと燃え上がった。
デウスの瞳に、ほんのわずかな闇が宿る。
それは嫉妬か、あるいは何かもっと深い憎悪か。
その夜、月は重く沈み、星はひとつまたひとつと消えていった。
デウスは神の代弁者。誰も知らぬ、この世界の真の劇作家。
この宴は、ただの祝宴ではない。
彼が織り成す、冷酷な策略の一幕。
「リリス、ああ、君はまだ知らないのか――」
その声は囁きではなく、胸の奥底から、甘くも毒に満ちた刃のように刺さる。
誰の耳にも届かぬ、密やかな呪文。
――この世界の脚本を書き、運命を操るのは僕だ。
最高神と称されるあの世界樹は、ただの仮面に過ぎない。あの大木に大いなるエネルギーを宿せども、意思なんてありゃしなのだから。
その仮面の裏で、この僕が密かに、しかし断固として独裁を貫いてきた。
言葉にはせずとも、その思いは重く胸を締めつける。
リリスの抗いの光が、偽りの神座を揺るがし、深く、深く僕の胸をえぐり続ける。
「僕と共に新たな秩序を築こう――
僕らだけの脚本で、誰も見たことのない素晴らしい舞台を創り上げよう。」
その声は宴の喧騒を切り裂く刃のように響き渡り、
彼の視線は鋭くリリスを捕らえた。
瞳に宿るのは、獰猛な獣の炎。
リリスは一瞬、時が止まったかのように沈黙した。
だがその瞳は決して揺るがず、静かに、しかし凛とした決意を込めて言い放つ。
「あなたの言葉は甘美なる毒の旋律。私はその闇に囚われはしない。
私の意志は自由。愛する者のために、あなたの偽りの秩序を断ち切ってみせるわ。」
その言葉に、宴の空気は一瞬にして凍りつき、凶暴な静寂が満ちた。
デウスは歪んだ笑みを浮かべるも、その裏に燃える嫉妬は隠しきれず、まるで暗闇の闘志が奔流のごとくほとばしる。
やがて、その冷笑は薄く膨れ上がり、宴席の華やぎとは裏腹に冷徹な影を伸ばし始める。
「僕は、知っている……」
低く、抑えきれぬ声で呟く。
「サタンはまた堕ちた星に過ぎない。そして、君も。神を欺いてまでも求めた愛。その一瞬にして、君の結末は決定していたのさ。
──明日は君の命日、滑稽な幕開けに、観客もきっと笑うだろうね。」
言い残すと、彼はまるで影のように音もなく宴席を後にする。
百合の甘い香りが漂う宮殿の庭に、彼の冷たい背中だけが静かに溶け込んでいった。
宴の喧騒が遠のいた裏庭の片隅。
リリスは、月光に照らされた静かな小径を駆け抜け、ただひとり、酒杯を傾ける男のもとへと向かった。
彼女の姿を認めたサタンは、驚いたように目を瞬かせ、すぐに頬を緩ませた。
「リリス……どうだ? 落ち着けたか」
その声は優しく、どこか痛みを隠していた。
だが、リリスの目は見逃さなかった――サタンの目の下には、はっきりとした陰が落ちていた。まるで、長い夜を何度も越えてきた者の影のように。
リリスの表情に曇りが差す。言葉を飲み込みそうな顔で、彼女は頬に手を添え、小さく息を吐いた。
「ええ……皆さん、とてもお優しくって。私の成功を、心から喜んでくださった。少し、心が晴れたわ。でも───」
その唇がわずかに震え、すぐに動きを止める。
次の言葉を口にするたびに、光を浴びた顔がまた翳っていく。
「また……彼が現れて…求婚されたの。しかも、明日あの血を飲めば、私は……息を引き取るって――」
言葉を吐くたびに、彼女の肩が小刻みに震え、目元には涙が滲んでいた。
それは嵐の前触れのような顔――心が、崩れそうな時に見せる表情。
サタンの胸に、不安の波が突然、荒れ狂う。
冷たい風にさらされた火が消えぬよう、彼は思わずリリスの小さな身体を抱きしめた。寒さに凍える子どもが毛布にすがるように。
「彼奴の言葉を真に受けるな。ただの戯言だ。……お前の心臓は、決して止まりやしないよ。なんせ、俺がいるから。」
その声音には、どこか切実な温もりが宿っていた。
紅蓮のような瞳に、燃えるような決意と、言葉では届かぬ安堵が浮かんでいる。
そしてその目がふと、彼の隣に置かれた黒革の小さな鞘へと向けられた。
中には、装飾のない一本の矢――狩人のような鋭さだけが宿るそれを、彼は酒とともに常に傍らに置いていた。
何も言わず、何も見せず、ただひとつの可能性に備えて。
それは誓いだった。誰にも知られず、声にも出さず、明日訪れるかもしれない最悪の瞬間に対する――サタンだけの、静かな準備。
リリスは目を伏せた。震えながらも、その腕の中で微かに頷いた。
涙は止まらなかったが、その一滴一滴が、確かな絆を育んでいくようだった
*
──ハルモニア大聖堂にて
その翌日。
ついにリリスの出番が訪れた───。
眩い陽光が差し込む神殿の中心、長く伸びた赤い絨毯。その上を、リリスはゆっくりと歩いていた。
足元は微かに震えていたが、瞳には確かな決意が宿っていた。
ただ一つ、神の祝福を受ける者だけが手にできる“黄金の盃”へと向かって。
それは天から降り注ぐような光に照らされ、まるで聖なる焔のように輝いていた。
誰もが息を呑み、リリスの動向を見守っていた。
彼女が手を伸ばす──迷いを振り払うように、その指先が、盃へと触れようとした、その瞬間。
──空気が裂けた。
鋭い音を残して、銀の矢が天より飛来した。
次の瞬間、黄金の盃は跳ね上がり、内に満ちた「神の血」が天に向かって弾け飛ぶ。
鮮やかな紅が、白い絨毯に一滴、また一滴と降り注いだ。
どよめきが走る。
そして、全ての視線が矢の放たれた方角へと向けられた。
立っていたのは───
狼のような白銀の髪をなびかせ、血を吸ったかのように赤い双眸を持つ男、サタン。
会場が凍りついた。
「何をしやがるッ!」
誰かの叫びと同時に、賢者たちや天上の者たちが騒然とする。
デウスの座のもとから、怒りの声が放たれた。
天より降臨した天使らが、真っ白な翼を大きく広げ、閃光のような速さでサタンに迫る。
だが、彼は逃げなかった。翼を広げ、虚空へと舞い上がろうとしたその刹那──。
その背を、鋭い力が掴む。
翼が無惨に引き裂かれ、サタンの身体は地に叩きつけられた。
血が滲む。その白い羽根に、紅がにじむ。
「……デウス」
サタンは呻くように呟いた。
彼は知っていた。
この世界の運命が、全て“デウス”によって定められていることを。
誰が選ばれ、誰が捨てられるか──その裁きは努力にも願いにも関係がない。
だからこそ、彼は立ち向かった。
愛する者が、神の都合ひとつで命を落とす。そんな未来を、許せるはずがなかった。
「彼は、儀式を故意に妨害した!」
玉座より、デウスの怒声が響き渡る。
「神聖な儀式に泥を塗った罪人だ!──彼奴を、監獄へ追放しろ!」
命令と同時に、天使たちがサタンの両腕を拘束する。
強引に引きずられながらも、彼は静かに振り返り、ただ一人を見つめた。
──リリス。
彼女は呆然と立ち尽くしていた。
盃に触れかけていた手は宙に浮き、震えている。
やがて、ひとすじの涙が頬を伝い、声が震え、叫びへと変わる。
「なんで……なんでそんなことを……!」
その声は怒りとも悲しみともつかない、切実な問いだった。
サタンは、言葉を返さなかった。ただ、その瞳だけが、すべてを語っていた。
――「お前を、選ばれなかった者にはさせない」と。
会場には静寂が戻った。
天井から降る光だけが、静かに盃のもとを照らしていた。
「……儀式は中断だ。」
デウスの声が静かに、しかし断固とした響きを持って会場に響き渡った。誰もがその言葉の重さに息を呑む。
天使たちの護衛により、両手を拘束されたまま引きずられていくサタンのもとへ、デウスはゆっくりと歩み寄った。
玉座の威厳を纏いながらも、その目にはどこか冷たい悲しみが宿っている。
「君の愚行は、許し難いものだ」
デウスは低く、しかし力強く言い放つ。
「だけど……君の覚悟は、少しばかり予想外だったなあ」
目の前の男をじっと見据え、デウスは言葉を続ける。
「この世界の運命は、僕が紡ぐ“脚本”に従う。例外などありはしない」
「お前もリリスも、皆その中だ、永遠にね」
サタンは静かに頭を振った。
「運命が定める未来が、間違っている…」
「俺は、その脚本を破り、愛する者を救うために戦う」
その強い言葉に、デウスの表情が僅かに揺れる。
「……ならば、その選択がもたらす結末を、僕は見届けよう」
デウスの声は静かだが、その奥には複雑な感情が渦巻いていた。
苛立ち、失望、そしてどこか哀惜の念——。
しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと顔を上げ、鋭い視線をサタンに向けた。
「さようなら、サタン。…また会えるといいね」
その言葉はまるで、皮肉と祈りが交錯した呪いのように響いた。
一千年という長きに渡る孤独と絶望の懲役。
それは自由を奪われ、希望を断たれる宣告だった。
サタンはその冷たい宣告に顔を動かさず、ただ赤い瞳だけが揺らめく光を放った。
彼の内なる炎は消えず、燃え盛っていることを示すかのように。
天使たちが再び腕を掴み、強く拘束しなおす。
冷たい石の床へと引きずられる足音が響く。
「君の反逆は許されない。だけど、僕も……同じだ」
デウスは苦しげに呟いた。
「ここまでしてもきっと、君の意志は…消えはしないだろうね」
背を向けるサタンの姿に、デウスの瞳は一瞬だけ、誰にも見せぬ寂しさを映し出した。
そして、扉が閉じられた瞬間、会場には重く沈んだ空気が戻った——。
デウスの冷徹な中断宣言が響き渡ると、会場は凍りついた。誰もが言葉を失い、重苦しい沈黙が支配する。
その中で、顔を曇らせた賢者たちが一人、また一人と席を立ち始めた。互いに視線を交わしながらも、誰も口を開こうとはしない。
重い足取りで、彼らは静かにハルモニア大聖堂の広大な空間から消えていった。
その様子を見つめる者は皆、不穏な空気を肌で感じ取った。
祭壇を囲む石壁からは冷気が這い上がり、聖堂の高い天井を見上げると、薄暗いステンドグラスの影が揺らめいている。
光が遮られ、まるで世界の均衡が今まさに崩れようとしているかのような緊張感が張り詰めていた。
リリスは震える足で、しかしその瞳に炎を灯しながら、デウスの前へ駆け寄った。
声は震え、嗚咽に近い音も混じったが、その言葉は凛とした決意の刃となって空気を切り裂いた。
「サタンを…あの人を、どうか……どうか解放して……!サタンは悪くないの!彼は、私のために……」
その声は、か細くも魂の奥底から絞り出された叫びだった。
誰の胸にも刺さり、冷たい石の壁すら熱く染め上げるようだった。
「もしあの人を、このまま閉じ込めるのなら、私は…私は……」
言葉がつまった。膝が崩れ落ちそうになる。
だが、その身を支えるのは、まぎれもない覚悟だった。
彼女は必死に踏みとどまり、震える膝を地に着けた。
「これ以上、彼を傷つけるなら……神の名を騙るあなたにも、代償を払ってもらう」
その言葉は、凛とした誓いの如く、冷たく、しかし熱く響いた。
デウスの瞳に、一瞬、鋭く複雑な感情が走る。
嫉妬、羨望、そして計り知れぬ苦しみが胸を締めつける。
彼女が自分を愛しながらも、サタンに縋るその姿が、彼の理性を掻き乱した。
「……懲役千年。これがサタンの罪への償いだ」
冷静に、しかし厳かに告げるデウスの声は、冷たい断罪の槌のようだった。
「だが、君が彼の減刑を望むのなら……代わりに払うべきものがある」
リリスは、恐怖と葛藤に揺れる胸を押さえ、しかし強く目を見開き問い返す。
「何よ…」
デウスの声は、哀しみと冷たさが混じり合い、まるで鎖の音のように重く響く。
「君の薬指の赤い糸を僕をのと、結び付けて…。」
その言葉は、硝子細工のように繊細なリリスの心を締めつけた。彼女は、震える唇を噛みしめる。
「…貴方の、を…。」
言葉を見失っていた。彼の減刑か、信頼か──デウスに与えられた天秤はあまりに残酷だった。
リリスはすぐに言い返すことはできなかった。千年、待てば彼は本当に釈放されるかも怪しい。だけど、サタンも自らをも犠牲にして、私を愛し続けてくれている。なら、──私も代価を払うほかはない。彼のためなら。それに、私は彼を信じているから。
「いいわ…その代価、払いましょう。」
その言葉にデウスは恍惚とした表情を浮かべる。
「ああ、やっと、君と結ばれるのか…」
リリスは、顔をしかめ俯いた。残酷さと卑劣さを纏ったこの男に、心が一歩も近づこうとしなかった。
それよりも…。彼女は一息つく。どうしても叶えたい願いがあった。
「お願い……せめて、一度だけでいい……あの人に会わせてください」
長い沈黙。重苦しい時が流れた。
やがてデウスは、静かに頷いた。
「いいだろう…特別だ。」
悲しみと決意が交錯する闇の中で、リリスは新たな運命の扉を開ける覚悟を胸に刻んだ。
*
――オリュンポス宮殿、その奥底に隠された“裏界”。
表の神殿が栄光と祝福を象徴するなら、
その裏に生まれたこの空間は、“神の怒り”そのものだった。
サタンが神に背き、天より堕とされたその瞬間、
大地が裂け、空間が歪み、忌まわしき監獄が生まれた。
誰が作ったわけではない。
誰かが設計したわけでもない。
それは神の怒りと裁きが“自ずから形を成した結果”だった。
この監獄には“始まり”があるが、“終わり”はない。
なぜなら、ここに封じられた者に未来など許されていないのだから。
リリスは進んでいた。
重い石の階段を、ひとつ、またひとつと下りながら、
魂の底から凍てつくような冷気にさらされていた。
壁に刻まれた痕跡は、神の呪詛か、苦悶の叫びか。
歪んだ空間を照らすのは、青白く脈打つ光脈だけ――
それは、神の裁きの痕跡。
まるで神経のように、この空間に罰が流れている。
そして、リリスの目に現れたのは、
巨大な円形の空間。
中心に立つのは、黒く焼け焦げた磔柱。
その柱に打ちつけられるように、
翼を失い、血にまみれた男が、静かに呻いていた。
――サタン。
彼は十字架に磔にされていた。
その身体は傷だらけで、かつて空を裂いた漆黒の翼は見る影もなく引き裂かれ、地に落ちた神のようなその姿は、今や血と鎖にまみれていた。
そして彼の背には――
リリスはその背を見た瞬間、立ち尽くした。
息を飲み、喉が締めつけられる。けれど、彼女の足は後退しなかった。
「その……背中の、それは……何」
彼女の声は震えていた。恐れではない。憤りと、悲しみと、そして、言葉では届かぬ深い感情の、混濁。
サタンは、うっすらと目を開け、皮肉のような笑みを口元に刻んだ。
「見るなよ。お前には……こんなもの、見せたくなかった」
「答えて、サタン。これは、いったい……何をされたの」
「……刻まれたんだ。終わりなき呪いをな」
呻くように、彼は言った。
「これは《輪廻の渦》。ただの懲役だけじゃなかった。俺の命は、終わることを許されない。何度殺されても、焼かれても、魂が肉体を離れようとしても――戻される。苦しみを味わい続けるためだけに、生かされる。不死の呪いだ」
リリスの手がわななき、唇がかすかに引き結ばれた。
「どうして……どうしてそんな、非道な目に……!」
彼女は一歩、彼に近づく。
「……あなたが、あの儀式を壊さなければ、私がすべて受けていたはずなのに!」
その言葉に、サタンの目が鋭く見開かれる。
「――バカなことを言うな」
「私はあなたのために……!」
「俺のために…、お前が消える?神に身を焼かせて? ふざけるな……」
彼の叫びは、鈍く冷たい石壁にぶつかって、こだまする。
「お前を守るために、俺は堕ちた。お前だけは、絶対に……」
リリスは、拳を握りしめたままうつむき、かすかに震えた声で言った。
「……聞いて。わ……私ね、…その後、デウスと契約したの」
彼の表情が一瞬、固まった。
「……何を」
「あなたの刑を……減刑してもらったの。千年から、きっとずっと短くなるわ。」
沈黙が落ちる。
「……何を、代償にした」
サタンの声が低く、張り詰めるように鋭かった。
リリスは俯き、しばしの間、何も言わなかった。しかしやがて、絞り出すように言う。
「――私が、デウスと結ばれること。それが、代償」
言い終えたその瞬間、サタンの鎖が音を立てて軋んだ。
彼は顔を背け、吐き捨てるように言った。
「……お前が……なぜ…」
「私はあの時、神に魂を差し出す覚悟を決めてたわ。でも、あなたは――私に何もさせなかった……!だから、だからね。私もあなたと同じように勝手をした。それだけよ…」
リリスは声を詰まらせる。静かに、ひとすじの涙が頬を伝う。サタンは目を閉じる。鎖が軋み、焼け焦げた空気の中で。
「でも、…私、彼に心までは渡していないわ。私の想いは、あなたのまま。私は、本当ならこれからもずっと貴方の隣にいたいのよ」
リリスは彼の前に立ち、ふんわりと踵を地から離し浮かせて、彼と目の高さを合わせた。声は涙に濡れていた。だが、その想いはひたむきで、痛いほどにまっすぐだった。
「あなたがどれほど堕とされようと、私の中のあなたは変わらない。罪人でも、邪悪でも、呪われた存在でも――私は、あなたを愛してるわ」
彼女がそこまでの決断を下していたこと――その事実が、鋭い刃のように彼の胸を裂いた。
それほどまでに追い詰めていたのか、自分が。
サタンは拳を握り、ぎり、と鎖の音を軋ませる。そして、堪えきれぬほどの悔しさと不甲斐なさに、ゆっくりと頭を垂れた。
重い沈黙が流れる。
時が止まったような闇の中で、彼の呼吸だけがかすかに響く。
そして――
「……すまない、リリス。すまない…」
サタンはしばらく動かなかった。だが、やがて静かに息を吐くようにして、言った。そして再び、口開く。
「……釈放されれば、俺は自由になる…か?」
「ええ……そうかもしれないわ」
「そのとき、俺は必ず、お前のもとに帰る。そして……この腐った神の時代に、終止符を打つ」
「私は、その日まで、生きるわ。絶対よ。あなたを信じて」
「生き延びろ。何があっても。たとえ神が、お前を喰らい尽くそうとしても……お前だけは、呪いに染まるな。」
リリスは彼に顔を寄せた。血に染まった石の上で、ひとときだけ、二人の魂は交わる。
「──俺も愛してる、リリス」
呪いの渦は消えない。だが、愛はそこに在る。
それが、彼らの持つ、最後の祈りだった。
*
リリスは、ひとりで神の代弁者いや偽りの神──デウス・トランプの書斎を訪れた。
白い靄がかった神殿の廊下。彼女の足音だけが虚しく響く。
その歩みは静かで、しかしその眼差しには、かつての“祈り”の面影はなかった。
途中、柱の間から聞こえてきた神官たちの声が耳に触れる。
「──……。完璧な三柱だ」
「これで世界は安泰だな。混沌は去った」
リリスは一瞬だけ立ち止まり、目を伏せる。
誰かの名前が、そこに含まれていなかった。
神殿の奥、神の脚本が記されたという“禁書の間”。
そこにいたのは、黄金の仮面をかぶった男。
彼こそが、神の劇場を演出し続ける者──デウス。
「来たか、リリス」
「ええ。……その前に、一つ、聞かせて」
「何だ?」
リリスは、仮面の奥に視線を向けたまま言う。
「三柱の神に選ばれたのは、誰?」
デウスは一拍だけ黙し、やがて短く答えた。
「アーサー、カエサル、ヨシュア。順当な選定だ」
「……そう。ありがとう」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
“その名前”が呼ばれなかったことを、もう一度、静かに確かめただけだった。
そして、まるでその話題をもう置いてきたかのように──
「貸していただけるかしら、私の脚本を」
「……脚本?」
デウスの声が乾いた笑いを含んだ。
「あなたの手にあるのでしょう。私の運命も、彼の名も、その筆で記されたはずよ」
リリスの声は、どこか遠くで燃え尽きた灯のように、淡く、静かだった。
それでも彼女は、毅然と前を向いて言い放った。
「私と、あなたが結ばれる筋書きにするのでしょう?」
その一言に、デウスの仮面がほんの一瞬だけ揺らぐ。
「違う?」と、リリスは口元に笑みを浮かべる。
「ああ、そういう約束さ。」
「ええ……」
その短い肯定は、諦めにも似ていた。
リリスは一歩、机の前へ進む。
そこに置かれていたのは、彼女の脚本。
神の劇場において、役者である彼女が生きるための“正しい筋書き”。
彼女は手を伸ばし、羊皮紙をめくる。
ページの中ほどに、確かにその名が刻まれていた。
──サタン。
リリスの指先が、その名前の輪郭をなぞる。
「……ここに、あったのね。私の物語の中に。誰よりも深く、誰よりも傍に。」
声が震えていた。だが、涙はまだこぼれない。その声はあまりにも愛おしそうだった。
「彼の名を消さない限り、サタンは救われない……そういう取り決めだったのね、この脚本は最初から」
デウスは答えない。ただ、彼女の背を静かに見つめていた。
「そして私は、彼を救うその代償として、あなたと結ばれる」
そう口にした途端、リリスの胸に鋭い痛みが走った。
でも、それが何の痛みなのか、もう言葉にはできなかった。
「ごめんなさい、サタン。私の中で、あなたは……もう、記憶ではなくなるわ。」
だけど私たちは、きっと巡り合う。あなた、会いに来てくれるって言ってくれたもの。
彼女は、そっと息を吸い込む。
そして、彼の名の行に指を重ねた。
──燃え始める。
まるで紙そのものが拒絶しているかのように、静かに、確かに燃え尽きてゆく。
サタンという名が、物語から消えてゆく。
名前は消えても、残るものがあるはずよ。
この胸の奥に、ぽっかりと空いた穴のような、名もなき……哀しみを。
彼女の目に、一筋の涙が伝った。
「あなたを忘れても、私はきっと……“誰か”を愛していたことを、思い出してしまうわ。
その度に胸が痛むの。理由もなく」
「それは錯覚だ」
デウスが静かに口を開いた。
「君の名が清書されれば、すべては整う。
──君は、私の妻として新たな舞台に立つのだから」
リリスはそっと微笑んだ。
「ええ、あなたと結ばれる。……それが契約。」
でも、それはきっと空っぽの夢ね。
愛のふりをして微笑むたびに、私の魂は泣いてる気がする。
「君は脚本に従えばそれでいい。本音など、舞台の外では聞こえない。」
「でも…神様」
リリスは振り返らずに言った。
「脚本の中で笑うより、誰にも見られず泣くほうが、ずっと人間らしいと思うの。」
──彼女は振り返らなかった。
もう、過去を見ることが許されないから。
ただ前を向いて、記憶の消えた“誰か”の面影を胸に抱きながら、
神の契約へと足を踏み出した。
名もなき祈りを、心の奥底にそっと沈めながら。
*
その夜、神の都の空に流れ星がひとすじ落ちた。
誰もその意味を知らない。
だがそれは、ある名を消された者の魂の揺らぎだった。
──そして、それを愛した者の、最初で最後の祈り。
それはもう、誰にも届かない。
でも、その消えた灯火こそが、
この世界で最も美しい“愛の終焉”だった。
*
そして時は流れ、神々の名は変わった。
三柱は、それぞれ新たな名を持って現世に降臨した。
創造の神は「エース」と。終焉の神は「デュース」と。そして、維持の神は「シュナプスツァーㇽ」と名乗った。
エースは秩序を重んじ、世界の法則を定め。
デュースは虚無を司り、あらゆる終末をその手に握り。
シュナプスツァーㇽは継承を信条とし、命と世界をつなぎ続けた。
三柱の神は、役目に従い、それぞれの道を歩み始めた。
神々の意志と言葉は、創造神エースの使いである預言者マーリンによって数多く記録され、後世に語り継がれていく。
「──ひとり、終焉神は虚無の主として剣を振るい。
──ひとり、維持神は均衡を司り世界を調停し。
──ひとり、創造神はこの世の秩序に枠を与える。」
終焉神デュースは、あらゆる価値や意味、目的や真理すら否定する思想の持ち主であった。
その血から生まれたのは、虚無の使者──帝龍クリムゾン。
彼は人々の伝承において、すべての終わりを告げる「悪の神」として語られている。
終わりなき戦の中で孤独に君臨する、虚無の軍神である。
維持神シュナプスツァーㇽは、その対極にあった。
もっとも人間に近く、もっとも人間を愛した神。
庶民の守護者として、世界の循環・自然の調和・生命の命脈を静かに保ち続けた。
笑顔と安らぎをもたらすその姿は、人々に「陽だまりの神」と呼ばれ、深く敬われた。
創造神エースは、こよなく自然を愛する神であった。
この世界を最初に創り、多くの命を生み出し、それぞれに「使命」という名の役割を授けたのも、他ならぬ彼である。
彼は、山より木々を、海より獣を、風より声を得て、自然そのものから使徒を創造した。
だが、やがてその創造に飽き足らなくなった彼は、最高神の遺した「天使」という存在に着想を得て、ついに己自身の「複製体」の創造に至る。
──それが、ルーカス・クロノスであった。
神に最も近い形を与えられた彼は、やがて「知恵」を得、思考し、問い、迷う存在へと変化する。
そしてその自我は暴走し、一部の使徒たちを率いて創造神に叛旗を翻した。
反逆の業火は神々の都オリュンポスを焼き尽くし、神々の楽園はついに崩壊を迎える。
戦いの末、マイケル・カイロスが率いる聖騎士団によってルーカス・クロノスとその反逆軍を打ち倒し、彼らを太古にサタンが追放された地の底──「監獄ディアボロス」へと封印した。
その後、エースは荒廃した世界の中心に「世界樹の種」を植え、新たな神域「ネオポリス」へと都を遷した。
そこは、神と人間が共存する新たな世界。
人間のみならず、獣も草木も、その地に住まうすべてのものが神の祝福を受ける。
──この世界は、今なお最高神の亡骸の上に築かれている。
だが、まだ誰も気づいていない。
その亡骸の影に、真にして最も忌まわしき「本当の悪」が、沈黙の中で目覚めの刻を待っていることを──。
白鳥が、ゆるやかに羽ばたく。
空は蒼く、ひとしずくの涙のような風が流れる。
百合の花が、静かに揺れる。
その白さは、祈りのようであり、また、不吉の兆しのようでもあった。
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