『嘘つきは、世界を救う。』

稲佐オサム

第一章:雨の記憶

午前七時五十八分。

 玄関のドアを開けたとき、外は思いがけず霧がかかっていた。

 春の朝はこうして気まぐれだ。数分前まで晴れていた空が、急に曇ったり、ぼんやりと光が滲んだりする。


「うわ、やべ」


 僕は慌ててスニーカーを履き、リュックを片肩にかけて走り出す。制服の第二ボタンを留めるのも忘れて、住宅街の細い道を一直線に突っ切った。

 遠くで聞こえるチャイムの音が、まるで追いかけてくる警報のように響く。


 いつものことだ。

 僕――**佐倉晴真(さくら・はるま)**は、高校二年の四月になっても、相変わらずの遅刻ギリギリ常習犯。家を出る時間は毎朝決まって遅いくせに、「走ればなんとかなる」と本気で思ってるあたりが、自分でも救えないと思う。


 けれど、それが「平凡」ってやつなんだろう。

 間に合うか間に合わないか、ぎりぎりの境界線を踏みながら、ただ今日も同じような一日が始まる。


 ――と思っていた。


 


 ***


 


「……セーフ……っ」


 ホームルーム開始三秒前。僕は滑り込みで教室に入り、呼吸を整えようと席に倒れ込んだ。

 何人かのクラスメイトが振り返ってくる。だけど、誰も驚いたりしない。驚かれない程度に、僕は“いつもの”キャラだった。


「晴真、また走ってきたの?」

 隣の席の**安西廉(あんざい・れん)**が、笑いながら小声で話しかけてくる。サッカー部の副キャプテンで、僕の中学からの親友だ。


「走ってきたというより、飛んできた」

「なんでちゃんと起きないの。未来が見えるとか言ってなかった?」

「言ったっけ?」

「昨日の昼に言ってたろ。“明日は朝の霧がすごいから注意”って」

「ああ、あれか」


 僕は曖昧に笑った。


「……本当に霧、出たな。予報、晴れって言ってたのに」

「俺の予報のほうが正確ってことだよ」


 教室内のざわめきがだんだんと収まっていく。担任の先生が入ってきたのだ。

 いつも通りの朝。少し湿った空気と、窓の外の霞んだ光が、ただなんとなく不穏な気配を含んでいるように思えた。


 でも、僕はまだ気づいていなかった。

 この日が、“あの日”と繋がっていることに。


 


 ***


 


 昼休み。

 いつものように、購買のパンを争奪し、屋上のベンチで食べながらくだらない会話をする。

 レンは明日の試合の話をしながら、僕にまた「なんか当ててくれよ」と言ってくる。


「今日のラッキーアイテムは……」

 僕は適当に辺りを見回して、拾うように言った。


「消しゴム、かな」

「なんだそれ、また地味だな」

「地味なのが一番効くんだよ。地味に運命変えるタイプのアイテム」


 冗談めかして言った言葉に、レンは笑いながらパンをかじった。

 僕のこの“占いごっこ”は、クラス内でちょっとしたネタになっている。ほとんど誰も本気にはしていない。

 ただの「嘘つきごっこ」。僕はそう呼んでいる。


 でも、そのとき。


「――ほんとに、当たるんだね」


 ふと、背後から声がした。


 静かで、澄んだ、まっすぐな声だった。

 振り返ると、そこにいたのは、転校生の**天ヶ瀬澪(あまがせ・みお)**だった。


 春の始まりと同時にやってきた、静かな少女。

 腰まで伸びる黒髪に、透き通った瞳。教室ではいつも窓際の席で、ほとんど誰とも話さない。

 でも、僕のことを見ていた。ずっと。


「当たる、って……なにが?」


 僕が聞き返すと、澪は一歩、僕に近づいて言った。


「あなたの“嘘”、全部本当になってる」


 その瞬間、

 背中を、冷たい雨粒が一滴落ちてきたような気がした。


 


 ***


 


 教室に戻る途中。

 僕はどうしても気になって、彼女に声をかけた。


「……さっきのって、冗談だよね?」


 廊下の窓から差し込む光が、彼女の横顔を浮かび上がらせる。

 でも、彼女は冗談のようには笑わなかった。


「冗談みたいに聞こえた? ……そうだよね、普通は」

「だって、ただの“遊び”だし」

「でも、私は知ってる。“それ”が遊びじゃないってこと」

「……なにを言って――」


 彼女は静かに囁いた。


「あなた、昔“未来から来た”って、女の子に言ったことあるでしょ?」


 息が止まった。


 なぜそれを知っている?

 誰にも言ってない。あの嘘は、小学三年生の春、あのとき一度だけ――


「君、まさか……」


 そのとき、どこか遠くで雷の音が鳴った。


 春にしては早すぎる、雷の音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る