10年一緒だった幼馴染が無惨にNTR快楽堕ちして壊れかけた僕に、学校一の天使が「10年間ずっと見てました」と笑ってくれた。

@penosuke

第1話

 雨が降るなんて、聞いていない。

 それでも傘を持ってきていたのが、彼女らしかった。

 同じクラスの白石結衣。幼稚園から高校まで、ずっと一緒の幼馴染。


「……ごめんね」


 その一言で、すべてが終わった。


 彼女の背後にある、大きな桜の木。春の雨に打たれて、花びらがひとひら、濡れながら散っていく。アスファルトに貼りついた。色を失い、暗くくすみ、もう誰にも見向かれない。

 差し出した手を、そっと引っ込めた。

 ポケットに戻すふりをして、指先の震えを隠す。


「……うん。大丈夫。……言ってくれて、ありがとう」


 ちゃんと声が出たことが、不思議だった。

 今までの思い出ごと、胸の奥が、ぐちゃぐちゃに壊れていくのに。

 本当は、ぜんぜん、大丈夫じゃないのに。

 それでも、彼女の表情を曇らせたくなかった。


 それに――これが、自業自得だということだけは、痛いほどわかっていた。

 天気予報を見ていればよかった。

 傘を持ってくればよかった。

 彼女を好きにならなければよかった。

 ……いや。

 もっと早く、この気持ちに、素直になればよかった。

 もっと親密だった時に、勇気を出して、距離を詰めていれば。

 いつからか疎遠になって。

 慌てて告白して。

 ふたりの時間が、静かに終わっていく。


 頭上に差した影が、ゆらりと動いた。

 彼女が差し出してくれていた傘が、移動した。


「……行こ?」

「……うん」


 一つの傘の下、ぎこちない距離を保ったまま歩く。

 肩が触れそうで、絶対に触れない。わずかな間が、永遠のように遠い。

 思い出す。中学の帰り道、急な夕立に降られた日。

 笑いながら駆け寄ってきた結衣が「半分入れてよ」と当然みたいに傘を奪ってきた。

 狭いビニール傘の下、肩がびしょ濡れになっても、ふたりで顔を寄せて笑っていた。

 そのときも、肩は決して触れなかった。

 雨粒が、結衣の頬を伝って落ちていくのを、見ていた。




「おい、結衣」


 ――聞き慣れない声が、現実を割って飛び込んできた。


「お前なんで連絡出ないの?」


 金髪の男子。同じ制服。

 馴れ馴れしくて、どこか耳障りな声。

 彼女の目が、ぱっと輝いた。


「……なんで結衣の隣にいんの、コイツ?」


 その男がこちらを睨んだ。


「ち、違うよ。藤野くんは、幼馴染ってだけだからっ!」


 もう従来の呼び方ですらない、苗字呼び。

 まるで必死に否定しなきゃいけない何かみたいで。

 その瞬間、彼女はぼくの前に出た。


 彼のほうへ、小走りに駆けていく。

 傘が、ぼくの頭から離れていく。


 突然の雨粒が、肌を叩いた。


 ……あっ。




「一番好きなのは、◯◯だからっ!」


 その名前は、聞き取れなかった。

 いや、脳が拒絶したのかもしれない。

 ただ、耳の奥で繰り返すのは、彼女の幸せそうな声だけ。

 雨が、ぼくの髪を、制服を、肌を、冷たく濡らしていく。冷えた足元から、体温が奪われていく。

 まるで罰のように頬を打ちつけた。


「お前、今日の夜、わかってんな?」

「……うん」

「昨日みたいに、がっかりさせんなよ。ゴム、忘れんな? マジで萎えるから」


 彼女が、顔を赤らめ、恥ずかしそうにうなずいていた。

 ――ああ。


 彼女が好きだった。

 ずっと。ずっと、好きだった。


 毎日を一緒に過ごして。

 誕生日も、クリスマスも、塾の帰り道も。

 誰よりも長く隣にいたのに。


 でも。

 知らなかったのは、自分だけだった。

 その“好き”は、もう彼女には届かない。

 




 靴下の中まで濡れて、体の芯が冷えきって。

 手の先も、足の先も、自分のものじゃないみたいだった。

 何もかも、どうでもよかった。


 告白から、きっとまだ一時間も経っていない。

 なのに、今までの人生が全部、灰色に塗りつぶされたみたいだ。

 心も、未来も、ぐちゃぐちゃに壊れて、底なしの泥に沈んで。

 家に帰る気にも、どこかへ行く気にもなれず、ただ茫然と歩いているうちに、いつの間にか慣れ親しんだ校門の前に立っていた。

 空っぽになった身体が、吸い込まれるように校舎の中へ入っていく。

 人のいない昇降口。無音の廊下。

 屋上のドアは、どういうわけか鍵がかかっていなかった。最後の逃げ場みたいに。


 夕立が過ぎたあとの空は、まだ鉛色。

 風は冬のように冷たかった。泣き腫らした目には、それくらいがちょうどいい。

 けれど。

 明日になれば、また同じ教室で、何事もなかったように座る。

 ほんの数メートル先の、女子グループの輪の中で、彼女は朗らかに笑うだろう。

 その笑い声が、もう二度と自分に向けられないことを知りながら。


 一歩、踏み出す。

 足元のコンクリートが、異様に遠く見えた。

 落ちていく自分の姿が、ほんの一瞬、鮮明に想像できるぐらいに。




 そのときだった。

 風の音に紛れて、旋律が聴こえる。

 かすかに。どこかから。

 ……誰かが、歌っている。

 歌詞は何語だろう。少なくとも日本語ではない。

 透き通るような歌声。揺れるようで、まっすぐで。鉛色の空に吸い込まれていく、不思議な声。


 その声だけが、灰色になった世界で唯一、色を持つ。

 あの音のする方へ行かなければ。思考停止した脳が命令する。ふらつく足で、音の源を探す。

 学校を駆け回る。

 廊下。視聴覚室。音楽室。――いない。なら、いったいどこに?

 窓から差す光が傾いていく。

 すべての色が、静かに金と影に染まってゆく。

 たどり着いたのは、誰も立ち入らないような第二校舎。

 その奥にある旧図書室。立ち入り禁止の札が吊り下がる。

 まさか、と思いながら、そっと扉に手をかける。

 軋む蝶番の音。わずかに開いた隙間から、かすかに歌が漏れた。


 そして、見つけた。


 棚に囲まれた薄暗がりの中。

 ほのかな夕光が、彼女の髪にそっと触れる。

 糸を紡いだように細く、淡く輝く銀色の髪――光を受けて、金にも白にも、月明かりの青にも変わっていく。

 古びた書架の隙間に、背の小さな女子生徒が立っていた。

 その背中姿は、現実の輪郭からはみ出したように美しい。


 一歩、踏み出して、扉を閉めた。

 その瞬間、歌声が止んだ。


「……誰?」


 彼女が静かに振り返る。

 さらりと揺れる髪が、光を淡く弾いた。

 彫刻めいた輪郭。艶を含んだ唇。無造作にほどけたリボンと、閉じられていないブレザー。

 ふわりと、甘く澄んだ女の子の香りが、ぼくにまで届いた。


 ぼくが、何か言葉を探す前に。

 黒曜石のような大きな瞳が、こちらを捉えた。

 指先をそっと口元に置いて、“しー”を作る。


「秘密、守れますか?」


 その声音は、息に溶けるほど小さく、それでいて耳の奥に残る、不思議な余韻があった。


「……秘密?」


 戸惑いを隠せずに聞き返すと、彼女は指を下ろす。

 俯きがちに、小さく首を傾けた。


「ええと……、そう。第二校舎って、立ち入り禁止ですから」


 言いながら、棚の影に半歩だけ身を引く。

 細い指先が、棚からはみ出ていた本の背をなぞる。


「この部屋、来たのは偶然ですか?」

「……わかんない。気づいたら……勝手に、足が動いて」

「じゃあ、そういうことにしましょう」


 そして彼女は、書架の奥へ、すっと姿を沈めた。

 音が消えた。

 まるで、この空間そのものが、彼女と一緒に呼吸を止めたように。


「……ごめん。ぼく、去ります。……ごめんなさい」


 言葉をこぼして、踵を返す。

 ドアノブに手をかけたそのとき。


「えへん。おほん。……あの、準備してますから」


 書架の向こうから、不意に届く声。


「座っててくださいね」

「……どうして?」


 見えなくなった彼女に向けて、ぽつりと尋ねる。


「わたし、ちゃんと歌いますから」


 ……座りはしなかった。

 けれど、手にかけたノブは回さず、その場に立ち尽くす。

 夕陽の斜線が、木の床を静かになぞっている。

 そして。

 どこかで時計が、ためらうように針を進める音。

 窓ガラスをわずかに叩く、雨上がりのしずくのはね返り。

 そんな音が、ひとつ、またひとつと遠のいていく。


 ――さっきまで空に溶けていくようだった旋律が、今は、ぼくの内側だけで鳴る。


 残ったのは、澄みきった旋律だけ。

 名も、意味も、国も超えた、まるで“赦し”を形にしたような歌。

 目を閉じる。

 まぶたの裏に、人の姿が浮かぶ。


 現れるのは、結衣。

 快活なショートカット。弾ける笑顔。

 その笑顔は、陽だまりの中で見た向日葵みたいに、いつもまぶしくて、胸の奥をじんとあたためた。

 放課後の校庭。並んで飲んだ紙パックのジュース。

 体育祭の帰り道、ふたりして泥だらけになった靴。

 隣にいることが、永遠に続くと、信じていた。


 なのに、いつからだろう。距離が変わったのは。

 笑い声の端に、言葉にならない空白が混じるようになって。

 触れた指先が、まるで熱を恐れるように、すぐ離れてしまうようになった。

 理由を探しても、答えは見つからないまま。気づけば、その背中は、手の届かない遠くへ。


 目を開ける。


 視界に差し込んだのは、まるで銀糸を編んだような、細やかな編み込みの髪。

 さっきと髪型が違う。夕陽の粒を抱きながら、静かな水面のように、髪飾りめいて揺れている。

 前髪の隙間から覗く瞳は、黒曜石を溶かして流し込んだように、深い。

 真っ白な肌は、降りたての雪のよう。

 長いまつげが頬に影を落とし、わずかに震える唇が、何かを伝えたそうに結ばれている。

 彼女がひとつ息をするだけで、空気が震え、世界までもが静止した気がした。


「……飛び込もうなんて思うくらい、がんばって、耐えたんですね」


 その声は幻じゃない。

 気づけば歌声は途絶え、静けさだけが残っていた。

 視線の先に、彼女がまっすぐこちらを見ていた。


 鎖骨のくぼみも。

 袖からのぞく手首も。

 まるで触れられるのを待っているような、危うい繊細さ。

 それなのに、誰にも触れさせない“距離”を、静かにまとう。

 まるで手の届かない場所にだけ射すような、ひとひらの光。


 月乃つきの まひるさん。


 ぼくだって知っている。

 学校一の天使と噂される、一学年下の後輩のことを。


「……この歌、誰にも聴かせたことないんです」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が、そっと温度を変えた。


「……歌、ありがとう……」


 やっと、それだけを絞り出す。

 ……あれ? どうしてだろう。

 頬に触れる空気が冷たくて、視界が静かに滲んでいく。

 堪えきれず、もうひとすじ、雫が頬を伝った。


 そのとき、ぼやけた視界でもわかった。

 彼女の瞳も揺れていた。

 漆黒の奥で、光がかすかにきらめいたから。


「……ここで見たことも、聞いたことも、ぜんぶ。ふたりだけの秘密にしてくれますか?」

「そんなに、秘密なこと?」


 どうしてこんなにいい歌を、秘密に?

 そう思うより先に、彼女の瞳が答えを告げていた。


「……とびっきりの、秘密です」


 指で目元を拭って、夜の湖のような瞳が、ふっと笑う。

 その微笑みの奥に、ひとしずくの挑発を潜ませて……静かに、一歩。

 また一歩、彼女はぼくへ歩む。

 誰にも触れさせないはずの“距離”が、自らこちらへ侵食する。


 不意に、予期せぬ柔らかさが、ぼくの腹部をかすめた。

 ゆっくりと押し寄せる。沈み込み、形を変え、包み込むように当てられる重たい感触。

 張り詰めたブラウス越しに、移ってくる体温と、ほどけるたわみ。心臓の鼓動が、とく、とくと直接響いてくる。

 息が震えた。恐る恐る吸うと、女の子の甘い香りが、強烈に鼻腔を満たした。


「わたしの鼓動、届きますか。……元気、出ますか?」


 離れなきゃ――頭ではそう思うのに。

 触れてはいけないとわかっているのに、彼女はさらに腰を寄せる。密度が深まり、柔らかさは形を変え、灼けた熱が奥へ沈む。

 びしょ濡れのぼくの滴が、彼女の襟へ落ちても、肩は微動だにしない。

 濡れるのなんてどうでもいいと、背中に回した腕が言っていた。

 唇が、首筋のそばで止まった。


「……止めるなら、今ですよ」


 凛と澄んだ声が、鼓膜の内側に落ちて。

 首の肌を、ふぅっ……と濡らす、熱い吐息。

 こんなに近いのに、決して触れない唇。

 ぼくの喉が、情けない音を立てる。


「聞かせてください。返事」

「……やめないで」


 それだけ言った。言ってしまった。


「それなら。お顔、見せてください」


 視線の先で。

 艶やかな黒い瞳が、合図みたいに細くなる。

 可憐な肩が、呼吸とは別のリズムで揺れる。背の縫い目が斜めに引かれ、金具がかすかに鳴る。

 お腹に押し当てられた重みが、八の字の軌道で伝わる。ぱんぱんに張り詰めた布越しに、肌の熱を塗り込んでくる。


「目、逸らさないで。わたしだけ見てください。……そう、いい子。まだ我慢。次で許します」


 脳の奥で白い火花が散り続ける。

 無理に押し付けているから、ボタンが爆ぜそうなくらい、ブラウスが偏る。

 はだけた襟元に、チェリーピンクの細い線がのぞいた。

 鎖骨に汗が走り、谷の影がひと段、深くなる。


「やさしくしてって顔、してる。……素直で、えらいですよ」


 彼女はぴたりと止まり、息だけを落とす。

 雨上がりの雫みたいに冷たく、芯を焙る熱さで。


 ――結衣。




 喉の奥でほどけた、その一音のあと。

 まなざしがすうっと遠のく。

 体温だけを置いて、彼女は、ぼくからするりと離れた。


「……っ、どうして」


 肌が気色悪く粟立ち、へそのすぐ下で留まる不完全な熱が、脳を焦がす。

 距離を取った立ち姿。

 彼女の前身頃は、ぼくの雨でぐしゃぐしゃだった。

 ブラウスの下に薄桃の曲線が透く。スカートは水の重みで線を失い、雫が踵へ落ちて、上履きが小さく吸う。

 彼女はぼくから視線を逸らさず、唇をきゅっと結ぶ。


「秘密を共有したお礼です。……それだけ」


 声の温度が一段下がる。

 頬の高みに汗が細く光り、白い指先がわずかに震える。濡れたスカートの縁をつまんで、息をひと拍、押しとどめるような彼女。

 まつげの影が深く落ち、瞳の底の火は蓋をされ、こちら側へは零れない。


「では、さよなら。藤野先輩」


 彼女はぼくの脇をすり抜ける。

 扉は鳴らない。世界だけがもう一度、音もなく閉じる。

 舌の奥が乾き、踵が床に縫い付く。息を吸うたび、きつくなる。

 どうして、ぼくの名前を。


 しばらく呆けた。

 辺りを見渡すと、棚の一冊だけ、背がわずかに浮いていた。さっき彼女が撫でた背表紙だ。

 手に取る。谷崎潤一郎の『春琴抄』。布装の背に、金の活字。ページの縁は黄ばんで、角がやわらかい。

 開けば、乾いた紙の匂いが立つ。

 図書カードが、ぱさりと落ちた。しゃがみ込んで、カードを拾い上げる。

 借り主欄のいちばん上に、藤野。

 他の名前はない。ぼくは、この本を借りた覚えがない。

 裏返す。備考欄に、細い字。


 “共犯者さんへ。/視覚を消して”


 もう一度表に返す。貸出印の紫が欠けて、貸出日が“12/35”に見えた。

 カードの角に、浅い半月の爪痕。紙が一度だけ呼吸した証。

 鼻先へ寄せると、ふわり。紙の匂いに混じって、甘い女の子の香りがした。





「なあっ、まひるちゃんって、マジ天使じゃね?」

「わかる。なにあの笑顔……殺しにきてるだろ。昨日の帰りとか、すれ違っただけで一日分の元気出たわ」


 翌日。

 教室のざわめきが、やけに耳に刺さった。

 普段なら気にも留めなかった、彼女の噂。


「ねえねえ、昨日の体育のときさー。結衣、またあの先輩と抜け出してたでしょ?」

「えええ!? やだー、“また”とか言わないでよ」

「どこ行ってたの?」

「んー……秘密。……でも、マット運んでただけ、ってことにしといて?」


 くすくすと、含み笑いが続く。

 男子の噂話とは別の方向から、結衣の声が混じる。

 いつも通り、友達と肩を寄せて、無邪気にじゃれ合っている。

 ――その無邪気さが、昨日あんな態度をとった人間のものとは思えなかった。


「てか結衣、加減覚えなよ。昨日なんて、あの先輩、もう顔に出てたじゃん」

「ちょ、やめてって! ……でも、私、そういうの見るの好きだから」

「うっわ、変態!」


 笑い声が、背中を冷たく撫でていく。

 目を伏せる。

 でも、どうしても聞こえてしまう。


「あとさ、まひるちゃん、制服のリボン。ちょっとだけゆるくしてて……! あれ絶対狙ってるよな……!」

「わかる! 髪もさ、耳のとこだけちょっと出してて……反則だわ」

「耳元で“もっと”って言ったらさ、急に息荒くなって……やばかった」

「は!? 結衣、それ!?」

「強くされると……なんか止められなくなるんだよね、私」


 ――やめてくれ。


 笑い声と噂話が、交互に押し寄せる。

 まひるを語る声。

 結衣が笑う声。

 昨日までの結衣は、もっと違う人間だったはずだ。そう思いたい。

 それとも、ぼくが知らなかっただけで。

 ぼくだって、結衣と同類で。


 指先に力を込めて、机の端を握る。

 足元の床が、揺れているような気がした。

 顔を上げれば、きっと何も変わらない景色がある。

 でも、見られない。

 どちらも、胸の奥を爪で裂かれるみたいに、痛い。


 昨日のあの歌声が、遠い夢みたいに思えた。




 がたっと立ち上がる。

 休憩時間の教室を抜けて、廊下へ。

 階段を二段飛ばし。手すりを掴んで、蹴る。息が乱れる。

 連絡通路のガラスに、昨日の雨の跡。第二学舎が近づく。

 旧図書室の前で足が止まる。ノブは冷たい。掌が汗で滑った。

 押し開ける。紙と埃の匂いが、ひやりと頬を撫でる。


 ……誰もいない。

 棚と棚のあいだに、影が沈んでいるだけだ。

 窓の桟が床に長い縞を落とす。

 室内の灯りはついていた。昨日ぼくが去ったときのまま。


 指先が、勝手にスイッチを探る。

 ぱちん。

 色が一枚はがれる。灯りが消え、音だけが残った。

 遠い換気の唸り、反響する自分の足音、椅子の足の擦れる音。

 腰を下ろして、手のひらで顔を覆う。

 耳を澄ます。何も起きない静けさが、かえって音になる。

 手のひらの暗さに目を閉じる。視覚を、消す。


 来ないのかもしれない。

 それでも、踵は床に縫い付いたまま動かない。

 甘い匂いが、たしかにここに残っているからだ。昨日の、現実のまま。


 ぼくは、ひとりでうずくまり、待った。

 彼女の息を。彼女の歌声を。

 ぼくの内側に響く、ただひとつの音を。





 闇の中で、時間だけが増えて、鼓動が数を刻む。

 遠くでチャイムが二度。その後、校内放送が響く。それでも、ただ待つ。


 そのとき、空気が一度だけ入れ替わった。

 扉の金具は鳴らない。風の向きだけが変わる。

 気配は音の向こうからやってくる。埃が微かに立ち、空間が呼吸を覚える。

 冷たい髪の先が、頬に触れた。


「――返事はいりません」


 耳のすぐそばで、息が吹かれた。

 熱くて、濡れて、蜂蜜みたいに重い。首筋の産毛が、いっせいに逆立つ。

 ぼくは顔を上げようとする。けれど、二本の指が、そっと瞼に触れて止めた。


「視覚は、消したまま。……いい子」


 囁きが鼓膜の裏側へ落ち、膝の力が抜ける。

 指先の熱が、瞼から離れて、ぼくの手首へ降りる。

 押す、離す。押す、離す――暗闇の中、めまいを呼ぶほどの脈が、その指に拾われる。


「……速い。肌、あっついです。ずっと待っていてくれたんですか?」


 闇は深まり、血の音だけが太くなる。

 すくい上げられる鼓動。胸の内壁をどくどくと打つ。まるで逆流するみたいに。

 前側にあった気配は、背後へ移る。


「背中、貸ります。いいですね」


 命令なのに、やさしさを帯びた声が、後ろから聴こえる。

 そして重さが降りた。


「……わたしの“どきどき”、感じますか」


 肩口から背中へ、背負いきれないほどの柔らかさが、ゆっくりとかかる。

 たぷん、と深い弧を描いて沈む感触。

 両の重みが肩甲骨ごと飲み込み、脊のきわまで温圧が満ちる。

 昨日と同じ、強烈な甘い香りが、体温の層ごと、ぼくを包んだ。


「いいんですよ。先輩は、特別ですから……。こんな風に、女の子のこと、触れたり、めちゃくちゃにしても」


 息がほどけて、うなじへ落ちる。

 耳元で、かすかな衣擦れの音がする。

 圧迫と、汗ばんだ熱が、布を挟んでいてもはっきりと、肌の感覚を侵食してくる。

 罪悪感と渇望が、脈打つたびに絡み合い、全身を締め上げた。

 結衣が、かすめる。


「……別の女の子のこと、考えてます?」


 吐息混じりの低い囁きが、耳の奥を貫く。


「もう、誰を思っても構いません。……わたしが、受け止めますから」


 彼女は小さく息を吐き、溜めた蜜みたいな柔らかさを、もっと押しつける。

 やがて、円を描くように動き始めた。

 見えなくてもわかる。重たい胸が、ぼくの呼吸に合わせて、ゆっくり形を変える。

 肩から腰へ落ちる。斜面のぜんぶで、脊の線をまたいで、とろとろに擦れる。

 布地が擦れて、すり、すりと小さく鳴る。


「ほら……、先輩……。好きな人の顔、ちゃんと浮かべて……」


 背筋を痺れさせるほど、背徳の蜜を含んだ、聖母のように優しい声。

 ――結衣。

 思い浮かべた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 もう他の男の隣にいる。

 つい昨日、置き去りにされた瞬間。肌を叩いた雨の冷たさと、遠ざかっていく気配が、鮮明に残っている。

 触れられるはずもないのに、今、結衣が密着している錯覚。

 罪だとわかっている。裏切りだとわかっている。

 それでも体温と香りが、結衣の面影を形づくっていく。


「うん、上手……。あなたのことが大好きな“想い人”の、心音、聴こえますか……」


 肩甲骨を離れた重みが、二の腕へとろんと滑り、肘の陰でひと息たまってから、腕の輪をくぐって、前へ。


「ぜんぶ、わたしに委ねて」


 胸元をかすめ、座ったぼくの腹の前で、とぷんと沈む。

 ゆっくりと回し当てられる。


「痛みも、悔しさも……ぜんぶ」


 弾んでは、沈み、また擦れるたび、空気に粘った音が混ざった。

 柔らかなかたちが、ぼくの形に倣い、ぬるい熱が内側へ染みていく。


「……結衣……っ」

「……はい、“ユイ”ですよ……。わたしに委ねられて……、えらい子。いい子ですね……」


 ふぅぅ、と。

 濡れた呼気が、ぼくの鎖骨に貼りつく。

 女の子の甘すぎる香りと、爆ぜる鼓動と、湿った摩擦音。 

 その全部が、もう戻らないはずの温もりを、いやらしく蘇らせていく。

 ぼくの中で、“影”と“実体”が入れ替わる。


「わたしを、その人だと思って。……あふれる前に、預けて」


 背に交差する腕が、キスみたいに締まって、呼吸と脈がぴたりと重なる。


「あふれるまで、はき出してください」


 肘が背に掛かって、逃げ道を塞ぐ。


「――今、許します」


 罪悪感ごとつまみ上げられた心臓が、その声で、降ろされた。 

 その瞬間。

 堪えていた感情の堰が、決壊した。

 熱い雫が、次から次へと込み上げてくる。声にならない嗚咽が、喉の奥で何度もつかえた。罪悪感も、悔しさも、惨めさも、すべてが溢れ出す。

 涙、と、しても。


「……うん、うん。……いい子」


 前からの温もりが、震えをすべて受け止めてくれる。

 一分か、二分か、それとも、もっとか。

 指先がそっと、まぶたに降りた。さっきは、視覚を消す合図。

 目を開ける。ぼやけた視界の先。


 彼女のブラウスが、ぼくの液体で、ぐしゃぐしゃに汚されたのに、それに構わずに。

 明かりの消えた薄暗がりの中、彼女はぼくの頬を、目尻を、白い指先でそっと拭った。

 黒曜石の瞳が、上目遣いにぼくを捉えた。


「……すっきりしましたか?」


 唇の端を、微かに上げて。


「もっと……甘えてくれても、よかったのに」





 ぼくらはどのくらい、抱き締め合っていただろうか。

 ふと、ぼくの手をぎゅっと握る、彼女。

 握った手を、自らの喉もとへ連れていき、そっと当てた。

 皮膚の下で小さな震えが芽吹く。

 長く息を吸う音。母音が一粒、指先の下でふくらみ――次の瞬間、音になった。


 歌が始まった。

 声は、音よりも先に空気の密度を変え、旧図書室の埃まで微細に震わせる。

 息継ぎのたび、薄い甘さが頬を撫で、拍がぼくの胸の内側から返事をした。

 こんな顔をして歌うんだ。

 前髪の隙間から落ちる、ごく薄い昼の光を、長いまつげが受けて、影ごと微笑む。口角が上がり、えくぼが小さく生まれては、消えた。

 昨日とは違う旋律。意味のわからない言語。低い音が床を滑り、高い音が窓枠の影で光る。

 また目を閉じる。

 視覚が消えても、旋律が輪郭になって、彼女を描き出す。

 こんなにも近くで聴く声は、もはや音楽ではなく、熱と甘さを伴う囁き、そのものだった。


 呼吸のたび、歌うたび、頬に吐息がかかる。

 熱を帯びた響きが、直接、胸腔の奥に落ちていく。

 耳から、喉から、血の中へと溶けて、全身が内側から侵されていく感覚。


 終止の一小節前、わずかに弛む息。

 世界が一拍だけ止まり、再び流れ出す。

 また、まぶたに、指先の熱。

 目を開けた。

 彼女は、真っ直ぐにぼくを見る。

 黒曜石の瞳の奥に、旧図書室にはびこる、微かな真昼の光が点っていた。


「もっと、自分を誇ってください、先輩」


 彼女が、さらに接近して。

 耳元で、濡れた息遣いが聴こえた。


「ほかの誰にも、こんなに近づいたこと、ないですから」


 低く沈む声が、熱い湿り気と一緒に、鼓膜へ入り込んで……脊髄のあたりに震えが突き抜ける。

 その囁きに逆らえず、振り向く。

 ぷっくり膨らんだ、桃蜜色の唇が、ぼくの眼に触れそうなほど近かった。


「十年間、ずっと見ていました」


 荒い呼吸に合わせて、微かに上下する、胸元の圧迫。


「ずっと祈ってました。先輩がいつか、本当に救われる日が来るようにって。……先輩が、あの人の隣で無理して笑うたびに、わたしの心も、ずっと泣いてました」


 逃げ場を失った視界の端で、銀の髪がゆるく揺れた。


「……きみは、いったい」


 何者なの? その問いを、言葉にする前に。


「でも、今日で終わりです」


 を見た瞬間。

 結衣の笑顔が遠く、かすれて。

 代わりに、目の前の彼女の吐息が、鮮やかになった。


「これで、わたしたち。共犯ですね、藤野先輩」


 秘密を共有した者だけが知る、表情。

 可憐なはずのその顔が、汗ばんだ額と、潤んだ瞳と、上気した頬で、ぐちゃぐちゃの、とろとろになっていた。


 ぼくの、目の前で。

 柔らかな唇が、そっと形を変えた。








(あとがき)

最後までお読みくださり、本当にありがとうございます。

少しでも刺さった箇所がございましたら。

この物語の“共犯者”になってくださる方は、ぜひ「★で称える」から、その証を残していってくださると、何より幸いです。

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