第28話 子ぎつねランの、初めての家出 1


 ことりが、小守寮に入った日、子ぎつねランは、家出した。


 天代と手天は、双方、由緒正しい化け狐の一族だ。 

 天代は、西の山に、手天は、東の山で暮らしている。

 行き来は頻繁で、仲も大変良い。奉公屋とも深く繋がっている。


 天代の次女、天代 らんの毛並みは、雪のように真っ白で、尻尾と耳が銀色だった。

 まだ子ぎつねだが、下界に棲むどの化け狐よりも美しい。

 笑うとエクボができて、表情も愛くるしい。一族の人気者である。


 手天の嫡男カティ(正式名は、手天 華帝かてい)も、ゾッコンなのだ。

 しかし、ランの嫁入りが決まった。

 その相手が、大妖怪の息子のことりだった。


「わたし、いやだよ。結婚なんて、絶対にいや!ことりお兄ちゃんは、お兄ちゃんだもん!」


 長女の小菊も渋った。


「お母さま、私も反対です。ランは、お屋敷から一歩も外に出たことのない、世間知らずの本物の箱入り狐ぎつねです。それに、まだ十歳です。私と三つしか違いません。ことりさんも、十一歳です。こんな馬鹿げた結納話は、ありませんよ」


 いくら二匹が嘆いても、まことに無情だった。


大化阿おおばあ様の命ですよ」


 この一言で片付けられた。

 下界の化け狐たちを束ねるおさ、大化阿様の命は絶対である。

 そこで、ランは、家出を決意したのだ。


「何があっても、絶対に帰らない。結婚なんてしたくない!」


 ランは、日が昇る前に、こっそり屋敷を抜け出した。

 逃げ込む先は、隠居した嵐山らんざんさまの棲む大蛇おろち山だ。

 薄暗い山道を下くだり、松林を駆け抜けて、町を目指した。

 ランは、二度、三度つまづいたが、心を躍らせて走った。

 わくわくと、ドキドキが止まらない。

 人間の姿で走るのも、初めてだった。

 息が弾んで苦しかったが、外の世界に飛び込むスリルを味わった。 


 「うわああ、人間の匂いが充満してる」


 ランは、生まれて初めて、町の空気を吸った。

 日の出前の町は静かで、人気も少ないが、それでもランは驚いた。


「色んなおうちがある」


 ランは、あっちこっちに目がいって、高層ビルを見て驚いた。


「うわああ、高いおうち!階段は、どのくらいあるのかな」


 パチンコ店の前を通ると、ランは、顔をしかめて耳をふさいだ。


「やかましいおうち!近所迷惑!」


 ガラス張りの喫茶店の前を通る時は、ちらっと横目で自分の姿を確認して、満足げに微笑んだ。


「ふふん、ばっちり」 


 一年前、ランは、小菊の部屋へそろりと忍び込んで、小学生向けファッション雑誌を開いたのだ。

 表紙は、赤とピンクの花模様で縁取られ、赤い髪を三つ編みにした女の子が、ピンクと青い小さなリボンを頭に付けて、白い歯を見せて笑っていた。


 それを捲ると、お団子頭の女の子が、笑顔で立っていた。

 服は、身頃とスカートが一続きになっていた。

 そして、袖口の白いレースが、ランの目を引いたのだ。

 自分の毛と同じで、ふわふわに見えた。

 実際に、ふわっと膨らんでいた。

 裾も波うつようで、布地は上品な水色だった。


「かわいい」


 ランは、そのワンピースに釘付けになって、他のページは見ずに閉じた。


(いつか着てみたい。髪の毛は尻尾と同じ銀色で、短い方がいいけど。変化の練習してみようかな)


 その夢が、今日遂に叶ったのだ。

 スキップしたいのを、ぐっと我慢して歩いた。

 誰がどう見ても、人間の女の子だ。

 初めて地下鉄に乗ったが、幸先は悪かった。

 そもそも、向かう先は、反対方向なのだ。


「一番出口から出れば、後は、ここの通りを下がっていくだけだから。迷わずにすむよ」


 背の高い駅員さんは、きりっとした顔つきで、身なりもピシッとしていて、いかにも賢そうに見えた。

 親切で、地図まで引っ張りだして教えてくれたが、正しい出口は、三番出口だった。


「人を見掛けで判断してはいけません。酷い目に遭いますよ」


 母さん狐の教えは本当だったと、ランは心底、後悔した。

 もう一人の太っちょの、年をとった駅員さんに教えて貰えば良かったのだ。

 ランが、一番出口から出て数十メートル歩いた先に、赤信号が待っていた。


 地下へ入る前、ランは道を渡る人たちを、ちゃんと観察した。

 人間たちは、なぜか立ち止まって、何かを待っていたのだ。


 「どうして止まるの?……あ、分かった!皆、青を待ってる!」


 青色の光を確認してから渡っている事に気が付いたのだ。

 それが「信号機」だと知らないので、ランの中では、「赤い光と青い光」という認識になった。


「赤は、渡っちゃダメ。でも、いつ青になるの?」


 いつまで経っても、赤なのだ。

 ランが、ふと左を向くと、赤い押しボタンが、電柱に付いていた。


「もしかして、これを押すのかな」


 ランは、気付いてなかったが、押しボタンは壊れていた。


「どうしよう。やっぱり青にならない」


 気付かぬ間に日は昇って、無風だった。

 むしむし、じめじめする暑さが始まりかけていた。


 ランの持ち物は、小さな赤い手さげカバンだけで、水筒は入れ忘れ、お弁当も持たず、着替えも持参していない。

 喉が渇いて、お腹も減ってきた。

 食べ物といえば、手天の嫡男カティから貰った、手天の特殊な製法で固めた飴玉が四つと、天代の特製チョコレートが三つだけだ。


 ランは、一歩下がって、きょろきょろ見渡したが、誰も通らない。

 人の道は、どうしてこうも複雑なのだろうと、ランが、肩を落している間に、青に変わっていた。


「あっ!渡らなきゃ!」


 横断歩道は長いのだ。

 ランが、慌てて飛び出した瞬間、ぶわわっと風が鳴いて、シャーアアというタイヤの滑る音が、すぐ近くで聞こえた。

 赤い車が突っ込んできたのだ。気付いた時には遅かった。


「わっあっ!」 


 ランは、ぱっと狐に戻って難を逃れたが、運悪く車の上に着地してしまった。

 それも、運転席の真上だ。


「絶対に、人間の頭上に乗ってはいけません。あなたは、『過去に通じる能力』を持っているのですから。帽子の上でもいけません、屋根の上でもいけません。傘の上でもダメです。下手を打てば、こちらへ戻れなくなりますよ」


 母さん狐の言い付けを、この時ばかりは護れなかった。

 子ぎつねランの、とんでもない一日は、こうして始まったのだ。


















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