鉄馬の約束

山猫家店主

ハーレーダビッドソン


ガレージの奥、埃にまみれたアイアンスポーツが眠っていた。


1975年式のハーレーダビッドソンXLH1000──鉄の塊のようなフレームに、黒光りするVツインエンジン。


もう30年以上、動かしていない。キーもない。クラッチは抜け、タンクは錆び、チェーンは固まっていた。


杉村は椅子に腰を下ろし、黙ってそれを見つめた。


もうすぐ定年を迎える。妻は先に逝き、子どもも独立して家にはいない。


静かすぎる午後。雨の匂いのする風が、ガレージの隙間から入り込んでくる。


ふと、あの声が蘇る。


「いつかさ、あいつで北海道まで行こうぜ」


あいつ──親友の恭介。


高校時代からの腐れ縁で、バイクバカだった。


アイアンを共同で手に入れて、週末は整備、休みにはツーリングに明け暮れた。


なのに、約束の旅を目前にして、恭介は事故でこの世を去った。


タンデムで走った最後の山道が、永遠の別れになった。


その日以来、杉村はバイクを倉庫に仕舞い込み、そのまま仕事と家庭に飲まれた。


時折、埃を払うことはあっても、エンジンをかけることはなかった。


触れれば、過去の痛みまで動き出しそうで怖かったのだ。


──だけど、今なら。


誰もいない今だからこそ、もう走ってもいい気がした。守るものもなくなり、還暦を前に、ようやく心に余白ができたのかもしれない。


翌日から、杉村は工具を手にした。


だがもうすでにパーツはほとんど手に入らない。ネットで探しても海外頼みのものも多く、届くのに何週間もかかった。


キャブは固着していたし、タンクはもう溶接しないと使えない。けれど、手を動かせば、恭介と過ごしたあの夏の日々が鮮やかに蘇った。


「プラグが死んでんじゃねえか!」


「お前がかけたガソリン腐ってるんだろ!」


 ──笑いながら、口喧嘩していたあの声が、耳の奥でまだ生きていた。


 三ヶ月後。


梅雨の晴れ間に、ついにエンジンが目を覚ました。

「ドルンッ」という爆発音が響いた。


排気管から白煙が上がり、エンジンが三拍子の鼓動を刻みはじめる。

ガレージが微かに揺れたように感じた。


杉村はヘルメットを取り出した。


恭介が最後に使っていた、赤い半キャップだ。表面は少し剥げていたが、しっかりと風を受けられるよう、磨いておいた。

それをタンデムシートに括りつける。


「……行くぞ」


東名を北上し、新潟からフェリーで小樽へ。


エンジンは絶好調とは言いがたい。振動はきついし、すぐオーバーヒート気味になる。でも、走るたびに機械と会話しているような感覚があった。


道中、道の駅やライダーハウスで「そのバイク、すげえな」と声をかけられる。


皆に「息してるね」と言われるたびに、杉村は「こいつはまだ生きてるんだ」と思った。


時折、後ろのシートがふっと沈んだような気がした。


振り返っても、誰もいない。けれど杉村は、「ああ、乗ってんだな」と思った。


昔みたいに、勝手にジュース飲んでゲップしてるかもしれない。そう思うと、笑えて、少しだけ目が潤んだ。


やがて宗谷岬にたどり着いた。


水平線の向こうに、かすかにサハリンが見える。


風は強く冷たい。


エンジンを止めると、鼓動が急に遠くなる。


杉村はタンデムシートから、赤い半キャップを外す。


それをベンチの上に、そっと置いた。


「やっと来れたな……遅くなって、すまん」


風が唸り、バイクのサイドスタンドが軋む。けれど不思議と、寂しさはなかった。


ただ、長い約束をようやく果たせた安堵だけが胸にあった。


杉村はゆっくり腰を下ろし、隣の空席に目をやる。


そこに誰かが座っているような気がして、声に出さず呟いた。


 ──なあ恭介、まだ走れるよな。もう少しだけ、風になってみないか。


                         了



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鉄馬の約束 山猫家店主 @YAMANEKOYA

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