第一章:鉄壁のサイレント・ルーム

 最初の現場は都内の古い木造アパートの一室だった。


 警察の現場検証が終わったばかりだという。ドアを開けた瞬間、私の鼻を強烈な嗅いだことのないどことなく甘い腐敗した匂いが襲った。私は貸与された防護服に身を包んでいることも忘れ、思わず口元をハンカチで覆おうとした。


「……これが死臭ですか」


「ええ。慣れるまではきついかもしれません。無理はしないでください」


 静真は顔色一つ変えず淡々と告げた。


「この匂いの正体は主に腐敗アミンという化学物質です。プトレシンやカダベリンという成分が特に強烈で、一度嗅いだら忘れられない独特の異様な甘い匂いがします」


 彼の説明は医学的で冷静だった。

 まるで解剖学の教授のように淡々と事実を述べる。


 部屋の中は「惨状」という言葉が生ぬるいほどだった。


 孤独死した五十代の男性の部屋。発見が一ヶ月遅れたらしい。床の一部には黒い人型の染みがこびりついている。そこから無数の羽虫が飛び交っていた。部屋はコンビニの弁当の容器や酒の空き瓶といったゴミで埋め尽くされている。


 これが人間の死。

 これが現実。


 私は吐き気をこらえながらカメラのシャッターを切った。記事の導入に使う最高の「画」だ。


 静真はそんな私のことなど気にも留めず、防護服とゴーグル、分厚い手袋に身を包むと黙々と作業を開始した。


「まずは室内の状況を記録します。警察の現場検証は終わっていますが、清掃前の状態を写真に残すのが我々の仕事の第一歩です」


 彼は業務用のカメラで室内を丁寧に撮影していく。その姿は犯罪現場を記録する鑑識官のように見えた。


「次に害虫駆除です。ウジやハエが大量発生していますから、まずこれを処理しなければ作業ができません」


 静真は殺虫剤を散布しながら説明を続ける。


「使用するのは業務用のピレスロイド系殺虫剤。一般家庭用とは濃度が全く違います。人体にも有害なので防護服が必須なんです」


 その姿はまるで汚染された危険地帯に足を踏み入れる科学者のようでもあり、あるいはこれから神聖な儀式を執り行う神父のようでもあった。


 私は取材と称して彼の心の壁を崩しにかかった。


「静真くんって彼女いるの? こんな仕事してたらデートの時間もないんじゃない?」


 私が軽薄な声で尋ねる。


「……それ、仕事に関係ありますか?」


「もちろんあるわよ。読者はそういうパーソナルな部分に興味があるんだから。ミステリアスな特殊清掃員の私生活。……どう?記事のいいフックになりそうじゃない?」


「……興味ありません」


 彼は私の挑発を全て柳に風と受け流す。その感情の読めない瞳は決して私と視線を合わせようとはしない。


 私の苛立ちは募るばかりだった。こんな男、今までいなかった。私の美貌もキャリアも年収も、この男の前では何の意味もなさない。


 だが苛立ちながらも、私は彼のその仕事ぶりに次第に引き込まれていかざるを得なかった。


 静真はただ機械的に部屋を清掃しているだけではなかったのだ。


「体液の除去には次亜塩素酸ナトリウム系の漂白剤を使います。ただし濃度の調整が重要で、強すぎると床材を傷めてしまう」


 彼は専門用語を使いながらも、その作業一つ一つに深い配慮を込めていた。


「この染みは完全に除去するのが難しいケースです。木材の奥まで浸透していますから。でも可能な限り元の状態に近づけるのが我々の責任です」


 そして彼は、ゴミの山の中から故人が大切にしていたであろういくつかの物を丁寧な手つきで選び出していく。


 それは一枚の色褪せた家族写真だった。若い頃の故人とその妻らしき女性、そして幼い娘。


 そして古い釣り雑誌の束。その中にはたくさんの付箋が貼られていた。


 最後に娘から送られたのであろう、父の日の拙い文字で書かれた一枚の感謝状。


「……この人、釣りが好きだったみたいですね」


 静真は誰に言うでもなく呟いた。


「奥さんと離婚して娘さんとも会えなくなって……。一人で酒を飲むしかなかったのか……」


 彼は部屋に残された僅かな痕跡から、そこに生きていた一人の人間の人生を、物語を静かに読み解いていく。それは私が記事のためにやっている表層的な取材とは全く次元の違う行為だった。


「俺たちの仕事はただ部屋を綺麗にすることじゃないんです」


 彼は初めて私の方を少しだけ見た。


「その人が確かにここで生きて、笑って、泣いていたという最後の生の痕跡を拾い集めること。……そしてその人が守りたかったであろう最後の尊厳を守ること。……それが俺たちの仕事なんです」


 その時の彼の横顔は、私が今まで見たこともないほど真摯で、そしてどこか神々しくさえ見えた。


 私は返す言葉を失っていた。


 彼の前では私の巧みな言葉も計算された笑顔も全てが虚飾に満ちた安っぽいガラクタのように思えた。


 その日の帰り道。私は一人タクシーの中で自分の手のひらを見つめていた。


 そこにはあの部屋の甘く腐敗した匂いがまだ微かに残っているような気がした。


 それは死の匂い。


 そして、その匂いの奥に静真が拾い集めていた名もなき誰かの生の匂い。


 私の完璧だったはずのゲーム盤に初めて亀裂が入った瞬間だった。

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