8月9日

今日は寝覚めがいい。随分と頭がすっきりとしている。

夢を見たような気がするが、その夢の内容は何一つ覚えていない。

でもそれが必然であるかのように、きっちりと整えられた本棚の如く記憶の区切りが明晰である。


「汐音?、なににやけてるの」


隣にすずがいた。いつもどおりその長い髪は雪華の手捌きによって見事なお団子にされているのだが、まとめられてない部分の頭髪はぐちゃぐちゃだ。


「いや、今日は天気がいいなって」


人が会話の内容に困ったときの第一声は天気の内容だろう。深く思案するより口が先に動くときにとりあえずの話題として天気が勝手に出てくる。

いや、単純に今の俺がそうだっただけなのだけれど。


「最近は暑いね、夏って感じの天気なんだけど嫌になっちゃう」


「まぁでもこれが青春っぽいって感じじゃないか?」


「青春……そういえば、青い春って書くのにイメージはするのは夏ってなんか変だね」


「ああ、陰陽五行説の五行思想に基づくなら夏は朱夏……」


「んーそういうのはいいや、わかんないし」


「左様ですか」


今日は親父の実家の方に行く日だ。特に用意などは必要ないらしいが……。服なども実家にあるものを持ち帰る予定で、泊まりではあるのだが本当になにもいらないらしい。


とは言っても、昨日買ったショルダーバッグにティッシュや絆創膏など常備品程度は用意する。


「おい、お前ら起きてるか?」


俺とすずが同時に返事をする。


「朝飯食ったら行くぞ。昼になると車の中がサウナ状態になるからな、さっさと食って、さっさと行こう」


襖の戸を開けて、明太マヨトーストらしいそれを咥えた親父がそこにいた。


「今日も雪華が朝ごはん作ってくれたの?」


「おん、なんあ、はりひってるらしいからな」


「おい、食い終わってから喋れよ」


親父は咥えていたトーストをそのまま一気にゴグッと食べきって、「失敬、失敬」と手刀を切る動作をした。


俺たちは寝巻を着替えて、客間の方に行く。もうここの生活になれてきて、朝どこで食べるのかだとか、どの時間になにをするのかのルーティンがなんとなく理解できてきた。


客間のガラスの引き戸を開けると、先に雪華が待っていた。どうやら朝ごはんを一緒に食べる予定だったらしい。


「雪華、おはよう」


「おはようございます、汐音さん、すずさん」


俺たちを見ると声色を楽し気に、少し高いトーンで雪華が名前を呼んでくる。その言葉が声が耳の届くその感覚がなんとなく家の人間として認められたような感じがして心地が良くなる。


「おっはよー!雪華ちゃん!今日はパンなんだって?」


「朝からすずさんは元気ですね」


「まだあったかいよな、おっさんが食ってたってことは。冷めないうちにさっさと食べようぜ」


「うん!」


すずが気持ちのいい返事をして、俺たちは雪華の対面に座って、いつもの挨拶をする。


「「「いただきます!」」」


~~~


朝ご飯を終えて、親父と雪華が準備を終えるのを待つ。俺たちは準備はいらないが、二人はどうやら準備が必要らしい。


まぁそもそも自分の所持品が少ない俺たちと比べると当然のことではあるのだが。


すずと、和室でいつも寝るのに使っていた布団や枕などを押し入れに片づけていたら、ふとトントンと足音がする。


どうやら、先に準備を終えたらしい雪華が2階から降りてきたようだ。

そのまま廊下から引き戸を開いて、そこから雪華が登場した。


その姿は、リュックサックと手提げカバンを持っている様子だった。


「雪華、なんか荷物多くない?」


「これには二人の服を持って帰るためのバッグとか……、あと色々入ってるので」


「ああ、確かにそれ失念してたな。なにも持って行かなくていいけど、持って帰るものがあるなら、それを入れるものが必要になるな」


「雪華ちゃん、やるぅ!」


すずがそう言いながら、グーにした右手を胸の前でスイングした。


と、そとから車のエンジン音が聞こえてきて、車は見えないが、家の前で止まったのがわかった。

ちょうど親父も準備が終わったみたいで、車を家の前に用意してくれたらしい。


玄関の戸が、ガラガラッと開いて。普段着の親父が姿を見せた。


「つなぎと寝巻しか見たことないけど、Tシャツ似合わねー」


「うっさいわ、お前ら準備できたのか?準備ができてるなら行くぞ」


「準備は、戸締り以外は大丈夫、なにで行くんだ?」


親父が「く、る、ま」と言いながら、車の鍵のキーホルダーを人差し指でぐるぐると回す。


「音聞いてたから車で行くのはわかるけど。え、あのトラックに乗るの?4人で?」


「ちげぇよ、一昨日のトラックは墓参りの帰りで、まぁ仕事用のやつだから。普段使ってる乗用車が別にある」


「へぇ……」


俺の話を聞いていた雪華が、率先して戸締りをしてきたらしく、トコトコと走ってきて「電気、ガス、お風呂場全部大丈夫!」と親指を立ててグッドサインをする。

それを確認した俺たちは荷物を持って庭に出て、最後に雪華が鍵を閉める、この子は随分仕事が早いらしい。


「えー、じゃあ、出発!」


「「「おー!」」」


親父の掛け声に合わせて俺たちは家を出た。


そこから車に乗って海沿いの道路を行く、この道は港町に比べると通りが多いようで、ちらほらと対向車が見える。


「やっぱ海綺麗だよ!波たっか!!!」


興奮している様子の後部座席左側に座っていたすずの方を見ると、ちょうど岩礁に波が当たって、高く打ち上げられている様子が見えた。


「すごいけど、こわ。波ってあんなに高くなるもんなんだな」


「そうですね、津波なんてあれの比じゃないんですから、あの避難タワーが見上げるほどに高いのも、そういう波の恐ろしさを考えてなんでしょうね」


俺たちの間にちょこんと座っている雪華が、顎を手で触りながら「ふむふむ」と言った様子でそう語る。


しばらく海沿いを行くと、田んぼや山が連なる場所に出て海が見えなくなる。


「ああ、海が見えなくなっちゃった……」


「すず、そんなに海好きなんだな」


「別に山も嫌いなわけじゃないんだけど、虫がちょっと苦手で……。

わたしあんまりいい印象持ってないかな」


それを聞いた雪華が、「えっ?」という表情をする。


「どうしたの?雪華」


「い、いや、なんでも……ないです」


「ええ!?それが気になるよー!なに言おうとしたのー?雪華ちゃん」


すずが、すかさずツッコんで雪華がいやそうな顔をする。

これは、どういう表情なんだろう。すずのいちゃつきに嫌気がさした顔なのか、その言ってない内容に良心の呵責に苛まれている顔なのか。


しばらく田んぼの続く道路を直進していくと、線路が見えた。


「あれ!昨日わたしたちが乗った電車が通ってた線路じゃない?」


「それはそうですよ、だってこの方向に向かってる線路なんてあれくらいしかないんですから」


「まぁつまり線路があるってことは、あれを通ったってことなのはわかるけど、あんまりこの景色に見覚えないな」


「まぁ電車から見る景色と、この車から見る景色、同じ場所からでもなんとなく感覚って違いますからね」


「まぁそうだよな、今度乗るときはもう少しちゃんと景色見ようかな」


「汐音は、周りに意識が向けれてない!」


「お前帰りの電車寝てたくせに」


そうツッコむとすずが「てへっ」とふざけた表情をする。一発こいつに手刀をいれようかな。


線路から繋がる駅を超えると、ようやく街らしい景色が見えてくる。そこからずっと俺たちを乗せた車は街中を走って行った。




そんなこんなで30分か40分くらいか、車を走らせていると見覚えのある景色に着く。どうやら街についたらしい。


街についてすぐ、携帯ショップで止まる。

そこで親父が口を開いた。


「すずか、汐音か、どっちでもいいがついてきてくれ」


「わたし行く!」


今日も元気なすず、正直質問を聞いた時点で手を挙げると思っていたから予想通りすぎる光景である。


自分は動くのがめんどくさいので、これは正直とても助かる。


「おっさん、なんでどっちかなの?」


「そりゃ、雪華1人置いて行くわけにもいかないし、全員で行くと車の鍵閉めるのめんどくさいし」


「納得の理由です、はい」


どうやら親父と俺は似ているらしい、想定解と全く同じ返答が帰ってきた。


そのまますずと親父が携帯ショップに入っていくところまで眺めた。


「汐音さん、今日はカメラもってきたの?」


「ああ、あいつにスマホでいいって言われたけど。すずには男のロマンってのがわかってないんだな」


「ロマン……?それ私もわからない気がするけど」


「カメラを構える姿って、かっこよくない?」


「絵には……なるかな?」


そう言いながら雪華が首を傾げる。まだ納得までは行っていないらしい。


「じゃあ、カメラを構えてる姿と、スマホを構えてる姿、どっちがかっこいい?」


「なんだか、スマホを構えてる姿って野次馬みたい……汐音さん、それ多分ずるい例え」


「い、言い負かされた……!?」


雪華と話して大体10分程度、ようやく店から出てきた親父とすずが車に乗り込んでくる。


「はーい、汐音。汐音は、えーっと、なんだっけ、なんとかブルーだよ!」


スマホが入っているらしい箱をすずが俺の方に渡してきた。


「あ、色の希望してない。青好きだからいいけど」


「おう、俺が勝手に決めてやった。汐音って波の音ってことだろ?じゃあ青しかないと思って」


親父にしては、ナイスチョイスである。


「じゃあすずは何色なんだ?」


「ああ、それは」「シルバー!!!!」


親父の言葉を遮ってすずが大声で答えた。


「わたしがすずだから、ゴールドか、鈴蘭の白にしたかったけど、選びたい機種のなかになかったからシルバーにしたんだって」


親父がどうやら悔しそうな顔をしている。なるほど、自分のチョイスの説明をしたかったのか。


「自分で説明したいなら、俺たち全員いる場まで言わなかったらよかったのに」


考えを見透かされていると気づいた親父が「出発するぞー」となかったことにしようとする。


俺たちは親父の実家までの道中、親父をからかうことにした。


街から少し外れて、橋などを渡っていく。道中にはまた田んぼが広がっていて、進んで行くほどにだんだん家々やお店などが見えなくなってくる。


ついに、信号が見えなくなった。進むほどに本当にあの港町以上の田舎であることを認識する。


周りに山しか見えない、良く言うなら大自然だ。キャンプをするくらいならちょうどいいかもしれない。


そのまま大きな川沿いを進んで丘のような場所につく。丘に敷設されている白線もないアスファルトを登っていく、重力が後ろにかかるほどの坂道、道路交通法に準じているのかわからない道である。


その坂から右を見ると大きい川がキラキラと輝いていて周りに田んぼがあるのが見える。堰らしいものがあるようで、そこでせき止められた川の水が、まるで滝のようになっている。車からはその光景しか見えないが、水の「ゴオオオオオオ」という音がまるで聞こえてくるようだった。


美しいという表現が似合う大自然の川であった。



そうして、ポツンと立っている瓦屋根の古い家の目の前に車を止める。どうやらここらしい。


車から降りると親父が、俺たちを家に上がらせる前に言った。


「俺は今日使う予定の布団とかを干したり、あとある程度掃除するから、お前らはまぁ、なんだ、その辺で遊んどけ」


おそらく、相当家の中が悲惨なことになっているらしい。その辺で遊んどけと言われても……、


そこで車で荷物を物色していた雪華が、キラキラした目でこっちに声をかけてきた。


「汐音さん、すずさん、ここでこそ昨日買ったものが役立つときですよ」


「昨日?」


「水着ですよ、水着!」


「なるほどな、あの川か」


どうやらあの川で今日は泳ぐつもりらしい。そのことを知っていて雪華は水着をあの手提げカバンに用意していたようだ。


俺たちは、順番に車の中でさっさと水着に着替えて、雪華のあとを追う。すずがスニーカーから昨日買ったサンダルに履き替えていた、行く先は海ではないのだが、ファッションというのは全体の雰囲気を大事にするらしい。


そうして人が通れる程度の林を進み、田んぼの間の道を進んで行くと川の目の前にたどり着いた。


あの坂で見た光景と予想通りの、でも予想以上の光景が目の前にあった。足元にはメダカが泳いでいるのが見え、かなり透き通った綺麗な川であることを認識する。


「わたしちょっとこの辺で遊んどくね」


「水が怖いのか?すず」


「そうじゃないけど……」


不安そうなすず、雪華は楽しそうに先を歩いていた。


「あ……」


と、前を歩いていた雪華が一瞬で姿を消す。川に来てすぐの突然のことだった。


「えっ……」


パシャッと水音がしたかと思えば、一瞬で辺りが静かになる。

焦りで周りの音が聞こえなくなっただけなのか、本当に周りの音がしなくなっただけなのか、その時の俺にはわからなかった。

でも、やるべきことは見えていた。

掴めるもの、……服は置いてきたし、近くには、笹のような植物が生えているのが見える。ただ正直これは役に立たない。ペットボトルや浮き輪なんて元々持ってきていない。あ、そうだ!


「すず!!」


「なーに……って雪華!?し、汐音!!」


「わかってる、そこからサンダルを投げてくれ!」


「うん、わかったよ!」


「すず!大丈夫だと思ったら、俺は左手を水の上にあげるから1分経ってもなにもなかったら、親父を呼んでくれ!」


投げられたサンダルを、少しきついが2つとも右腕に通して雪華の元に向かう。


雪華のいるところから1メートルほどの地点で一旦潜って水中で目を開ける。


(水草に足を取られてるわけじゃない、これは、葉に足を滑らせて足がつかなくなってパニックになったのか)


雪華は必死にもがいているが、水中でがむしゃらに手を動かしているだけで全く水上に上がれていない様子だった。


俺は一旦空気を思いっきり吸って、サンダルを通している右手を雪華の脇の下からくぐるように通して反対の脇を掴んだ。


暴れている雪華の手が顔面に当たる、当たることさえわかっていれば人は冷静に受けられるものだ。そのまま雪華を抱き寄せて雪華の顎を自分の肩の位置まで持ってくる。


そのまま思いっきり、後ろに持っていくような感じで自分の背をのけぞらせる。

そうすると雪華を水上に上がらせることができた。

水上にあがると雪華がハァ、ハァと過呼吸をし始めた。


「雪華!聞こえるか!おい!」


「ちょ、暴れんな、おい」


しばらくして、声が聞こえたのか、体力がなくなったのか、暴れる手が止まってぐったりとする。

それを目視して俺は雪華の腰に回していた手を上方に伸ばす。


「汐音!見えたよ!」


その声を確認して雪華を脇を掴んでいる手をもっと奥へ行かせるようにして雪華も仰向けにさせて、とにかく浮けるように専念した。

雪華がはっきり意識を取り戻してまた暴れないといいのだが……。


と浮いているときは遠いと感じていた陸が案外近かったようで、すずが「んんー」といいながら俺の肩に手を伸ばす。足で水を蹴って雪華をすずに託す。

すずが、雪華の頭の下に俺のスニーカーを下敷きにする形で枕にする。


「ええっと、気失ってるだけ……だよね?」


「そのはずだ」


「うん、心臓は動いてる、まだバグバグ言ってるから結構パニックになったみたい。呼吸は……少し浅いかも、水を肺に吸い込んでるかもしれないから人工呼吸だね」


「ああ、やり方はわかるか?」


こういう緊急の場ではあるが、女性がいるのなら同じ女性がやるのがいい。身内の場合でもそうだと思う。


「うん、大丈夫」


そういって雪華の頭を左手で抑えて顎を持ち上げるように、右手を斜め上頭の方向に丁寧に動かし、頭を後屈させる形にする。

そのまま抑えている左手で鼻をつまんで、「すうう」と息を吸い込んで雪華の口に密着させるようにして、1秒ほど息を吹き込ませる。

雪華は中学生で、中でも背が低い方で、肺が小さい。それを考慮してだろう、すずの吹き込む息が控え目だ。


「もう少し吹き込んでもいいんじゃないか?見て少しだけ胸が上がるくらい……」


「うん、そうだね……」


口を離して、すずが一旦答える。

そうしてまた、「すうう」と息を吸い込んで、先ほどよりも少し多めに息を吹き込ませる。そうすると少し胸が上がったのが見えた。


「よし、もう一回……」


上がった胸が下がるのを、一回見てからすずがもう一度同じように雪華の口に息を吹き込んだ。

そうしてまた胸が下がるのを視認する。


「もう一回やって呼吸が上手くできてないって思ったらって思ったら心マ……」


「ゲホッ、ゲホッ」


そう言いかけた途端、雪華が咳き込んだ。


「雪華!?大丈夫?」


まっさきにすずが反応して、左手で頭の後ろを抑えて、河原の石に頭を打たないように雪華を支える。


「汐音さん、すずさん……」


「うん」「ああ」


「ありがとう……ございます……」


「気にすんな、するべくしてしたんだから。俺、親父のとこ行ってくるよ」


「汐音……さん。お父さんのこと、親父って……呼んでる……ですか?」


「ん?ああ、そうだな」


「だったら……、汐音さんは私の、お兄ちゃん……ですね」


「な、なんだよ急に、早く毛布でも持ってくるから喋るのやめて安静にしろ」


俺の照れ隠しを聞いて雪華ははにかむように、笑っていた。




「親父、雪華が川で溺れた」


「……今すぐ行くぞ」


「いや、もう助けたあとだから身体を拭けるものとか」


「バスタオルとかでいいか、すぐ行こう」


「急ぐのはいいけど、持っていけるものは持って行った方が。川の水飲みこんでて水中毒のこともあるから、経口補水液は……普通はないか、スポドリとか持って行ったほうがいいよ」


「あ、ああ。……あとはなにかあるか?」


「あとは、ああ普通に替えの服と保険証とかだな、さっさと病院に行かせるべきだ」


「確かにそうだな、ありがとう、汐音」


「どこの川かわかるのか?あと車で行くんだろ?車の鍵は?」


「坂を下りて真っすぐのところだろ?この辺りでまともに泳げるとこっていったら堰のとこだから。車の鍵は、ああそこの机の上だ」


と、リビングの机の上に鍵があった。ついているキーホルダーは家族4人で映っている写真を入れたものらしい。


「ほらよ」


「ん?汐音は行かないのか?」


「すずがいれば状況説明とかは十分なはずだから。あいつ普段アホにしか見えないけど、やっぱすげぇや、あいつ」


「そ、そうか。エアコンつけてていいからな」


そう言い残して、親父は走り出していった。


「おいおい、親父エアコンつけずに掃除してたのかよ……」


心配になる家族だ、人命は何にも代えがたい。それを俺はそこらの人間よりも理解していると思いたい。

その俺以上に彼女は人の命の大切さを、理解しているのだと思う。


雪華が溺れていることに気づいたとき、正直すずは慌てて助けに行くものだと思っていた。

現実は俺の指示を待って、それに従った。それは彼女の情緒的な性格より知識として、人命救助における優先順位を理解した上での行動だったと思う。


もし周りにロープなどがあれば、俺が無理に助けにいくのを止めて、雪華自身にどうにかさせる方法を提案したのだろうと思う。

もしこんなに田舎じゃなくて周りに人がいる環境なら人を呼ぶことだってしただろう。


彼女はただ純粋にその場を見て最適な行動の選択をした結果が「俺を待つ」だったのだろうと思う。


正直、すずの立場に俺がいたら動いてしまっていたと思う。今日の深夜にすずが言っていたことがなければ、あの時自分は何も考えずに真っ先に助けに行っていたかもしれない。

自分の命を一番に考えることができないのなら、人を助ける能力が足りていないといえるのはそうだと思う。


あの言葉がなかったら、あの言葉を聞く前の俺は、目の前で助けを求めている人に手を差し伸べるときに冷静な判断を下すことができたのだろうか。


「ふむ、……勝手にアイスでも食うか」


親父が置いていたクーラーボックスを開けるとバニラがチョコに包まれた棒アイスがあった。俺の知識では比較的高い方のアイスだったと思う。


「今日の成功報酬としてこれくらいは許してくれるだろ」


そう独り言を呟きながら午後の自由時間をそこにあった雑書を読んで過ごすことにした。


3人が帰ってきたのは夕方になってからだった。


「おかえりー、どうだった?」


「全然大丈夫だったよ。お、お、お、お兄ちゃん……」


どもり気味に雪華がそう返答した。


「恥ずかしいなら、無理にしなくてもいいのに。まぁ無事でよかったよ」


「お前ら、なにかあったのか?」


そう親父が問うが、「ひみつー」と真っ先にあの場を見ていたすずが答える。


「病院ではすずがよくやってくれたんだな」


「んー?うん。わたし天才ですから」


「お前、前に自分のことバカって自称してなかった?」


「え、そんな記憶ないけど。汐音ひどーい、心の中でわたしのこと自他ともに認めるバカだと思ってたんだー。いけないんだー!」


「ごめんって、まぁあの時のすずはきちんと賢かったから一部において抜きんでてることは認めるよ」


「あの時って?なにかあったっけ」


「それがわからないんじゃ、天才にはなれないな」


「もう、汐音がすっごくいじわるー」


「お前ら、仲いいのは上等だが、家の玄関で立ち話はやめてくれ」


「「あ、はい」」


夕食の準備にダイニング行こうと足を向けていた親父にふと質問された。


「汐音、ご飯作ってくれたりとかはしてくれなかったのか」


「米は炊いておいたけど。え、俺の手料理が食いたかったの?」


「うーん、……いや今の発言は取り消しとく」


「理解が早いのは助かるよ」


正直、記憶が初日よりも鮮明になってきて、なんとなくいろんな言葉を思い出してきた今日この頃ではあるのだが、料理というカテゴリになると全くと言っていいほどに該当する項目が存在していない。

それではっきりする、その答えは明白、俺は多分料理をしたことがない。

ない記憶は思い出すもなにもないんだから、仕方ないよな。


「というか、今日は焼き肉の予定だから。米だけでいいんだが。むしろ作って合ったら少し困るところだった」


「じゃあなんで聞いたんだよ」


「うーん、嫌がらせ?」


「いーけないんだー」


俺が茶化してすずの真似をするのをみて、親父は「ハンッ」と鼻で笑った。


「まぁこっちで適当に準備しとくから、飯の時間まで『家の中で』遊んどけ」


「こんな時間にもう外には出ねぇよ」


「雪華ー、すず、なんでもいいから遊ぼうぜ」


「んー汐音ー。なにする?オセロ?」


「オセロは二人でしかできないだろうが。なに、余った人は審判でもすんの?」


「じゃあ、……人狼ゲーム?」


「それ3人でやったら一夜で終わるじゃねぇか。もっと普通にトランプとか」


「じゃあババ抜きやろ!ババ抜き!」


「雪華もそれでいいか?」


「うん」




ババ抜き、神経衰弱、ダウト、全て雪華の勝利で終わった。


「ポーカーフェイスとか実力が絡むと雪華に勝てないな……、なんだこの子……。

雪華はこういうの得意そうだと思ってたけど、やっぱりそうだったか」


雪華は、黙ってトランプを握ったままだが少し嬉しそうなオーラを出していた。

顔の周りにほんわかしたオレンジ色のオーラと花が咲いているのが見える。凄い、超能力に目覚めている。


「強いでしょ、うちの子」


聞いていたすずが、割り込むように雪華の肩を掴んで「ふふん」と自慢げ顔をする。


「お前はほとんど最下位だろうが」


「うう……じゃあ完全に運のゲームにしよう!」


「ポーカーとか?そのくらいしか俺思いつかないや」


「大富豪とかも、最初の手札で決まるよお兄ちゃん」


「大富豪って最初に手札全部分けるよな、ちょっと枚数が多くなりすぎないか?」


「うーん、だったらスート一個抜いたらいいと思う、クローバーとか」


「なるほど、ついでにジョーカーと適当な一枚を抜いたら一人13枚になるか。賢いな雪華」


そう褒めるとふんす、と満足気な顔をする雪華。


「わたし!まだ褒められてないんだけど!!」


「お前はそもそも、まだなにも言ってないだろうが」


「とりあえずやろ!大富豪!!」




大富豪、ポーカーとそれぞれ3戦ずつやったわけだが……。


「すごい、すずさん全勝……」


いや、少しやる前からそんな気はしていたのだが、こいつが?


「納得できないし、気にも食わない」


「なんでだよー!わたしの勝ちじゃんかー!しかも6連勝だよ?6連勝?これは認めるしかないでしょ」


「うん、2回も言わなくてもわかってる」


「じゃあ納得してよー」


「大富豪もう一回やろう、大富豪は実力もきちんと絡むから次は勝てるはず」


「うん、次勝ったらきちんと負け認めてね?」


「う、う、ん、うん」


「そんな歯切れ悪いとまた最下位になっちゃうよ?汐音」




なぜこいつのところに必ずジョーカーと2が行くのか。

今日のトランプ、全部最下位とかではないけど1位の回数はゼロだぞ、ゼロはおかしいだろうが。


「なにかイカサマでもしてんの?」


「さっきからカード配ってるのは汐音でしょ、イカサマしてるなら汐音しかいない」


「誰が自分が負けるイカサマするんだよ。

くっそ、俺は運ですずに勝てないし、実力で雪華に勝てないのか」


「お兄ちゃん……、オセロとかで私と……」


「手加減されるならやだー!!もう負けたくない!!」


「汐音、ドン引きだよ」


「冗談だって、そろそろ飯の時間だから皿の準備とか手伝いに行こうぜ」


「お兄ちゃん、トランプの片づけは私がやるよ」


「あ、ああ。雪華、ありがとう」


ダイニングに向かうと、カセットコンロがもう用意してあった。


焼き肉を気ままに焼いて、食べ終わるとだんだんと眠気がしてくる。


「なんかお腹いっぱい食ったら眠くなってきたな、まだ6時だけどちょっと寝る」


「おう、汐音、やっぱり泳ぐと眠くなるか」


「別にそれはあんまり関係ないけど、いや、どうかな。今日は一日はしゃいでたかもしれない」


「まぁ布団は自分で敷いて寝とけ、もう奥の和室の方に置いてあるから」


「あ、汐音!わたしの分も先に敷いといてー」


すずが言うのに続いて、雪華が「私もー」と手を挙げる。


「別にいいけど……。なんか罰ゲームみたいでやだな」


「あ!トランプの罰ゲーム考えてなかったじゃん!」


面倒なことになる予感しかしない、早くこの場から退散しなければ。


「あー、しらんしらん、おやすみ」


「あ!汐音逃げたー!!」


また騒がしくなった二人を背に俺は和室に向かった。


「こんなもんかな」


置いてあった布団を3つ、さながら旅館に用意されているように綺麗に並べた。


奥の障子の戸を開けると外に繋がっていた。山の方から吹く風で酸素が多いのか、少しひんやりとしていて、とても美味しく感じる。


「良く寝れそう、おやすみ世界」


少しダイニングの方からまだわちゃわちゃした声が聞こえる。内容が聞こえてこないくらいの声量で寝るにはこのくらいの雑音があった方がちょうどいい。


俺は「寝よう!」という意気すらするより前に、そのまま夢の世界に入って行った。


~~~


  『夏祭りがもうすぐあってね、そこならいくらでもあるよ!』

   『ビー玉だよ、そこから景色を見たらなにか見えちゃいけないものが見えちゃうかもー』

        『ラムネの開け方もわからないの?』


………………


『しおん?どんな漢字なの?』

『へぇ、名前をつけてくれた人、海が好きだったのかな』

『そっか、私はね、賢くていい子になれるようにってお母さんが考えたって聞いたよ。でもね、私クラスでビリ争いするくらいバカなんだぁ』


~~~


夢の内容が、思い出せない。

凄く、悲しくなったような気がする。この悲しみは、何に向けたものなんだろうか。


「ねぇ、汐音。しーおーん、起きて―、おーきーてー。朝だよ」


「すずさん、すずさん、『朝だよ』は嘘ついてる」


「そ、そだね、汐音。起きてー、夜だよー」


「なかなか起きないね、お兄ちゃん……」


「耳に息吹きかけちゃおうか。ふぅーーー」


「うわあああああ!!!」


「お兄ちゃん、近所迷惑……」


耳を両手で塞いだ雪華がジト目でこっちを見ながらそんなことを言う。


「近所も、なにもここの家は隣に家ねぇだろうが」


「起きないからだよ、しおんー」


「ああ、嫌がらせかと思って無視しようと。あ、蚊に刺されてるわ、最悪」


ふと右手を見るとちょうど腕の部分に赤い腫れがあった。認識してしまったからか、とても痒くなってきた。


「蚊取り線香そこにあるのに」


緑のぐるぐるが部屋の隅にあるのが確認できる。火はつけていなかったようで、完成された形のぐるぐるがここから見えるようだ。


「網戸にはしてたのに、蚊ってどこからでも入ってくるんだな。えー、で、本題はなに?」


そう問いかけると、二人は「せーの」と息を合わせてこう言った。


「「星を見に行きませんか!!」」


「え、どこに」


「すぐ外だよ。今日は満月?じゃないや満月は昨日だもんね、満月の次の日って何月?」


「月の名前かは知らないけど、十六夜とは言うよな。十六夜は日の名前か?あまり詳しくないや」


「いざよい?なんか聞いたことあるかもー。……ないかもー」


一瞬閃いたような顔をしたすずが、その顔を一瞬で怪訝そうなものに変えた。


「どっちなんだよ。まぁ行こうぜ」


「窓からちょっと見ちゃったんだけどね、街明かりもないし山に囲まれてるからね、すっごいよ」


「マジか、楽しみだな」


期待値を最初からあげるすず、俺はそれを素直に受け取ってワクワクさせながら部屋を出発する。

俺を先頭にそのまま玄関を出ようとする、と顔を上げる寸前にすずに目を両手で覆われる。


「ちょ、なにすんだよ」


「もうちょっと前でみよー」


「わ、わかったから、目瞑っておくから、やめ」


すずの手は、なんだかとても冷たくて、すべすべしていて、なんだろう、冷たいのに温かい。

清純男子、この状況、とても恥ずかしい。


俺の要求は無視されたまましばらく目を隠されたまま歩いた。


「じゃあ、開けるよー」


と、ずっと覆われていた手が離れた。


眼前に広がるのは数えることすらできないような、びっしりと広がる星々。

その星は一つ一つが違う明るさ、違う色の輝きを放っている、とても強く輝く星、目で見るのがギリギリくらいの星、赤い星や青い星、それぞれが瞳に映すその光景を美しく彩るために存在していた。


「次が出てなかったら天の川とかもはっきり見えるんだけどねー」


東に見かけはほぼ満月と言ってもいい月がある。


「え、月なかったらもっと凄いの見れるの?」


「うん、こんなに光ってる月があるってだけで暗い星は目に見えなくなっちゃうから」


「すず、よく知ってるな」


「なにを隠そう、わたし天体大好き少女なのです!」


「へ、へぇ、じゃああの星なんて名前なの」


「どれ指してるのかわかんない!」


「だよな、こんなに星あったらどう説明すればいいかわからない」


「すずさん、すずさん、夏の大三角ってわかりますか?」


「それは説明しやすいかも。ここ真っすぐに星が他より多いでしょ?これが天の川なんだけど、その辺りに夏の大三角の『はくちょう座のデネブ』、『わし座のアルタイル』、『こと座のベガ』が跨ってるの」


「でね、ベガがその中でも一番明るくて、ほら、あそこ、一番光ってるでしょ、どうかな、わかる?」


確かにすずが指を差しているあたりにひときわ眩しい星があるのが見える。


「なんなら周りの星の中でも一番明るいんじゃないか?」


「そうだねー、太陽系惑星が出てたらまた別なんだけど、多分今はないか、見えないんじゃないかな。だから今見てるこの星空の中だとあのベガが一番明るいと思う」


「で、今見てる東を正面に考えて、真上くらいにベガがあるでしょ?そこから少し左下に輝いてるのがデネブ、右下にあるのがアルタイルだよ」


「なるほど、ベガ以外はどれのことを言ってるのかわからんな」


「えぇ、もう一回説明するよ?えーっと」


「デネブから反時計回りに言ってみてくれないか」


「ん?いいけど……、あの辺りにあるのがはくちょう座のデネブで、そこから右下にベガに次いで明るいアルタイルがあって、あの一番明るい星がベガ!」


「……デネブ、……アルタイル、……ベガ」


雪華が復唱する。


「君は指さす夏の大三角」


「急にどうしたの汐音……」


「ごめん」


「あ、ほうき星!」


突然雪華がそう言った。


「え、わたし見れなかった!流れ星!」


「ん?ほうき星と流れ星ってなんか地域での言い方の違いなのか?」


「お、しおんー、聞きたい?ほうき星は彗星って言って、そのまま箒みたいな尾を描く星なんだけど、流れ星は大気圏で見えてる塵のプラズマで……」


「やっぱりいいや、俺にはわからん」


「今日の朝の仕返しだよ、汐音。

ねぇ、雪華ちゃん。わかりやすく言うと流れ星、流星は一瞬見えるもので、しばらく見えてるのがほうき星、彗星だよ」


「こ、子ども扱いしないで……」


「もう、可愛いなぁ」


「夏だけど、流石に半袖だと寒くなってきたな、そろそろ戻ろうぜ」


「そうだねー、なんか山から吹いてくる風なのかな、すっごい冷たいよ」


俺たちは、3人で一緒に手を繋ぎ、部屋に帰り、8月9日のその夜を共に過ごした。


3人並べた布団はそれが本当に自分たちが兄妹なのだと錯覚させるようで、家族愛のようなものを俺は感じていた。


充足した一日なのだと、振り返ってみても思う。楽しさと嬉しさ、ワクワクで溢れていて、幸せというもの身に染みて実感する。


こんな日々がずっと続けばいい、心からそう思った。

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