第6話 彼女の名は、ユナ
眠れなかった。
いや、眠ることなど、とっくにできなくなっていたのかもしれない。
レンは施設の崩れた一室で、膝を抱えていた。
記憶の残滓のように、天井のクラックから月の光が差し込んでいる。
あの少女のことが、頭から離れない。
生きていた。
けれど、拒絶された。
まるで──自分が“何か”であることを知っているかのように。
「……あれが“ユナ”なのか?」
名前は知らない。
でも、何かが心の奥で囁いている。
忘れたくない記憶。
触れてはいけない温もり。
それでも、追いかけたい、届いてほしい……そんな感情。
「……行こう」
重い体を引きずるようにして立ち上がり、
レンは再び、裂け目の装置へと向かった。
ゲートはまだ、揺れていた。
まるで“おいで”と手招くように、あの異質な空間が脈打っている。
レンは迷わなかった。
迷う理由が、もうなかった。
ぐにゃりと視界が歪む。
時間も、空間も、感覚すらも──すべてがぐらつきながらねじれていく。
そして、気がついた時──
世界はまた、変わっていた。
温かな午後の光。
遠くから聞こえる音楽と笑い声。
立ち並ぶカフェや露店には人が集まり、どこもかしこも活気に満ちていた。
でも、レンにはもう騙されない。
この光景の裏に、なにかがある。
「ここに……いるはずだ」
そして、いた。
人の波の向こう、花壇のある広場のベンチに、
彼女は、静かに腰をかけていた。
風に揺れる黒髪。
落ち着いた瞳。
白いワンピースが陽に透けるほど淡く、まるで“幻”のようだった。
レンの鼓動が跳ねる。
足が、自然と動いていた。
「私……あなたに会ったことがある」
レンの動きが止まった。
「施設で、ね。あなたは……“特別な部屋”にずっといて。
私は外の研究区域で……たぶん、実験体のひとりだった」
(ユナ……)
彼女の声はかすかに震えていた。
思い出すたびに痛むような記憶なのだろう。
「だけど、ずっと思ってた。あの部屋の向こうにいる子は、何を考えてるのかなって」
レンは言葉を失った。
「私、気づいてたの。あなたが、普通じゃないってこと。
だって、会った研究員の人たち、みんなあなたの話をするとき……怯えてたから」
彼女はゆっくりと視線を落とした。
「でも……私は、そういう目では見なかった。
あなたが怖いなんて、思わなかったんだ」
レンの胸の奥で、何かがゆっくりと解けていく感覚があった。
そんな中──
空気が震えた。
「……なに、これ?」
頭上に浮かび上がったのは、幾何学的な紋様。
幾重にも重なった光の輪が、天井から垂れるようにレンとユナを包み込んでいく。
「ダメ……逃げて!これは……監視システムが作動した!」
ユナの瞳が、恐怖に染まる。
「俺たちは……異物と見なされたんだ」
レンが瞬時に理解する前に、足元から光が走る。
空間が崩れ、足場が消え、視界がぐにゃりと歪む。
『異物反応確認。排除プロトコルを実行します──』
冷たい、無機質な声が空間中に響き渡った。
「待って!!」
レンが手を伸ばした瞬間、ユナの姿が白い光に溶けていく。
次の瞬間──
視界が弾け飛んだ。
目を開けると、そこは再び、あの荒廃した世界だった。
レンは瓦礫の中に膝をついたまま、虚空を見つめていた。
「……どうなってる」
赤黒く濁った空、乾いた空気。
音のない風と、かつての絶望。
隣に、ユナの気配がある。
彼女は身を丸め、ただ目を伏せていた。
「……ここは、どこなんだ」
レンがそう尋ねると、ユナは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「“捨てられた世界”──そう呼ばれてる。
失敗作の世界。選ばれなかった人たちが、置き去りにされた場所」
言葉が、頭の中で鈍く響いた。
捨てられた……?
「じゃあ、俺たちは……」
「選ばれなかったの。でも、それだけじゃないの。
この世界は、何度も“壊されてきた”。
最初から“そうなるように作られた”世界なの」
レンの目が大きく見開かれる。
「なんのために……?」
ユナは、小さく首を振った。
「……わたしにも、全部はわからない。」
風が吹いた。
街の雑音が、遠くに霞んでいく。
その瞬間、レンの脳裏に、かつての監禁部屋での“ひととき”が蘇る。
窓のない白い部屋。
ガラス越しに見た、小さな影。
ただ一度だけ──ガラスの向こうに、少女が立っていた。
小さな手を、こちらに差し出して。
レンもまた、手を伸ばした。
届かないことを知っていながら。
それが、彼女だった。
「……ユナ……」
「うん、わたしの名前。……やっと言ってくれたね」
微笑んだユナの瞳に、涙が滲んでいた。
──それが、すべての始まりだった。
レンにとって、そしてこの世界にとって。
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