ほしふり天樂-雨音に騙る観測者-

末千屋 コイメ

前奏曲(プレリュード)

 雨が降る。途切れず、長く、降り続く。

 あなたは傘を持っていない。もし傘があれば、とっくに差していただろう。

だが、今は無い。雨に打たれる――いや、雨宿りしよう。そう決めた。

 あなたの目の前には、廃業して十数年経った古い映画館が建っている。

その映画館の名は――〈キネマ・プシュケ〉。ギリシャ語で〈魂〉を意味したはずだ。

 剥げ落ちたネオンサイン、掲示板には色褪せた上映時間表が斜めに残り、当時の賑わいの残りを見せるかのように、雨粒を避けたい人々が軒下に集まり、軽い談笑で賑わっている。

あなたも自然にその輪へ入ったが、誰かと話す気にならなかった。ひとりでいたい気分だった。

 ――ギィィ……。

小さな軋む音が雨音に紛れ、あなたの鼓膜を掠める。

 視線を向けると、普通いつもなら施錠されているはずの正面扉が、わずかに開いている。その黒い隙間は雨の気配を拒むようで、あなたは糸を引かれた操り人形のように扉へ向かい、足を踏み入れた。

 中は、静かだった。音は入口で遮断されたようだ。

――ただ、雨の音だけが、遠くの穴倉から聞こえるように、薄く反響していた。

 ロビーの赤い絨毯は太い血管のように廊下を貫いており、通電していないはずのランプが、暗い金の光を揺らめかせ、誰とも知らぬ影を壁中に孵(かえ)し続けていた。

 不思議とかび臭さはなく、埃が舞う様子も無い。むしろ不気味なまでに清潔で、場違いに整った美しさに、あなたは思わず小さく「ほう……」と嘆息する。

 好奇心があなたを導く。コツン、コツン……と靴音を響かせながら、奥へ、奥へ、さらに奥へ。

 廊下には半世紀近く前のスチール写真やポスターが並んでいる。とりわけ色褪せず時間ときを止めた夕焼け色の少女の微笑みに、安らぎにも似た深い慈しみを覚える。あなたは通信機器スマートフォンで撮影もせず、誰とも連絡を取らず、ただこの特別な場所――静謐せいひつに包まれた映画館を独り占めにしている。

 やがて、行き止まり。重厚な扉の前へ辿り着く。

 深く息を一つ落とし、あなたはゆっくりと、その重くて堅牢な扉を両手で押し開いた。

 軋む音。扉が開いた瞬間、世界がわずかに捩じれた。

 天鵞絨ビロードの幕が降りた舞台が闇の底に浮かび、強く脈打つように見えた。

 周りからは確かに笑い声や囁き声が聞こえるのだが、存在すがたは見えない。気配だけが客席を埋めている。

 目に映らぬ誰かが、あなたに「最前列中央の一席が空いている」と何処かで告げた。

 あなたは声に従い、舞台の中央の最前列に空席があることを感じる。空席に向かい、梳毛糸モケットの柔らかさを膝裏で感じながら、吸い寄せられるかのように、腰を下ろした。

 やがて、強く脈打つ舞台の幕が上がれば――静謐せいひつにしてすべてをる観測者が、欣悦きんえつをもってあなたの来訪を迎えよう。


 …………いらっしゃい。珍しい雨の中どうも……。雨が降り止むまで、いいや……、あなたの時間が、許す限り、ごゆるりと。

 今この瞬間、俺はあなたと共にる。あなたと時間を共有し、同じ時間ときを過ごしている。言い換えれば、あなたの死んでいく旅路の中に、俺という異物が介入していることになる。

 あなたの時間――その不確かな生命いのちの、一滴ひとしずくがあるならば、最低にして最高、劣悪にして高潔、奇妙にして凡庸ぼんよう――何処か懐かしさを秘めた記憶ものがたりを、雨宿りの退屈しのぎにかたることができるだろう。

 俺の言葉は、忘れられた過去誰かを再生し、朽ちた未来誰かを新たに成形する。それを「偽善」と呼ぼうが「善」と呼ぼうが、どちらでもご随意ずいいに。

 忘れられた誰かにとって望ましく、別の誰かにとっては、思い出されたくもない。だが、俺にとってはどうでも良い。忘却は死よりも罪深い。……退屈も同様に、な。

 あなたは、俺があざむ虚偽ほんとうも、うそぶ真実うそも、そのまま、勘ぐらずに受け入れるだけで良い。無駄な詮索は不要。ただ、これはあなたが、生きていたいと考えるならの話。逆に、終点に近づきたいなら、延々と正解の無い問いを追い回していれば良い。……まぁ、そのうち眠気に負けるやろけど。

 ……ここでは、誰もが物語の主役になりる。この場を飾る一等星になることができる。

 ――つまり、あなたも。

 これからあなたが想像するは、誰かの儚き追憶(ゆめ)。手放せば泡沫うたかたの如くつゆと散り、いだけばそのまばゆ雨天うてんのもと、胸奥きょうおう墓標ぼひょうを刻む。忘却の海に沈みし亡者ものたちよ、いま一度、真実の闇に魂を燃やせ。

 さあ――、正しい悪意と、誤った善意の拡散を始めよう!

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