断章 父が封じられた日 上
遠い日のこと――。
龍の王ライは、空の一点を鋭く睨んでいた。
黄金色に輝く巨躯が、焦燥に駆られたように空へと舞い上がる。それを合図に、月白の湖の結界が内側から破られた。
「パ、パ…!」
人間の姿をとった幼いカイが、彼にできる精一杯で父を呼び止めた。ライは一度だけ振り返り、悲しげに目を細めた。
「…すまないカイ。友が危ない。行かねばならん」
罠だと分かっていたのかもしれない。それでも、友の魂の悲鳴を彼は無視できなかった。ライは矢のようにコランダムの方角へ飛び去った。
「だめよ…!!!」
悲痛な叫びと共に、一頭の白銀の龍が空へ舞い上がった。
カイの母親だった。
それに続いて数頭の屈強な龍たちが、王を追って結界の外へ迷わず飛び出していく。
「うぅぅ!!!」
カイは唸り声をあげると龍へとその姿を変え、小さな翼で必死に飛んだ。遠くなる父母の姿を追い、息を切らして丘の上へ降り立つ。
そこで彼が見たのは。
結界のすぐ向こう側の上空で待ち構えていた無数のコランダム兵と、放たれる鉄の鎖だった。
「ガアアアアッ!!!」
龍たちが次々と翼を射抜かれ、鎖に絡め取られた父が墜落していく。
「……ッ……!!!」
カイはただ、恐怖に震えながらそれを見ていることしかできなかった。
「…見るな」
カイの瞳を、背後からやってきた長老の翼がそっと覆い隠した。
「空を所有するは
――人間め。
長老の言葉が幼いカイの耳にこびりつき、消えない傷として深く刻まれた。
王の不在。
主を失った空はあまりにも広く。
一族はより強固な結界を張り巡らせ、生き延びるために沈黙を選んだ。神聖な龍の姿を、人の皮の奥底に封じ込めて。
◇
その瞳は、焦点が合わず光が宿っていなかった。
暗く冷たい霊廟で、日向の氏族の末裔ヘリオは立ち尽くしていた。胸には妻である女王スピネルの手によって深々とユークレースが打ち込まれていた。
「さあ、ヘリオ。道を開きなさい」
スピネルが背後から甘い声で囁く。
(やめろ…ヘリオ。従うな)
ヘリオの意志は抵抗していたが、体は別の生き物のように動いた。石棺へ向かってずるずると足を引きずり歩いていく。彼は日向の紋章に手をかざした。
ゴゴゴ……。
地響きと共に地下への階段が開かれる。
「ああ…!素晴らしいわ」
スピネルは、人としての尊厳を失っていく夫の頬を、労うように撫でた。
歴史に忘れられた一族が遺した、地下神殿。血塗られた過去に蓋をするように、コランダム城は建てられていた。女王スピネルは、その悲しき遺構に天候を操る龍を閉じ込めようと計画していた。
完璧な制御。完璧な箱庭。完璧な血統。
奇跡の雨を生み出した、救世主スピネル。そう呼ばれる日も遠くない。
スピネルはその唇に隠しきれない笑みを浮かべ、穏やかに語りかけた。
「あなたの友は必ず来ます。さあ、ここで待つのです」
冬の魔女。
彼女が耳元で囁くごとに、彼の心と体が凍てついていく。
「…何も考えず、全て私に任せればいいの」
ヘリオの目からは涙すら流れなかった。ただ虚空を見つめ続けていた。
「…愛していますよ、ヘリオ。とっても」
スピネルはヘリオのその虚ろな両目を、後ろからそっと目隠しした。
◇
数日後。
幼いルビウスは、母スピネルに手を引かれその場所を訪れた。
「ルビウス。これからここを開けるのはあなたの役目です」
「ここは、なんですか。お墓?」
「…そうね、あの人の」
あのひと。
紫水晶の瞳が母を見上げる。ルビウスは母に導かれるままに紋章の上に手を置く。すると地下への階段が現れた。
「わ……」
二人は広大な地下神殿を、奥へ奥へと進んでいく。やがて祭壇のような場所に辿り着いた。
「ごらん、ルビウス。あれがこの国を脅かす忌まわしい獣。天候を操る『龍』です」
ルビウスの視線の先には、無数の鎖で岩盤に縫い付けられた、黄金色の巨大な龍の姿。
捕らえられた龍の王、ライだった。
そして、同じ空間に龍に向かい合うように座る一つの影。古びた玉座に座らされた、ヘリオの姿もそこにあった。
やつれ、生気を失っているが、どこか懐かしい温かな気配のする男。ルビウスの胸に刺さった氷の棘が脈打つ。
(あれ…知ってる…?)
温かい手。優しい笑顔。穏やかな声。
『――■■ウス、■■けだよ』
砂に書いた文字が打ち寄せる波に飲み込まれるかのように。
聞こえかけた懐かしい声が、黒いインクをぶちまけたように塗りつぶされていく。
『■■■■、■■■■■』
(あ、れ…?)
父であるはずの男。思い出せない。
温かいはずの場所が、冷たい空白に変わっていく。
「…母上」
ルビウスは空虚な瞳で尋ねた。
「…あれは、だれ?」
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